説教全文

2020年8月30日(日) 聖霊降臨後第十三主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「自分の十字架を負ってイエスに従う」

マタイの福音書 16章21-28節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 本日の説教はマタイの福音書16章21節から28節まで。説教題は「自分の十字架を負ってイエスに従う」です。
 本日の説教題は、少し厳しさを感じさせます。十字架とは死刑の道具です。イエス様は弟子たちに対して、「自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい。」と言われました。しかしなんと、福音書や使徒書を見ても、実際に誰も本物の木の十字架を負ってイエス様に従った弟子は見当たらないのです。私は随分前に「親分はイエス様」という映画を見ました。ご覧になられた方も多いと思います。実在する元ヤクザのキリスト教伝道集団“ミッション・バラバ”をモデルにした映画で、主人公の一人が以前犯した罪を償うために、手製の十字架を担いで、日本を縦断するというお話です。行き交う人々がこの十字架を担いで歩く人を物珍しく見ておりました。衆人環視の中で、十字架を担ぐとは、なかなか度胸が感じられる行為です。
 この十字架刑が何時どこの国で始められたものなのか調べてみました。いのちのことば社の新聖書辞典では、古代民族の間に広く普及していたそうです。エジプト、フェニキヤ、アッシリヤ、ペルシャなどで、その古い形である柱が見出されているそうです。十字架刑は、長時間苦痛を与えて死に至らせる残忍な刑罰です。ローマ人はこの方法を引き継ぎ、最も重い刑罰の道具として用いました。
 この最も重い刑罰を象徴する十字架を負ってイエス様に従うとは、一体何を意味するのか、聖書に聞いて参りましょう。

 さて、私達はここ何回かの主日説教の聖書箇所で、イエス様について様々なことを聞いて参りました。まずイエス様は弟子たちに、嵐の湖の水の上を歩かれるご自分の姿を見せ、自分も水の上を歩かせてほしいというペテロの願いを聞いて、水の上を歩かせました。イエス様とペテロが船の中に戻ると風は止み、弟子たちは風も水も従えるイエス様を神様と認め、狭い舟の中で、皆、ひざまずいてイエス様を礼拝しました。次に弟子たちを外国であるツロとシドン地方に連れていかれ、弟子たちにその地方に住む母親の謙遜で真摯な信仰を見せ、「あなたの信仰は立派です。あなたが願うとおりになるように。」と彼女をほめられて、彼女の娘さんから悪霊を追い出されています。次に弟子たちをピリポ・カイサリアに連れていかれ、ローマ帝国皇帝カイザルの神殿の前で、弟子たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問われ、それに対してペテロが代表して「あなたは生ける神の子キリストです。」と信仰告白しました。
 このような出来事を通して、弟子たちの御自分に対する信仰が確定した時、即ち、御自分を神の子キリストと信じて受け入れた時、イエス様は初めて弟子たちに、ご自分がこの世に来られた任務を明かされました。21節の御言葉です。「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。」「その時」とは、もう弟子たちに御自分の任務を明かしても、弟子たちは素直に受け入れてくれる、と確信することができた時でした。21節の最後に、「示し始められた。」と書いてあるように、今回が第一回目の任務の開示でした。

 このイエス様の任務の開示に、猛烈に反応したのが、またしてもペテロです。「ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」このペテロの行為は、ちょっと前に、イエス様を神の子キリストと信仰告白した姿とは、ずいぶんかけ離れています。イエス様を、自分の仲間の一人、それも目下の者に対するように扱っています。確かにイエス様は人間となられた神様ですが、それなのにどうしてペテロはイエス様を自分の仲間の一人のように扱ったのでしょうか。それは、イエス様が「長老達、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺される。」と話していたからでした。即ちペテロは、「イエス様がユダヤ人によって殺される。」と聞いて、そこで気が動転してしまったのでしょう。それでイエス様の最後のことば「三日目によみがえらなければならない。」を聞いても、耳に入らなかったのです。「人間は死ねば終わり」と受け取ったんでしょうね。例え耳に入り、三日目に復活すると聞いても、そんなに短期間に人間が復活するとは、にわかには信じ難い事でした。
 それでペテロは言いました。22節です。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」この22節の脚注を見ますとこの様に書いてあります。「直訳『あなたにあわれみが有りますように。』」ですから、本文の「とんでもないことです。」という翻訳はかなり意訳していることが分かります。
 弟子たちは、イエス様が神様であり、キリストであると信じてはいましたが、また人間でもあることも信じて疑わなかったのです。そしてこのお方なら、何時の日かローマ帝国から独立を勝ち取り、イスラエルの国を、昔、ダビデ王が治めていた時のように、一つの国家として、地位を回復してくださる筈だ、と望みをかけていました。ルカの福音書24章には、そのことがはっきりと書かれています。エマオへ帰る二人の弟子たちに、復活されたイエス様が現れ、この二人の弟子からいろいろ聞き出しています。その中でクレオパという弟子が、この様に言いました。ルカの福音書24章21節です。「私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。」また使徒の働き1章には、イエス様が昇天される場面が記されています。その6節で使徒達はイエス様にこのように尋ねています。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか。」この様に一般の弟子たちのみならず、十二使徒達の頭の中でさえも、イエス様を救世主ではなく、「救国主」、つまり「国を救う主」であると信じており、最後の最後まで望みを捨てなかったことが分かります。つまり弟子たちは、イエス様を神様である前に、人間であると信じていたのです。この人間になられた神様が付いていれば、何時の日かイスラエルは独立できると、大きな望みをかけていたことが分かります。
 しかしイエス様は、その十二使徒の一人ペテロに対して言われました。23節です。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」サタンとは悪魔のことです。かつてイエス様は、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けられ、救い主に就任された直後に、御霊に導かれて荒野に行き、この悪魔から試みを受けられています。荒野で悪魔から3回目の試みを受けられた時、イエス様は悪魔にこのように言われました。マタイの福音書4章10節です。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」ここからわかることは、使徒ペテロの行っていることは、悪魔に導かれて行っているということです。ですからイエス様はペテロをサタン呼ばわりし、「わたしをつまずかせる者だ。」と非難しているのです。「つまずかせる」と翻訳されている言葉は、「罠にかける」とか「罪を犯させる」という意味のギリシャ語です。イエス様を罠にかけて動けないようにして、人間の救いの任務を妨害することを意味しています。ペテロを始めとして使徒達もその他の弟子たちも皆、誰も彼もが、イスラエルの独立という人間的な望みを夢見ていたのです。イエス様の願う人類の救いという神様の計画は、まだ弟子たちに受け入れてもらえませんでした。

 この様なイスラエルの独立という人間的な望みに、深―く囚われている弟子たちが、神様のご計画である人間の救いを願うように変わっていくために、イエス様が取られた方法が、24節の言葉でした。イエス様は弟子たちに言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」イエス様はこの御言葉によって、御自分に付いて来る人の資格を明確に述べられました。その資格とは二つです。一つ目は自分を捨てること、二つ目は自分の十字架を負って従うことです。
 まず「自分を捨てる」とは、自己否定ではありません。「自分を捨てる」とは、罪深い古い自分を脱ぎ捨てることです。そして自分の十字架を負うとは、新しい自分を着ることです。エペソ人への手紙4章22節から24節にこのように書いてあります。エペソ人への手紙4章22節から24節をご覧ください。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」生まれつきの人間は、人を欺く情欲によって腐敗しています。この腐敗している状態を一新するために必要なのは、悔い改めて、「神様、私の罪を赦して下さい。」とお願いすることです。これが自分を捨てることです。
 そして、お願いすれば神様は、あなたの罪を赦し、あなたを義としてくださり、新しい人を着させてくださいます。これが自分の十字架を負うことです。あなたが負う新しい十字架には、古い自分が掛けられているのです。使徒パウロはガラテヤ人への手紙5章24節でこのように言っています。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。」ですから、人は、悔い改めることによって、罪人という古い自分を十字架に付けるのです。そしてイエス・キリストから罪の赦しの宣言をしていただき、義人という新しい人を着せていただき、古い自分が張り付けられた十字架を負う者となるのです。この人がイエス様に従うことを赦される人です。
 イエス様は25節と26節で自分の十字架を負う人と負わない人の行く末を示されました。まず25節です「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。」「自分の命を救おうと思う者」とは、自分の十字架を負わない人のことです。この世の肉の命、即ち寿命を延ばしたいと願う人ことであり、この世に執着する人のことです。しかし残念ながらこの世の命は最長120年と定められおり、多くの人はその年齢に達する前に亡くなっていきます。その行き着く先は、恐ろしいことに地獄です。反対に、「私のために命を失う者」とは、自分の十字架を負う人の事です。その人はこの世における命を堪能し、そしてこの世の命が終わる時には、天の御国に迎い入れられ、神様の御前で永遠なる人生を楽しむことができるのです。
 次に26節です。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。」この26節で言われている人は、自分の十字架を負わない人のことです。この世の命は短いのです。その短い人生の間に、たとえ全世界を儲けても、自分の命が尽きたら、そこで「万事休す」です。

 そして、多分、自分の十字架を負うことをためらっている人たちに警告しておられるのでしょう。イエス様は27節で、この世には終わりが有ることを預言されました。「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。」聖書によれば、この世の終わりには、人の目に見える姿で、人の子であるイエス様が、雲に乗られて、燦然と輝く御父の栄光を帯びて、御使い等と共にこの地上にやって来られます。その再臨されたイエス様の前に、今まで地上に生きていた全世界の人々が復活させられ、集められ、それぞれの行いに応じて裁かれます。その時、自分の十字架を負わなかった人々と、自分の十字架を負った人々に分けられます。自分の十字架を負わなかった人々は、この世の命が尽きた時、死を経験し、さらに イエス様によって裁かれ、御使いたちによって地獄に投げ込まれ、第二の死である永遠の死を経験します。
しかし自分の十字架を負った人々は、この世に生きている間に、永遠の命を与えられていますから、この世の命から永遠の命へとスムーズにつながれ、命の断絶が有りませんので、この世の命が尽きる時、イエス様がお迎えに来てくださり、天の御国に導いてくださいます。28節には「まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」とあります。人間的に見れば、この世の命が尽きた時、死んだことになりますが、永遠の命が与えられている本人にとっては、この世から天の御国に運ばれただけなので、「死を味わわない」のです。この様な意味で、自分の十字架を負った人は、死を経験することが有りません。

 こう言う訳ですから私たちは、皆、自分を捨て、自分の十字架を負って、イエス様に従っていきましょう。生まれつきの人間は、皆、罪に満ち、腐敗しています。ですから全ての人は、自分の罪を悔い改めて、「神様、私の罪を赦して下さい。」とお願いすることが求められています。これが自分を捨てることです。求めれば、神様は優しい方ですから、あなたの罪を直ちに赦してくださいます。そしてあなたを義としてくださり、あなたに新しい人を着せてくださいます。これが自分の十字架を負うことです。その新しい人が負う十字架には古い自分が掛けられているのです。その古い自分がけれられている十字架を負う人は、罪赦されていますから、永遠の命を与えられ、この世の命が尽きる時には、イエス様が迎えに来てくださり、天の御国に導いてくださいます。ですからこの人は決して死を味わうことが有りません。こういう訳ですから、悔い改めてイエス・キリストを信じ、罪赦され、自分の十字架を負ってイエス様に従い、様々な災難に満ちたこの世の人生を、万軍の神イエス様に守られて、安心安全に楽しく過ごさせていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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