2020年10月11日(日) 聖霊降臨後第十九主日
聖書箇所 | 説教全文 |
---|
説教全文
「選ばれる人は少ない」
マタイの福音書 22章1-14節
牧師 若林 學
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。
本日の説教はマタイの福音書22章1節から14節までで、説教題は「選ばれる人は少ない」です。そして本日のテーマは、「どうしたら選ばれて天の御国に入れるようになれるのか」です。
このところ毎週のように、天の御国に関する例え話が続きました。天の御国に入るには、まず各人に既に配布されている「神の義パスポート」を探し出すことが求められています。この「神の義パスポート」は、西暦30年頃にイエス・キリストがイスラエルの国のエルサレムにあるゴルゴダの丘で十字架に掛けられ、亡くなられた瞬間から、この世に生まれた古今東西の全ての人宛に発行されてきました。まさに全ての人が天の御国に招かれているのです。
しかしこの「神の義パスポート」を持っていれば誰でも、天の御国に入れるわけではなく、そこに「入国許可」のハンコが押されていることが必要であるというお話しもしました。ところが今、日本では、政府がこのハンコを公の場からなくそうという、デジタル化推進の方向なので、このお話は時代遅れの感が否めません。ですから、入国許可のハンコも近々消えることになるでしょう。しかし、代わりにデジタルで入国を許可する印が記録されるので、実質的には何も変わってはいません。でも手続きは早くなります。
それでは、「神の義パスポート」を持ち、悔い改めてイエス・キリストを信じて洗礼を受け、「入国許可」のハンコを押していただくことの他には、あとは何が必要なのでしょうか。その必要とされている最後の一つを、イエス様が本日の例え話の中で教えておられますので、共に聞いて参りましょう。
さて本日のイエス様のお話は、天の御国を、王子の結婚の披露宴を催した王様に例えたお話です。この例え話でイエス様は、御自分が昇天された後、伝道の働きが弟子たちから弟子たちへと受け継がれ、伝道する範囲もエルサレムからユダヤやサマリヤへ、そして全世界に広がり、その伝道によって天の御国に入国する人が増えていくことを預言しておられます。
天の御国への入国は、ある意味で、キリストとの結婚とも言えます。使徒パウロはそのコリント人への第二の手紙11章2節で、この様に言っております。「私は神の熱心をもって、あなたがたのことを熱心に思っています。私はあなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために婚約させたのですから。」このパウロの言葉から、クリスチャンは、まさにイエス・キリストの花嫁であることが分かります。ですから、クリスチャンが天の御国に入国するということは、イエス・キリストと結婚することを意味しています。この言葉を聞いて、中には「私は重婚しているのかしら」と心配する方がおられるといけないので、申し上げておきますが、イエス・キリストとの結婚は、天上の霊的なものであって、私たちのこの世の肉的な結婚とは異なります。既婚者がキリストを信じたからと言って、決して姦淫の罪を犯すものではありませんので、ご安心ください。
さて本日の聖書箇所の3節でイエス様は言われました。「王は、披露宴に招待した客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来ようとしなかった。」まず、この3節で言われている「お客」とは一体誰を指しているのでしょうか。「お客」という言葉を聞いて私たちは、花婿や花嫁の親せきやそれぞれの友人を想像してしまいます。それで原典のギリシャ語聖書を見ますと、「お客」という言葉は「招待されていた人たち」と書いてあります。ちなみに口語訳聖書では「招かれていた人たち」又聖書協会共同訳では「招いておいた人々」と忠実に翻訳されております。「招待されていた人たち」の中には「お客」も含まれますが、しかしこの例え話は2節で言われているように、天の御国の例え話ですから、この地上の結婚披露宴を当てはめることができません。ですから第三者であるお客ではなく当事者である花嫁のクリスチャンとなります。
また3節で登場する「しもべたち」とは、聖霊降臨後に始まったユダヤ宣教の担い手であった使徒たちのことでしょう。そして王様が「招待されていた人たち」とは当時のユダヤ地方に住むユダヤ人となります。父なる神様主催の「結婚披露宴」に出席することは、御子イエス・キリストと結婚することを意味しますから、ユダヤ人がユダヤ教からキリスト教に改宗することを意味します。しかし、当時のユダヤ人の指導者たちの中にもイエス様を信じる人は多くいましたが、会堂から追放されることを恐れて、イエス・キリストを告白しませんでした。ヨハネの福音書12章42節にこのように書いてあります。「しかし、それにもかかわらず、議員たちの中にもイエスを信じた者が多くいた。ただ、会堂から追放されないように、パリサイ人たちを気にして、告白しなかった。」ですから、3節の後半にあるように、王子の結婚の披露宴に「彼らは来ようとしなかった。」のです。
このユダヤ人の冷たい反応にめげず、王である父なる神様は、今度は別のしもべたちを遣わします。使徒達とは違う別のしもべたちですから、使徒達の次の世代のことでしょう。この人たちは多分、使徒たちの指導のもとに選ばれた執事たちと思われます。使徒の働き6章1節から6節には、使徒達を補助する執事たち選出の様子が描かれています。執事としてステパノやピリポら7人が選ばれました。その6節には、特にステパノが「恵みと力に満ち、人々の間で大いなる不思議としるしを行っていた。」と記されています。ユダヤ人の指導者たちはこのステパノが語る時の知恵と御霊に対抗することができず、偽証する人々を立ててステパノが「あのナザレ人イエスは、この聖なる所を壊し、モーセが私たちに伝えた慣習を変える」と言うのを聞いたと言わせました。(使徒6章11~14節)この偽証した人々の言葉は、皮肉にも、その40年後の西暦70年に成就してしまいます。西暦70年、エルサレム神殿はローマ軍によって壊され、ユダヤ教は心のよりどころを失い、事実上モーセが伝えた慣習を終わらせました。一方、偽証されたステパノはサンヘドリンあるいは最高法院と呼ばれるユダヤ教の議会でユダヤ人の指導者たちに対して、自分たちが信じているお方が誰なのかを証言し、指導者たちも信じるようにと導きます。使徒の働き7章56節です。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」このステパノの言葉は、この様に言っているように聞こえます。「ご覧ください。今、天の御国では、父なる神様がその右に立っておられる御子イエス・キリストのために準備された、結婚の披露宴が整った所です。父なる神様は食事を用意されました。雄牛や肥えた家畜を屠り、何もかも整いました。指導者の皆様、どうぞ披露宴においでください。」
しかし5節に書いてある通り、「彼らユダヤ人の指導者たちは気にもかけ」なかったのです。ユダヤ教の指導者たちが、神様に関して全く関心を持たなかったということは驚くべきことです。その理由が続けて書いてあります。「ある者は自分の畑に、別の者は自分の商売に出て行き」。彼らは畑の収穫に関心があり、商売の収益に関心があったのです。永遠の神様よりも、神様が育ててくださる作物の出来高に一喜一憂し、大きな商取引のもうけに目の色を変えていたのです。こういう人はユダヤ人だけでなく日本人の中にも大勢います。イエス様はマタイの福音書6章24節で「あなた方は神と富とに仕えることはできません。」と言われました。神様であるお方を信じるよりも、神様が造られた富を信じていたのです。ですから日本人も同様ですが、多くのユダヤ人は富を信じており、神様には興味がありませんでした。更に厄介な人たちが6節に書いてあります。「残りの者たちは、王のしもべたちを捕まえて侮辱し、殺してしまった。」ステパノはユダヤ人によって石打の刑に処され、殺されてしまいます。ステパノが殺された日、エルサレム教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外は皆、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされてしまいました。(使徒の働き8章1節)
このように、神の民と呼ばれていたユダヤ人が、頑なに御自分に反抗することを御存じの神様は、御自分の心の思いを本日の聖書箇所の8節で述べています。「それから王はしもべたちに言った。『披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった。』」ユダヤ人たちが「王様から届いた披露宴への招待」を、拒否した」ので「ふさわしくなかった」のです。でも信仰深いアブラハムに思い入れのある神様は、その子孫であるユダヤ人に特別の愛着をお持ちです。そのことはパウロがローマ人への手紙11章1節で述べています。「それでは尋ねますが、神はご自分の民を退けられたのでしょうか。決してそんなことはありません。この私もイスラエル人で、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の出身です。」それではユダヤ人が完全に退けられていない理由はどこにあるのかと言いますと、今お読みしましたローマ人への手紙11章11節をご覧ください。この様に書いてあります。「それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。」この言葉から、ユダヤ人が背いたのは、異邦人が救われるためであって、その結果ユダヤ人も妬みを起こして、救われるためである、と使徒パウロは説明しています。ユダヤ教は本来キリスト教でした。ユダヤ教も本来、信仰義認の宗教だったのです。しかし、その後の長い歴史の中で、信仰が形ばかりの物となり、行為によって律法を守るという行為義認の宗教に変質してしまいました。それは多分、様々な規定からなる宗教儀式に、がんじがらめに縛られていたので、宗教儀式の順守が重んじられた結果と言えます。つまり、神様がモーセ五書をユダヤ人に与えて守るように命じられたので、信仰第一のキリスト教が信じられなくなり、結果的に異邦人が救われ、その異邦人が救われた結果を見て、ユダヤ人が救われるようにされた、ということです。
その異邦人伝道をイエス様は本日の聖書箇所の9節と10節で命じています。「『だから大通りに行って、出会った人をみな披露宴に招きなさい。』しもべたちは通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った人をみな集めたので、披露宴は客でいっぱいになった。」「大通り」と翻訳されているギリシャ語は、「終点」とか「出口」を意味する言葉で、自分の町から出発して国の外れ迄行くと、自国と隣国との境界に来ます。そこが自国の「終点」であり自国からの「出口」なのです。その出口や終点は、また隣国にとっても終点であり、他国への出口でもあるのです。つまり出口や終点に行くと、隣国の人々と会えるということです。その出会った人たちを誰でも自国に連れて来て、披露宴に招きなさいと王様は言われました。海に囲まれた日本とは違って、大陸に生活する国々は、陸続きの国境をもっています。ですからこれは外国伝道しなさいという意味です。
しもべたちは外国伝道を行ってイエス・キリストを宣べ伝え、良い人でも悪い人でも改心に導き、洗礼を受けさせ、クリスチャンとしたのです。しもべたちはその外国人たちを多く連れて戻り、婚礼の礼服を着せ、披露宴の会場に案内し、会場を満たしました。
王様は披露宴会場が招待客で満席になったことを告げられたので、招かれたお客を見ようとして会場に入って来ると、予想だにしなかったものを見てしまいました。それは婚礼の礼服を着用していない男性が一人居たことでした。この人はしもべが連れてきた外国人ではなく、興味本位でその後をついて来た人でした。ですから、しもべの指導を受けて悔い改めをし、イエス・キリストを信じて洗礼を受けた人ではありませんでした。しかししもべは披露宴会場に迄ついて来る人をむげに断ることもできず、さりとて婚礼の礼服を着せることもできず、そのままにしておいたのです。12節で王様はこの男に言いました。「友よ。どうして婚礼の礼服を着ないで、ここに入って来たのか。」この王様の問いに男性は、「しかし彼は黙っていた。」のです。この男性の態度を原文のギリシャ語で見ますと「しかし彼は黙らされていた。」と受身形で書かれています。即ちこの男性には「どうして」と問われても、それに対する答える理由を持っていなかったのです。つまり答えに窮したのです。私たちの人間社会で言えばパスポートに「入国許可」のハンコが無かったのです。つまり、正規の入り口を通って入国したのではなく、国境の破れ目から入って来たのです。天の御国にそのような破れ目があるかどうかわかりませんが、少なくとも正式な入国許可を得て入って来たのではないことは確かです。この正式な入国許可証とは何でしょうか。それは悔い改めです。イエス様はマタイの福音書4章17節で言われました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」悔い改めることが、天の御国に入国許可される条件なのです。悔い改めるとは、自分の罪を認め、その罪の赦(ゆる)しを神様に願うことです。これは一人一人の心の問題で、その人が悔い改めたのかどうかは人間にはわかりません。神様のみがご存知です。ですから王様の目だけに、この悔い改めていない男性が婚礼の衣装を着けていないことが見えたのです。王様はわが子の披露宴を台無しにする狼藉者を放っておけず、直ちに召使たちに命じて、手足を縛り、悔い改めていない人にふさわしい場所、すなわち外の暗闇に投げ出すように命令されました。外の暗闇とは、天の御国の反対ですから、地獄となります。この地獄に男性を投げ落とす霊的力を持つ召使は、天使達です。
こういう訳で、婚礼の披露宴に例えられている天の御国に人が入るということは、人がイエス・キリストと結婚することを表し、その人は「悔い改め」を表す婚礼の礼服を着せられなければなりません。この婚礼の礼服とは、本日の入祭唱で歌ったイザヤ書61章10節で預言されているイエス・キリストを信じる時に与えられる「救いの衣」であり「義の外套」です。「私は主にあって大いに楽しみ、私のたましいも私の神にあって喜ぶ。主が私に救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。(イザヤ書61章10節)」ですから、悔い改めて、イエス・キリストを信じた人は、皆、義とされ、その義であることを示す、「救いの衣、義の外套」を着せられるのです。
そして最後にイエス様は言われました。14節です。「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」本日の例え話で、イエス様はユダヤ人を対象に、何とかご自分を信じてもらい、義の外套を着せて天の御国に導きたいと願っていました。しかしユダヤ人は僅かの人しかイエス様を受け入れず、多くのユダヤ人がイエス様を拒み、自ら天の御国にふさわしくない者、選ばれない者となりました。同じ様に異邦人も全員天の御国に招かれています。神の子イエス・キリストが十字架に掛かってくださったので、全ての人の罪が赦されているのです。しかし、この罪の赦しを自分のものとするためには、自分の罪のためにもイエス・キリストが十字架に掛かられたことを信じなければなりません。けれども今日、日本人1億2千万人の内約100万人しかクリスチャンはおりません。1%もいません。日本人全員が天の御国に招かれていますが、選ばれる人は非常に少ないですね。まさにイエス様の言われる通りです。
このように、私たち日本人も全員イエス・キリストの婚礼の披露宴に招かれています。この婚礼の披露宴に選ばれて出席するためには、まず悔い改め、イエス・キリストを信じ、罪の赦しを与える洗礼を受け、「救いの衣、義の外套」を着せられ、イエス・キリストの花嫁となることです。悔い改めることも、信じることも、洗礼を受けることも、お金がかかりません。天の御国への入国に関する費用が無料なのは、人間には払うことができないからです。だからと言って誰もが無料で天の御国に入れるわけではありません。最終チェックがあります。それは悔い改めているかということです。悔い改めていなければ、いくらイエス・キリストを信じていると言っても、いくら毎週礼拝に出席していると言っても、いくら多くの献金をしたからと言っても、神様の目を逃れることはできません。宗教改革の創始者マルチン・ルター博士は「95個条の提題」で言いました。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ…』と言われた時、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」悔い改めは、信仰に入る最初に必要ですが、さらに毎晩必要です。夜寝る前に、誤って犯した罪の赦しを神様にお願いしましょう。そうすれば私たちの人生は、この世に在って天の御国に入っている生活、神様に守られた生活となります。
ですから、多くの人にイエス・キリストを伝えて、悔い改めに導き、「救いの衣、義の外套」である婚礼の礼服を着せていただき、共に天の御国に入る者とさせていただきましょう。そして何時の日かイエス様に、「日本から選ばれる人は少ないですね」と言われないようになりたいものですね。
全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
©2020 Rev. Manabu Wakabayashi, All rights reserved.
聖書箇所 | 説教全文 |
---|