説教全文

2020年8月16日(日) 聖霊降臨後第十一主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「あなたの信仰は立派です」

マタイの福音書 15章21-28節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 本日の説教はマタイの福音書15章21節から28節まで、説教題は「あなたの信仰は立派です」。
 先週、私たちは嵐のガリラヤ湖の水の上を歩かれるイエス様と、そのイエス様の許可によって、イエス様を見つめて水の上を歩くペテロの信仰を見ました。しかしペテロはイエス様の所に行き着く前に強風を見て怖くなり、水の中に沈み始めました。イエス様はペテロに言われました。「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか。」ペテロは、今自分がイエス様の力によって水の上を歩いていることを信じ通すことができず、疑ってしまったのです。イエス様を信じ通せない信仰、これが薄い信仰です。
 このペテロの信仰はまた、この世に生きるクリスチャンである私たちの信仰でもあるのではないでしょうか。これは私たちがこの世に生きていることと深く関係しています。私たち人間はこの世に生きているために、目に見えるこの世の美しさとすばらしさに心を惹かれ、何でも欲しい物を実現する富の持つ魔法の力に魅せられ、美味しい食べ物や飲み物、楽しい娯楽や満ち足りた生活に満足し、日々飽きずに過ごすことができるこの世が全て、と思い込んでしまいがちです。ですからこの世の人々は、当然イエス・キリストを信じないし、クリスチャンであっても、イエス様に全幅の信頼を置くことがなかなか難しいのです。そこで本日の聖書箇所には、このような難しい社会にあって、どのようにしたら、イエス様に全幅の信頼を置いた信仰生活を送ることができるのか、が示されていますので、共に見てまいりましょう。

 さて、本日の聖書箇所で、びっくりすることは、ユダヤ人から見たら異邦人である、カナン人の女性に対して、「あなたの信仰は立派です。」と誉めておられることです。それに対して、先週、イエス様は弟子のペテロに、「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか。」と叱っております。一体、本日のこのカナン人の女性の信仰のどこが立派なのでしょうか。
 まずこのカナン人の女性の信仰が立派である第一番目の理由は「神を求める信仰」であることです。そのことを示す言葉が、本日の聖書箇所15章21節に書いてあります。「イエスはそこを去ってツロとシドンの地方に退かれた。」ツロとシドンの地方に退かれた理由は、マタイの福音書15章1節以降の記事によりますと、エルサレムから来た、パリサイ人や律法学者たちが、いろいろとしつこく付きまとうので、彼らを避けるために、ツロとシドンの地方に退かれたのではないかと考えられています。しかし、ツロとシドンが、イスラエル国内ではなく、外国であることを考えると、別の理由が有ったのではないかと思われます。即ちカナン人の女性がイエス様を叫び求めていたからではないかと考えられます。度々引用しておりますが、聖書 新改訳2017の詩篇14篇2節には、このように書いてあるからです。「主は天から人の子らを見下ろされた。悟る者、神を求める者がいるかどうかと。」イエス様はこの当時、地上におられましたから、天から見下ろしていないのではないか、と考える向きもおられるかと思います。しかし、父なる神様は天におられます。「悟る者、神を求める者」の情報は、父なる神様からイエス様に、逐次伝えられている、と見ることができます。そうでなくともイエス様の目は、人の心を見られますから、どの人が、どこでご自分を求めているか分かるのです。ツロとシドン地方で、カナン人の女性が、ご自分を求めていることを知ったイエス様は、早速弟子たちを引き連れて出かけられた、と見るべきではないでしょうか。パリサイ人や律法学者たちがうるさいので、ツロとシドン地方に退いたら、たまたまカナン人の女性に会った、のではありませんね。広い外国の地で、待ち合わせ場所と時間を打ち合わせないで、どうして会えるというのでしょうか。しかし、カナン人の女性の祈りの声は確実にイエス様の耳に届いていました。その御自分に助けを求める祈りの声に導かれて、イエス様が尋ねて行かれたのだ、と私は見ております。ですから私たちは聖書の言葉が真実であることを正面から受け取らなければなりません。二千年前の話だからあてにできないと軽く考えないで、今現実に私たちに話しかけている言葉である、と受け取るべきです。そうでないと私たちクリスチャンは、聖書の言葉を信じないのかと世の人から更に軽く見られてしまいます。

 カナン人の女性の信仰が立派である第二番目の理由は、「イエス様が本物の神様だと見抜いた信仰」であることです。22節を見ますと、彼女はひとづてにイエス様が来られたと聞くと出て来て、「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます。」と叫び続けました。もちろん彼女の住んでいたツロやシドン地方にも、悪魔祓いをする祈祷師が居たことでしょう。しかし、どの祈禱師も、彼女の娘から悪霊を追い出すことができませんでした。人間には悪霊を追い出す力が無いからです。悪霊を追い出すことは、神様か、あるいは神様から悪霊を追い出す特別な力を与えられた人にしか、できません。マタイの福音書10章1節を見ますと、イエス様は、十二使徒たちを福音宣教に遣わすにあたり、使徒たちに汚れた霊どもを追い出す権威を授けられました。
 悪霊は、人間の中に入り込んで、精神的に、あるいは肉体的に、病的な状態をもたらす悪い霊です。ルカの福音書9章39節には、男の子に悪霊が取り付いた時の状況が記されています。「霊がこの子に取りつくと、突然叫びます。そして、引きつけを起こさせて泡を吹かせ、打ちのめして、なかなか離れようとしません。」
 カナン人の女性は、自分の娘が悪霊に苦しめられて、叫んだり、ひきつけを起こしたり、口から泡を吹いたり、打ちのめされたりしている姿を見て、為す術が有りませんでした。そんな辛い毎日の連続であったある日、風の便りに、隣国のユダヤから、ダビデの子イエスというお方が、「民のあらゆる病気、あらゆる患いを癒された。」と言ううわさを聞いたのです。マタイの福音書4章23節と24節にこのように書いてあります。「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病(やまい)、あらゆるわずらいを癒された。イエスの評判はシリア全域に広まった。それで人々は様々な病や痛みに苦しむ人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人など病人たちをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らを癒された。」
 シリアという国はガリラヤから見て北側に位置します。このカナン人の女性が住んでいたツロとシドン地方のある地中海沿岸もシリアの一部でした。そこまでもイエス様の評判は広まっていたのです。その評判を聞いたこのカナン人の女性は、悪霊でさえ追い出す、このダビデの子イエスというお方は、「人間の姿を取られた神様である」と確信を持ったのです。そして多分、心の中でこのイエスというお方に向かって「わたしの娘から悪霊を追い出してください。」と繰り返し、繰り返し、毎日祈り続けたことでしょう。そうしたらなんと、そのお方が自分の住む所に来てくださったのです。彼女の心は定まり、心の中でこの様に告白したのでは無いでしょうか。「このお方ダビデの子イエス様は、ユダヤ人の神であり主であるけれども、私の本当の神様であり私の主です。」

 このカナン人の女性の信仰が立派である第三番目の理由は、「謙遜な信仰」であることです。上から目線の信仰ではなく、仰ぎ見る信仰です。私はカナン人であって、あなたの民ユダヤ人ではないのですが、あなたからのおこぼれに与るしかない存在です、と言って身を低くする信仰です。これはイエス様を、神様と信じる信仰から来ています。私はあなたによって造られた人間で、自分が取るに足らない者である、という自分自身をわきまえている信仰です。上から落ちてくる恵みを、ひたすら待ち望んでいる心の姿です。
 ですから、このカナン人の女性は、イエス様と弟子たちの後から、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が悪霊につかれて、ひどく苦しんでいます。」と叫び続け、ただただ憐れみをお願いし続けました。まさにマタイの福音書7章7節でイエス様が命じられている通りです。聖書のギリシャ語原文では次のように書かれています。「求め続けなさい。そうすれば与えられます。捜し続けなさい。そうすれば見つかります。たたき続けなさい。そうすれば開かれます。」ギリシャ語の現在形は、英語で言う現在進行形の意味を持っています。ですから「求めなさい。」ではなく「求め続けなさい。」なのです。カナンの女性はこの御言葉通り、イエス様に「叫んで求め続けました。」
 しかし、イエス様は一言もお答えになりませんでした。なぜイエス様は一言もお答えにならなかったのでしょうか。それは彼女の信仰を弟子たちに見せるためだったと思われます。そのためには、弟子たちが彼女に対して関心を持つようになることがまず必要でした。人間は、関心を持たなければ、そこから学ぶことはしません。それでイエス様は、弟子たち自らが、何とか彼女の願いをかなえさせてあげたい、という気持ちになるのを待っておられたと言えます。案の定、弟子たちは、自分たちの後ろから、金切り声を上げて、叫び続けながら付いてくるカナン人の女性のしつこさに耐えきれず、イエス様にお願いしました。「あの女を去らせてください。」この弟子たちの言葉は、「あの女の願いを聞いてあげてください。」という意味です。そうでないと自分達は、ずっと金切り声に、悩まされるからです。
 しかしイエス様は弟子たちに言いました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」このつれないイエス様のお言葉は、どのような意味でしょうか。「イスラエル人でないあの女の願いを聞いてやることはできない。」という意味です。これは建前の返事です。実際イエス様は、マタイの福音書4章25節で、デカポリスからやってきたギリシャ人たちの病気を癒しており、また8章5節では、ローマ人である百人隊長の僕(しもべ)の病気を癒しております。イエス様はこの「わたしは、イスラエルの家の失われた羊たち以外のところには、遣わされていません。」という言葉によって、カナンの女性の信仰を高めようとしたわけではありません。そうではなく、このカナン人の女性の信仰を通して、イエス様は弟子たちに、理想的な信仰を見せようとしておられたのです。

 イエス様が立ち止まって弟子たちに答えておられる隙に、カナンの女性はすかさず、イエス様の前に来てひれ伏し、そして言いました。「主よ。私をお助けください。」大胆ですね!この女性は、頭が良く、観察力と行動力に優れています。母親として必死だったから、とも言えます。でもイエス様も、この瞬間を待っておられました。イエス様は彼女に答えられました。26節です。「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは、良くないことです。」子供たちとはイスラエル人の事であり、パンとは祝福です。そして小犬とは異邦人であるカナン人の女性のことです。
 自分のことを小犬と言われて、カナン人の女性は自尊心をけなされて憤慨したでしょうか。いいえ、憤慨しませんでした。それどころか、小犬と呼ばれて喜んだのです。自宅でペットを飼っておられる方は実感されておられると思いますが、ペットは家族の一員なのです。つまりカナンの女性は、イスラエル人の一員として認められたのです。それで答えました。27節です。ギリシャ語ではこの様に書いてあります。「主よ、その通りです。なぜなら、小犬たちでも、彼等の主人たちの食卓から落ちる、パンくずはいただくからです。」このカナンの女性は、「小犬たち」と複数形で言っています。自分一人だけでなく、自分のような境遇の人々がまだ多くいることを配慮して、異邦人に対して救いの枠を広げてくださるように、イエス様にお願いしているのです。また「主人たち」と複数形で言っています。この「主人たち」は、イスラエル人の一家の家長のことではなく、それぞれの小犬たちの世話をしてくれる複数の子供たちを表しています。小犬にとって子供たちは自分たちをかまってくれる主人なのです。つまり、イスラエルという大家族の食卓から、数多くのパンくずが落ちてくることをお願いしています。このカナンの女性の信仰は、本当に全てにおいて謙遜で美しい信仰です。
 イエス様は弟子たちに、このカナンの女性の信仰を学んでもらいたかったことが、よく分かります。それでイエス様はカナンの女性に言いました。28節です。ギリシャ語を直訳します。「おお、婦人よ、なんとあなたの信仰は偉大なことでしょう!あなたが願うその通りに、あなたに成就するように。」新改訳2017は「あなたの信仰は立派です。」と翻訳していますが、実際イエス様はカナンの女性に対して、「おお」と感動の言葉を発し、「あなたの信仰はメガです。」と言われました。「メガ」って何でしょうか。ギリシャ語の「メガ」は『偉大』という意味です。「偉大」と言われてもピーンと来ません。もう少し説明しますと、1kmの「キロ」は千倍を意味する単位ですが、その上の単位が「メガ」です。「メガ」は百万倍を意味する単位です。イエス様はカナン人の女性に対して「あなたの信仰は一般人の信仰の百万倍です。」と言われました。そして彼女の娘は、まさにその時から癒されました。

 この様に、イエス様に褒められる立派な信仰、偉大な信仰とは、第一に、いつも神様に求める信仰であり、第二に、イエス様がまことの神様であると信じる信仰であり、第三に、謙遜な信仰である、ということが分かります。ですからいつも謙遜になって、イエス様のお名前を通して、父なる神様に祈り求めましょう。私たちは神様の恵みを受けるに値しない者なのに、ただただイエス様を信じるがゆえに、神様は全ての罪を赦(ゆる)し、滅びから救い、私たちを神の子どもとして、迎え入れてくださいました。このことを忘れないで、喜びと祈りと感謝に溢れた謙遜な毎日を送らせていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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