説教全文

2020年7月26日(日) 聖霊降臨後第八主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「天の御国の弟子となった学者」

マタイの福音書 13章44-52節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 本日の説教はマタイの福音書13章44節から52節まで。説教題は「天の御国の弟子となった学者」です。
 先々週から説教箇所は、イエス様がガリラヤ湖の湖畔で、群衆に向かって話された、天の御国の例え話の場面です。その例え話は、本日の聖書箇所を含めて7つあります。13章3節から始まる最初の例え話は、種蒔きのお話でした。種は御言葉で、道端、岩地、茨地、そして良い地の四つの地面は、それぞれ種である御言葉を受け取る人々の心を表していました。良い地に落ちた御言葉は三十倍、六十倍、百倍の実を結びました。
 以前にもお話したことが有りますが、私は46歳の時に心臓手術を受けました。心臓を開いて僧帽弁を人工弁に置き換える手術でした。集中治療室から経過観察室に移された時、私は心臓手術が成功したことを実感しました。そして私は手術を成功させてくださった神様に感謝して、後半生を神様に捧げる決心をしたのです。その時、畏れ多くも神様に聞いてみたのです。「神様。つきましては私をどのような牧師にしてくださいますか。」そうしたら答えとして、マタイ13章23節のみことばを与えて頂きました。「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」私は神様から「お前は百人の牧師を産む人か、六十人の牧師を産む人か、それとも三十人の牧師を産む人か。いずれを選ぶのだ。」と問われた思いがしました。私は、神様が下さるものは多いほうが良いと信じる人間ですから、躊躇なく「百人の牧師を産む人」を選びました。神様は全能のお方ですから、必ずこの約束を守ってくださると固く信じております。
 さて、先週の聖書箇所であった24節から始まる2番目の例え話は、一つの畑に良い麦の種と、毒麦の種を蒔かれた例え話でした。良い麦の種は御言葉で、毒麦の種は悪魔の言葉です。この二つの言葉が、畑である一人の人の心に播かれたことを表しています。全ての人はどちらの言葉を選ぶのか自由な選択権が与えられています。そして聖書の言葉、救いの言葉である御言葉を選んだ人が、確実に天の御国に導かれ、太陽のように光輝く人になることが教えられています。
 31節から始まる3番目の例え話は、からし種のお話です。からし種は非常に小さな種ですが、小さいからと言ってバカにせず、「神様の言葉であるから大事にしなくては」と、心の中で暖める人は、多くの人々のために役に立つ偉大な人になることが教えられています。
 33節から始まる4番目の例え話は、パン種のお話です。御言葉である僅かなパン種が3サトン、即ち約40ℓの小麦粉で例えられている人間の心の中に混ぜられてこねられると、全体が膨らむように、人間の心も膨らむのです。パン種は僅かだからと言いて馬鹿にせず、心の中に受け入れると、多くの人を御言葉という命のパンで養う人になることが教えられています。以上の4つの例え話は、どのように天の御国が私たちに授けられるのか、そしてその天の御国を授かった人がどのような働きをするようになるのかが、教えられていました。

 そして本日イエス様は、残る3つの例え話を通して、どのようにしたら私たちは天の御国をゲットできるのか、即ち自分のものとすることができるのかを語られました。まず44節にはこのように書いてあります。「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」
 この例えの解釈は非常に難しいものです。まさにイエス様に解いていただきたい位、難しいものです。と言いますのは、一般的に解釈すると、どうしても倫理的な問題に突き当たってしまうからです。畑の中に宝を見つけた人が、その畑の所有者の所に行って、宝の話は伏せといて、全財産をはたいて畑を買うという解釈をしますと、それで正しいのかと問われかねません。元の所有者には宝の存在を隠しているからです。あとで宝の事を知った所有者とひと悶着起こす可能性があります。
 そこである注解者は、見方を180度変えて、この様に説明しています。「畑はこの世界であり、宝はこの説教を聞いているあなたであり、宝であるあなたを見つけた人はイエス・キリストである。イエス・キリストはあなたを買うために天の栄光を捨てて、あなたを得たのです。」
 私はこの解釈を聞いて、なるほどと思いました。それでもう少し私なりに修正してみました。「畑は天の御国を求めているあなた自身です。そして畑の中に在る宝は、あなたの心です。このあなたの心を見つけた人は、『天から人の子らを見下ろして、悟る者、神を求める者がいるかどうかご覧になっておられるイエス・キリストです。』(詩篇53篇2節)天の御国を求めているあなたの心がとても素晴らしいので、イエス様は宝であるあなたをそのままこの世に隠しておいて、そして喜びのあまり、行って十字架に掛かり、持っている天の栄光全てを売り払い、あなたと言う畑を買ってくださったのです。」
 マタイの福音書7章7節と8節でイエス様は言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます。」このイエス様の言われる通り、天の御国を求める人には、天の御国をその人のものとして与えてくださるのです。またこれを反対に言うならば、天の御国を求めない人は、決して天の御国に入れていただけないと言うことです。多くの同胞である日本の方々は、天の御国を求めません。ですから多くの日本人は救われないと言うことになります。これは非常に悲しいことです。

 45節も同じように解釈することができます。「天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。」良い真珠で例えられている人は誰でしょうか。良い真珠は、同じく天の御国を探し求めているあなたです。神様はイザヤ書43章4節で、イスラエル民族をこの様に呼んでいます。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」何故イスラエル民族が神様の目には高価で尊いのでしょうか。それはイスラエル人の先祖アブラハムが主の言葉を信じからです。創世記15章6節にこのように書いてあります。「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」ここから「信仰によって人は義とされる」と言うキリスト教の根本となる真理が導き出されているのです。
 マタイの福音書3章2節で、イエス様は宣教開始の第一声に「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言われました。このイエス様の御言葉を信じた人が、イエス様の目には「高価で尊い真珠」に見えるのです。その高価な真珠を探している商人がイエス・キリストなのです。ですからイエス様はその高価で尊いあなたを買うために、行って十字架に掛かり、持っている天の栄光全てを売り払い、あなたという良い真珠を買ってくださり、天の御国に導いてくださるのです。先ほど言いましたマタイの福音書7章7節「探しなさい。そうすれば見出します。」と書いてあるように、天の御国に入りたいと探し求める人は、イエス様に導かれ、天の御国を見出すのです。

 47節と48節も同じように解釈することができます。「また、天の御国は、海に投げ入れてあらゆる種類の魚を集める網のようなものです。網がいっぱいになると、人々はそれを岸に引き上げ、座って、良いものは入れ物に入れ、悪いものは外に投げ捨てます。」ここで翻訳されている「網」とは船の上から広げて投げる「投網」でなく、前の晩から海の中に仕掛けておいて、翌日の朝に、大勢の人で岸に引き上げる「地引網」のことです。この地引網は何を例えているのでしょうか。この地引網はイエス・キリストを例えていると見ることができます。なぜならイエス・キリストは全ての人の罪のために十字架に掛かられたからです。それは全ての人々がイエス・キリストを信じて永遠の命を持つためでした。即ち全ての人を天の御国に入れるためでした。ですから地引網に入っている「あらゆる種類の魚」とは「全ての人間」の事で、「網が一杯になる」時は、この世の最後の日のこととなります。
 網が岸に引き上げられると人々は座って、良い物は入れ物に入れ、悪い物は外に投げ捨てます。49節を見ると、地引網を引き上げて、良い者と悪い者を選別する人は、御使いたちであると書いてあります。先ほどのマタイの福音書7章7節の御言葉「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」をあてはめますと、良いものとはイエス様の言葉を信じて、天の御国の門を叩き続けた人となり、悪いものとは叩き続けなかった人となります。イエス様を信じて、天の御国の門を叩き続けた人に、天の御国の門は開かれ、その人々は天の御国に導き入れていただけます。しかし、叩き続けなかった人には門が閉じられたままで、御使いたちによって、その人々は火の燃える炉に投げ込まれます。彼らはそこで激しく泣いて、歯ぎしりするのです。
 私がまだ会社員だったころ、家族で横浜に住んでおりまして、労働組合が主催する地引網大会に家族で2回参加したことがありました。開催場所は鎌倉近辺の海岸でした。地引網の綱を握って、大人も子供も一緒に力を合わせて網を海から引き上げる時は、とても楽しくて、お祭り騒ぎとなりました。一回目は大漁で、大勢の参加者であったのにもかかわらず、沢山の小魚を分けていただきました。家に帰ってから妻が油で揚げて、マリネしてくれました。翌日の日曜日にはそのマリネを教会へ持って行き、昼食会の時に皆さんと一緒に楽しみました。新鮮な魚のマリネはとても美味しい御馳走でした。2回目の地引網大会は残念ながら不漁でしたが、家族そろって楽しめたことが幸いでした。

 さてイエス様は7つの例え話を終えて、弟子たちに尋ねられました。「あなた方はこれらのことが皆分かりましたか。」弟子達は答えました。「はい。」さすがユダヤ人ですね。彼等は5歳の頃からモーセ五書の暗誦を始めて、12歳の頃にはモーセ五書全部を暗唱するようになると言われていますから、すごい記憶力を持っている人たちです。私なんぞは、ユダヤ人のレベルには到底及びません。このようなすごい能力を持っているユダヤ人全員の目が、使徒パウロのように開かれ、イエス・キリストがどなたなのかが分かり、イエス・キリストを信じるようになったら、この世の中はきっと大きく変わり、ユダヤ人を含め、世界中の多くの国の人々がイエス・キリストを信じて天の御国を目指すようになるのではないかと思われます。
 そのイエス様を信じたユダヤ人の弟子達にイエス様は言われました。「こういう訳で、天の御国の弟子となった学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものとを取り出す、一家の主人のようです。」天の御国とは父なる神様とイエス様のおられる所です。そしてそこで用いられている教科書は今私たちが手にしている神の言葉と言われる聖書です。ですから天の御国の弟子とは神の言葉であるこの聖書を隅から隅まで良く知っている人となります。その人が天の御国の学者で、その学者は聖書の中から新しい真理と古い真理を自在に取り出します。新しい真理とはまだ知られていず、以前に教えられたことの無い真理のことで、古い真理とは、長い間知られており、それもしばしば教えられている真理のことです。
 イエス様の当時は旧約聖書しかありませんでした。旧約聖書39巻がまとまったのは紀元前300年頃で、新約聖書は紀元後400年頃にまとめられたと言われています。ですから聖書は現在の形にまとまってからすでに1600年は経っていますので、多くの神学者によって多くの真理が発見されました。その中で一番大事な真理は、この御言葉では無いでしょうか。ヨハネの福音書14章6節です。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもと行くことはできません。」

 こう言う訳ですから、私達は、天の御国を求めましょう。天の御国を探しましょう。天の御国の門を叩きましょう。そうすればイエス様が私達を見つけ出し、天の御国をわたしたちに与え、天の御国に導き、天の御国の門を開いて迎え入れてくださいます。そして私たちに聖霊を与え、その聖霊が私たちに真理を教え、天の御国の弟子となる学者としてくださり、真理を知る喜びに満たしてくださいます。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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