説教全文

2020年9月20日(日) 聖霊降臨後第十六主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「最初の人も最後の人も同一賃金」

マタイの福音書 20章1-16節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 戦後日本の雇用制度は終身雇用制で、よほどの不祥事が無ければ定年まで勤めることができました。私の様な団塊世代は、その恩恵を受けました。ところが1986年に労働者派遣法が施行され、1991年にバブル経済がはじけてしまった後、2004年の二度目の改正によって、更に多くの非正規社員が生まれ始めました。正規社員と非正規社員の給与や待遇の差は年ごとに開き始め、16年後の現在、その待遇差は大きく開いています。この不合理な待遇格差の解消を目指す考え方が「同一労働、同一賃金」なのですが、これに関する法律が改正され、今年の4月から漸く「同一労働、同一賃金」の運用が始まったとはいえ、まだまだ大きな開きが有ります。こんな不安定な雇用形態にある非正規雇用労働者の割合は、昨年度の統計では38%だそうです。この日本の社会を支えている労働者の4割近くが非正規労働者なのです。非正規労働者の場合、失業したら生活が突然苦しくなります。さらに、このコロナ・ウィルス感染症の中に在って、真っ先に解雇されるのは非正規労働者です。多分、今まで以上に苦しんでいる大勢の非正規労働者の方々が、おられることと思われます。
 この度新しく誕生した菅総理大臣は、総裁選の立候補の所信表明の記者会見で、目指す社会像として「自助、共助、公助」を掲かかげました。この言葉は、自分でできることはまず自分でやり、家族・地域がお互いを助け合い、そのうえで政府が対応するという意味と言われています。しかし、蓄えも少なく、失業保険も満足に受けられない非正規雇用の人々は、仕事を失ったどうやって自らを助けることができるというのでしょうか。菅新内閣に於かれましては、まず一番弱い人々に目を注ぎ、弱者救済のための社会的ネットワークを手厚く張る改革を、断行していただけるようにと願っております。

 さて、本日の聖書箇所は、天の御国を自分のぶどう園を持つ家の主人に例えた、例え話です。しかし、この例え話が何を説明しているのかが判然としません。日本語の聖書には前後関係が示されている言葉が無いからです。そこで原文のギリシャ語聖書で確認すると、本日の聖書箇所の出だしである20章1節の冒頭に、「というのは」という理由を述べる言葉γάρ(ガル)が原文のギリシャ語聖書には書かれています。この「というのは」という言葉から、本日の例え話は、その前に起こった一人の大金持ちの青年の質問に端を発するイエス様の答えであることが分かります。
 大金持ちの青年はイエス様に尋ねました。19章16節です。「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」イエス様は答えられました。21節です。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」イエス様はこの言葉によって、「永遠の命を得る方法は、良い行いをすることではなく、御自分を信じ、御自分に従うことである」と言われました。大金持ちの青年はこのイエス様の言葉を聞くと、悲しみながら離れて行きました。そこでペテロが弟子たちを代表してイエス様に聞きました。27節です。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」この「捨てる」という意味は「イエス様を一番目にし、他のものは二番目にする」という意味であって、文字通りに捨てたのではありません。本当に父母を捨てたら、モーセの十戒の第四戒「あなたの父や母を敬いなさい。」を犯す事になります。そういうわけで弟子達は家や家族や仕事を捨ててイエス様に従って来ましたが、まだイエス様から、天の御国に入れる保証の言葉を頂いてはいませんでした。イエス様は28節で弟子たちにはっきりと、「新しい世界で、弟子たちも12の座に着いて、イスラエルの12の部族を治める。」と明言されました。そして29節で、弟子たちだけでなく全ての人々に対して、「わたしの名のために、家と父母と家族と財産を捨てた者は皆その百倍を受け、永遠のいのちを受け継ぐ。」と言われました。
 しかし、但し書きを付けられました。30節御言葉です。「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。」この御言葉は恐ろしい意味を含んでいます。重要な単語は「先になる」と「後になる」です。「先になる」とは「天の御国に入る」ことを意味しています。しかし「後になる」とは「天の御国に入れない」ことを意味しているからです。

 この「天の御国」に例えられている家の主人は、自分のぶどう園で働く非正規労働者を雇うために、朝早く市場に出かけました。朝早くというのは日の出前のことです。というのはユダヤの国の労働時間は、先週もお話ししましたが、日の出から日の入りまでの約12時間であるからです。日の出前に、労働者と一日1デナリの契約が成立すると、家の主人は自分のぶどう園に労働者を送りました。1デナリは現在の価値に換算すると約1万円です。しばらくしたらぶどう園の監督からもっと労働者を送って欲しいとの連絡が来たのでしょうか、家の主人は九時頃市場に出かけて行き、何もしないで立っている人たちに「相当の賃金を払うから、私のぶどう園に行きなさい。」と言って送っています。「相当の賃金」とは「労働時間割の賃金」、即ち9時間分の賃金のことでしょう。それでもまだ労働者が足りなかったのでしょうか。12時頃と3時頃に市場に行って、何もしないで立っている人たちをぶどう園に送っています。その時労働者に、「相当の賃金を払うから」と言ったことでしょう。それでも人手が足りなかったのでしょうか。1日もあと1時間で終わろうとする午後5時頃に市場に行って、何もしないで立っている人たちを見つけ、「あなたがたもぶどう園に行きなさい。」と言って、ぶどう園に送っています。
 まもなく日が沈もうとする午後6時頃、ぶどう園の主人は監督に言いました。「労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。」賃金を最初に受け取りに来たのは、午後5時頃働きに来た人たちでした。1時間しか働かなかったのに、1日分の賃金1デナリをいただきました。次に午後3時頃に働きに来た人たちが、3時間しか働かなかったのに、やはり1日分の賃金1デナリずつ受け取り、次に12時頃に来た人たちが、6時間しか働かなかったのに、1日分の賃金1デナリずつ受け取り、次に午前9時ごろに来た人たちが、9時間しか働かなかったのに、1日分の賃金1デナリずつを受け取りました。そして最後に、午前6時頃に来た最初の労働者たちが、12時間働いた報酬として、それぞれ契約通りの賃金1デナリずつを受け取りました。
 ところがこの最後に1デナリ受け取った労働者たちは、ぶどう園の主人に対して、不満を漏らしました。「最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。」一般的に考えれば、この労働者たちに言い分はもっともと聞こえます。しかし家の主人はその一人に答えました。13節から15節です。「友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、1デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。」この最後の15節後半の言葉は15節の脚注の「直訳」と書いてある言葉に置き換えるとこうなります。「それとも私が良いので、あなたの目が邪悪なのですか。」主人はこの言葉によって、次のように言ったのです。第一に、私は契約通り一日1デナリ支払っている。第二に、私は自分のものを自分のしたいようにしている。第三に、私の行為は正しいのに、それを見ている人の目が邪悪と判断するのは、見ている人の心が邪悪だからではないのですか、と言われたのです。それでは、この「目が邪悪な」労働者たちとは、一体、誰を例えているのでしょうか。

 その前に、朝9時の労働者、12時の労働者、午後3時の労働者、そして夕方5時の労働者は具体的に誰を例えているか決めていきましょう。それは異邦人ですね。特に夕方5時の労働者はこの世の終わりに救われた人達ではないでしょうか。そして労働者全員が頂いた1デナリは何を意味していたのでしょうか。現金ではありません。それでは何でしょうか。覚えておられる方もおられると思いますが、私は3年前この場所で、この聖書箇所から説教した時、1デナリは「神の義」であると言いました。イエス・キリストを信じる者に与えられる義です。ローマ人への手紙3章22節に書いてあります。「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」イエス・キリストを信じる人には、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、差別なくこの神の義が与えられると書いてあります。それでは同じユダヤ人であってもまた異邦人であっても、イエス・キリストを信じなければ、神の義は与えられないのでしょうか。いいえ、与えられました。それはイエス・キリストが、古今東西の全ての人のために十字架に掛かってくださったからです。全ての人間に平等に神の義が与えられているのです。ここで重要なことは、この全ての人に与えられているこの神の義を、自分に与えられた1デナリとして受け取るのか、それとも受け取らないのか、が問われています。イエス様は例え話の中の朝6時の人は、自分に与えられたものに対して満足しなかったのです。ローマ人への手紙10章3節には多くのユダヤ人達がこの義を受けとろうとせず、神の義が何の役に立つのかと、あなどったことが書いてあります。「彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。」ですから、「目が邪悪な労働者たち」とは、ユダヤ人たち、特に、当時イスラエルの国を動かしていた、大祭司や、祭司長たちや、律法学者やパリサイ人たちだと思われます。同じように私たち日本人もほとんどの人がイエス・キリストを信じようとせず、自分の目の前に差し出されている神の義を自分のものとして受け取ろうとしていません。
 神の義とは、その名の通り、イエス・キリストを信じることによって父なる神様から与えられる義です。即ち罪赦(ゆる)され、罪が無いと父なる神様から認定されることです。今私共が使用している車は間もなく車検を受けなければなりません。車検を受けてパスすれば、合格した証明書である車検証が渡され、また2年間道路の上を走ることができます。同じように神の義を与えられた人には、「神の義」と書かれたパスポートが授与され、天の御国に入ることが許されます。しかしユダヤ人をはじめ多くの異邦人は自らの義を立てて、「神の義」というパスポートを自分に宛てられたものとして受け取らなかったのです。

 このようにイエス様は、天の御国の例え話を通して、始めの人も最後の人も、古今東西の全ての人にもれなく、同一賃金1デナリで例えられている「神の義」という神の国への入国パスポートを与えられました。しかしユダヤ人をはじめ多くの異邦人は、私たち日本人も含め、イエス・キリストを信じて何になると言って、自分に与えられたものとして受け取らず、このパスポートをただの紙切れとみなし、屑籠に捨ててしまっています。けれども「神の義」というパスポートは、まだあなたの屑籠の中に在ります。神様はあなたに、「あなたの分を取って帰りなさい。」と命じておられます。屑籠からこのパスポートを取り出し、中を開いて書いてある名前に注目しましょう。そこにはあなたの名前が書いてあるのです。神様はあなたを忘れてはおりません。ぜひ神様から差し出された「神の義」というパスポートを抱きしめ、天の御国への道を歩み出してください。イエス・キリストを信じる人は誰でもこの世において、天の御国に入国できます。この世において天の御国に入るということは、神様によって闇から光の中に導き出されることを意味しています。ぜひとも神様に守られ、導かれ、平安に満たされ、光輝く人生を送らせていただきましょう。そして既にこの「神の義」パスポートを手にいれている方は、まだ入手していない方に、「あなたにも、天の御国へ入国するために必要な『神の義』というパスポートが発行されているのですよ。是非とも手に入れてください。」とお勧めしましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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