説教全文

2020年8月9日(日) 聖霊降臨後第十主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」

マタイの福音書 14章22-33節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 本日の説教はマタイの福音書14章22節から33節まで。説教題は「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」です。
 宗教と言うものは皆、信仰を問うておりますが、中には信仰だけでなく、行いも同時に求める宗教も数多く見受けられます。その中でもキリスト教は、信仰だけを求める宗教なのですが、そのキリスト教の中にも「良い行いを求める教派」が存在することは否定できません。信仰と同時に良い行いを求めるようになると、どうしても良い行いの方に目を向けがちになります。あの人の行いは素晴らしいとか、あの人の祈りは力が有るとか、あの人は多く献金するとか、実際に目や耳で見聞きした行為で、その人の信仰を図ってしまいがちです。
 このことはルーテル教会誕生の立役者となった、マルティン・ルター当時の中世でも同じでした。マルティン・ルターはローマ・カトリック教会の中でも、信仰によって罪赦(ゆる)されて救われるという「恩恵論」を主張したアウグスチヌス派に属していたのですが、伝記によれば修道士であったルターは、修道院生活が求める「完全の勧告」、即ち、単に慈善や謹厳や愛の実行はもちろんのこと、自分の霊魂を完全に救うため、貞潔、清貧、従順、断食、徹夜、苦行等、自分の霊魂を完全に救うことができると信じられていた業(わざ)の実行に心を集中させていたそうです。「業」とはいわゆる「行い」のことです。このように中世では、「行い」が盛んに求められていたことが分かります。それで修道院に入ったルターは、時々パンをひとかけらも食べずに三日間ぶっ通しで断食し、徹夜と祈りとを規則に定められている以上に自分に課し、許可されていた毛布を脱ぎ捨てて、ほとんど死ぬほどに体を凍えさせたりしたそうです。 
 ルターは、しばしば日に幾度となく懺悔(ざんげ)をし、ある時は、一どきに6時間も続けて懺悔をしたそうです。赦してもらわなければならない罪を順々に、一つ一つ懺悔し、それだけでなく、心の中をくまなく捜して調べ、記憶を遡って動機を探り、一切の罪を網羅していることを確信するために、自分の全生涯を回想したりしたのだそうです。
 またエルフェルト参事会の代表としてローマに派遣された時、28段の階段からなるスカラ・サンクタすなわち、「聖なる階段」と呼ばれる場所を訪れました。手と膝とで四つん這いになって、一段毎に「主の祈り」を繰り返しながらこの階段を這(は)いのぼる者は、それによって霊魂が煉獄から解放される功徳を得ることができると言われていました。そこでルターは、ルターの祖父であるハイネおじいさんの魂を煉獄から救い出そうと、階段一段毎に「主の祈り」を繰り返し、そして階段にたっぷりと口づけしながら、手と膝とで四つん這いになって、這いのぼったと言われています。
 しかしルターが格闘したこれらの良い行いと言われていたものは、その後ルターが発見したローマ人への手紙1章17節の御言葉「義人は信仰によって生きる」に基づいて、人間の魂の救いには全く役に立たないものであることが分かりました。「人は良い行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされる」という、信仰義認の教理の発見によって、1517年に宗教改革が起こり、プロテスタント教会が誕生したことは、皆様御存じの通りです。そこで本日は、私たちにどのような信仰が求められているのか、共に御言葉に聞いて参りましょう。

 さて、先週私たちは、五つのパンと二匹の魚で、大人の男性だけを数えて、およそ5000人の群衆を満腹させた、イエス様の奇跡のお話を聞きました。本日はその後のお話となります。食事が終わると、イエス様はまず弟子たちを舟に乗りこませて、御自分よりも先に向こう岸に行かせ、その間に群衆を解散させておられました。23節を見ますと、意味深なことが書いてあります。「群衆を解散させてから、イエスは祈るために一人で山に登られた。夕方になっても一人でそこにおられた。」私が気になった言葉は、この23節の御言葉の中にある、「夕方になっても」という言葉です。私は「夜になっても」の間違いではないかと思い、原文のギリシャ語聖書で確認したのですが、「夕方」となっており、間違いありませんでした。というのは、私達は先週の聖書箇所の15節で、「夕方になったので」という言葉を聞いたからです。その時はまだ夕食は終わっておらず、大の男の人だけ数えても5千人もいる大群衆に、どうやって夕食を食べさせようかと、弟子たちが議論している最中でした。それから群衆の中の一人の少年が5つのパンと二匹の魚を持っていたことを探し出し、群衆を草の上に座らせ、その5つのパンと2匹の魚をイエス様が祝福して奇跡を行い、群衆全体が満腹するまで食事をさせました。ですから、多分多くの時間がかかったと思われます。それなのに、まだ「夕方」なのです。ひょっとしたら、群集が安全に帰ることができるようにと、イエス様が奇跡を起こして、ここガリラヤでは日が沈むのを遅らせたのではないでしょうか。天地創造の神様であるイエス様がそこにおられたのですから、そういうことも考えられます。

 一方、舟に乗った弟子たちはどうかというと、24節にはこのように書いてあります。「舟はすでに陸から何スタディオンも離れていて、向かい風だったので波に悩まされていた。」聖書 新改訳2017のマタイの福音書14章24節の脚注を見ますと、「直訳『多くのスタディオン』。1スタディオンは約185m」と書いてあります。「何スタディオン」という表現は1から9までの数を示すので、最大9スタディオンとすると、9×185mは1,665mとなります。新改訳聖書第三版には「何キロメートル」と翻訳されています。いずれにしても、舟は岸から大分離れており、向かい風に悩まされ続けて、前に進むことができなかったようです。前に進むどころか、押し戻されてしまうので、弟子たちは必死に漕いでいたことでしょう。風が強いと、波しぶきが立ち、舟の中にも波が入って来ます。必死に漕いでいる顔に、波しぶきが当たり、弟子たちの疲労度は高まっていた筈です。25節を見ますと、「夜明けが近づいたころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに来られた。」と書いてあります。夜明けと訳されている言葉は午前3時から6時を指すので、弟子たちは既に10時間前後、風や波と格闘していたことになります。でも舟は湖の真ん中にいて、全然進んでいないのです。弟子たちはもう疲労困憊していました。その様な時、弟子たちが見たものは、水の上を自分達の方へ歩いてくる人影でした。弟子達の一人が気付いて言いました。「おい、あれは何だ。」それを聞いた他の弟子が言いました。「あれは幽霊だ。」他の弟子たちも見て、「幽霊だ」と脅え、恐ろしさのあまり「ギャー」と叫びました。「俺たちの命もこれまで。」と観念したことでしょう。するとイエス様はすぐに近づいて来て、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。

 「しっかりしなさい。わたしだ。」というイエス様の声を聞いた弟子たちは、何と安心したことでしょうか。良く「地獄に仏」と昔から言いますが、こんな状況のことを言うのではないでしょうか。弟子たちは安堵の胸を撫で下ろし、水の上に立っておられるイエス様を見つめました。イエス様は風にも波にも妨げられず、何かしっかりとした平らな道の上に立っておられるように見えました。すると何を思ったかペテロが言いました。28節です。「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」ペテロは、近づいてくるイエス様の姿を見て、イエス様が実際に水の上を歩いておられると確信したのです。そうしたら突然ペテロの心に、「もしイエス様が同意されたのなら、自分もまた水の上を歩くことができるのではないか。それもイエス様のところまで歩ける。なぜならイエス様が水の上を歩いておられるからだ。」という大胆な確信が生じたのです。これがペテロの持つ大胆不敵の信仰でした。そのペテロの信仰は、イエス様の言葉と力の前には、「不可能はもはや不可能ではない、不可能は可能になる。」という確信に満ちたものでした。ペテロは、イエス様の命令のみが、全ての事を可能にする、と確信したのです。
 その御自分に対する、ペテロの信仰を見られたイエス様は、ペテロに言われました。「来なさい。」ペテロはひるんだでしょうか。いいえ、ひるみませんでした。大胆にもペテロは舟の縁をまたいで、水の上に片足を下ろしたのです。そうしたら、足があたかも石のように硬くて平らな物の上に着いたことを感じました。そしてもう一方の足も水の上におろしたのです。やはり足の裏から伝わってくる感触は、堅くて平らな石の上に立っているような感覚でした。おまけに今、自分が立っている所には、逆巻く波もごうごうと吹き荒れる風もありませんでした。これならイエス様の所だけでなく、何処にでも行けそうな感じがしました。つまり全く安心できる水の上だったのです。今まで長年やって来た漁師のペテロでさえ、この安心できる感触は初めてでした。

 平らな水の上に立ったペテロは、イエス様めがけて水の上を歩き始めました。他の弟子たちは、何時ペテロが水の中に沈むか心配で、ハラハラと見ていたことでしょう。あと少しでイエス様の所に着くという瞬間になって、ペテロは安心したのか、それとも気持ちが緩んだのか、風を見てしまいました。「強風を見て怖くなり」と書いてあります。イエス様から視線を外してしまいました。すると突然、自分は今、水の上にいる、舟の上ではない、波が今にも自分を飲み込もうとしている、という恐怖に襲われたのです。そしてその瞬間、ペテロの信仰は崩れ、それと同時に、足の下の堅い感覚が消え、支えが亡くなったことを感じ、ペテロは水の中にずぼーっと沈み始めました。それを見ていたほかの弟子たちは、自分たちの顔を手で覆いました。でも指を広げて、見ていたのです。彼らは、ペテロが、「主よ。助けてください。」と叫ぶ声を聞きました。
 イエス様はすぐに手を伸ばして、目の前で沈んでいくペテロをつかみ、元の水の上に立たせました。そして言われました。「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか。」イエス様は人の信仰を見られるお方です。ペテロの信仰は薄かったのです。薄いという意味は、最後まで信じ切れなかった、という意味です。外部環境によって左右される信仰であるとも言えます。僅かの疑いで崩れて行く信仰です。
 ペテロの信仰が薄い問題は、イエス様が指摘されたように、「疑った」ことです。疑いは悪魔が私たちの心に吹き込む攻撃の武器です。エデンの園でエバに対して悪魔は言いました。創世記3章1節です。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」この悪魔の言葉の意味は、こうです。「そうじゃないでしょう。園の木の、どれからでも食べていいと、神は言われたのではないですか。」この悪魔の言葉によってエバは結果的に禁断の木の実を食べさせられてしまったのです。悪魔によって、エバは心の中に、神様に対する疑いの感情を植え付けられてしまいました。悪魔の役目は私たちを神様から離そうとすることですから、私たちの信仰が強ければ強いほど悪魔の攻撃が激しくなります。ペテロが、イエス様の水の上を歩かれる姿から、イエス様の命令によって自分も水の上を歩けるという信仰を持ちましたが、悪魔から「お前はイエスの力で水の上を歩いているようだが、本当にお前の中にそんな信仰が有るのか。」と心に問われた時、ペテロは自分の信仰を疑ってしまったのです。というのはペテロの信仰はイエス様が水の上を歩く姿を見て、イエス様の命令によって自分も歩けると思いついたばかりの、生まれたてほやほやの信仰だったからです。ですからその思い付きのような信仰に対して自信が無かったのです。そこを悪魔に突かれてしまいました。
 そしてイエス様とペテロの二人が船に乗り込むと、風はやみました。このことから弟子たちは、自分達を一晩中悩ました風はイエス様が起こされたものであると、理解しました。そして、五つのパンと二匹の魚から、大人の男の数だけで五千人の群衆に食事を与えた奇跡と、今回の水の上を歩く奇跡と、そしてペテロをも水の上を歩かせた奇跡を見て、イエス様が神の子であると、漸く認識するようになりました。それでイエス様とペテロが船に乗り込むと、弟子達は「まことに、あなたは神の子です。」と言って、ひざまずいてイエス様を礼拝したのです。

 このように、イエス・キリストを信じる信仰は、人間ペテロをして、水の上を歩かせるほどの力が有ることが分かります。しかし信仰は得ることが難しく、成長させることが困難です。多くの人の信仰は、私の信仰も含め、とてもペテロの信仰には及びません。大体私は金槌で、溺れるのがせいぜいですし、普通の人は泳ぐことがせいぜいですし、人間は誰も水の上を歩くことはできません。ですから今回、人間が水の上を歩くことを可能にした程、イエス・キリストに信頼したペテロの強い信仰は、素晴らしいといっても良いのではないでしょうか。でもこのペテロの信仰にも欠点がありました。それは疑ったことです。ですからイエス様は私たちに、一時的にせよ水の上を歩くことができるほど強い信仰を持てと言われるのではなく、「疑わない信仰」を持ちなさいと言っておられるのです。子供のような信仰、純粋な信仰です。100%イエス様に委ねる信仰です。何時もイエス様と共に歩く信仰です。何かにつけて祈りつつ、イエス様の力で行わせてください、と願う信仰です。使徒パウロもテサロニケ人への手紙5章16,17、18節で私たちに勧めている信仰です。そこにこのように書いてあります。「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」この様にしていれば、イエス様から、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」と信仰の薄さを問題にされずに済みます。絶えず祈りつつ毎日を送らせていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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