説教全文

2020年11月1日(日) 全聖徒の日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「涙をことごとくぬぐい取られる」

ヨハネの黙示録7章9-17節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方の上にありますように。アーメン。

 本日の話題は「天の御国」です。私たち、イエス・キリストを「救い主」と信じる信仰者も、何時の日にか天の御国に召されます。天の御国に着いたら私たちは、イエス様を始め、アブラハム、モーセ、ダビデ、エリヤ、マタイ、パウロ、その他大勢の聖書に登場する有名人たちとも会えます。楽しみですね。
 天の御国にはあまりにも大勢の人が入国しているので、ある方にとっては、初対面の人がどなたか分からないので嫌だと思われるかもしれません。でもご安心ください。イエス様が高い山の上で天の御国の姿に変わり、そこに現れた二人の人とお話をされた時(マタイ17章)、イエス様に随行したペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちは、イエス様と話している二人の人が、モーセとエリヤであることを、旧知の人ように分ったのです。天の御国に入るということは、私たちの体が新しくされ、どの人と会っても、その人の名前と素性が分かり、昔から知っている人のように付き合えるということを意味します。ですから、歳を取って認知症になってから天の御国に行って、誰が誰だか分らなかったらどうしよう、なんて言うことは全く心配しなくてもよい事が分かります。私たちの体はこの世とは全く違う体に変えられるのです。

 それでは、天の御国とはどのような所でしょうか。その時の私たちの体はどのようになるのでしょうか。そして私たちは天の御国で何をすることになるのでしょうか。この様な情報はある程度、この世に居る間に知っておきたいですね。
 神様が人間を創造された時、人間を永遠に生きる者として造られたことは確かです。何しろ最初の人間アダムの生涯は930年でした。千年近く生きました。このアダムよりももっと長生きした人が居ました。誰でしょうか。ノアです。ノアの生涯は950年でした。このノアよりももっと長生きした人が居ます。ヤレデです。彼の生涯は962年でした。もっと長生きした人が居ます。メトシェラです。彼の生涯は969年でした。このメトシェラが歴史上最長の寿命保持者です。昔の人は何と長生きしたことでしょうか。
 しかし神様は創世記6章3節でこの様におっしゃっておられます。「わたしの霊は、人のうちに永久にとどまることはない。人は肉にすぎないからだ。だから、人の齢(よわい)は百二十年にしよう。」どうして、神様は、突然人間の寿命を短くされたのでしょうか。その神様の心の内を、聖書は、創世記6章5節でこのように言っています。「主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。」この世に生きていて、良い事ばかり、楽しい事ばかりなら問題ないのですが、悪い事ばかり重なると生きているのが嫌になります。人が信じられなくなるとその社会は終わりです。
 今アメリカでは大統領選挙が近づいているので、銃が飛ぶように売れているのだそうです。今まで銃の所持を考えたことも無かった人々が、自分と家族の護身用にと銃を購入しているのだそうです。ノアの洪水が、ノアとその家族以外の人間を滅ぼし去ったように、銃がアメリカ国民を滅ぼし去らないとも限りません。
 このように、悪が増大し、人が信じられなくなるのは、人間の心の内に住み着いている罪が原因です。この住み着いている罪を神学用語では「原罪(げんざい)」と呼びます。この原罪はどこから来たのでしょうか。原罪の発生は創世記2章16節と17節に書いてあります。「神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」最初の人間の一人エバは蛇にそそのかされて、善悪の知識の木の実を取って食べ、夫のアダムにも食べさせました。二人が食べた瞬間、二人の目は開かれ、自分達が裸であることを知ったのです。(創世記3章7節)そしていちじくの葉を綴り合せて、自分たちのために腰の覆いを作りました。つまり二人は羞恥心を覚えたのです。二人の他に人間はいないのですから、他人に対する羞恥心ではなく、神様に対する羞恥心です。つまり二人は神様に対して罪を犯してしまったという罪責感を感じ、神様の足音が聞こえた時、神様の御顔を避けて、木の間に身を隠しました。(同8節)全知全能の神様からは隠れることも逃れることもできないので、この木の間に身を隠すという行為は、のちに神様を無視するという行為に代わり、「その思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。」と使徒パウロはローマ人への手紙1章21節で語っています。
 問題はこの原罪が遺伝することです。遺伝しなければアダムとエバだけの罪に留まり、子供には影響ないのですが、現実には子供も子孫も有罪とされているのです。しかし申命記24章16節で、神様はモーセを通して次のように命じられておられます。「父が子のために殺されてはならない。子が父のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪過のゆえでなければならない。」ところが全ての人間はアダムとエバの犯した罪に悩まなければなりません。これは明白に矛盾しています。その矛盾の理由を使徒パウロはローマ人への手紙11章32節でこのように述べています。「神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。」この言葉の前半で使徒パウロは、神様が全ての人間を不従順の内に閉じ込めるために人間の心に原罪を植え付けられたと言っています。そしてその理由を後半の言葉で述べています。「それは全ての人を憐れむためだったのです。」どうやって神様は人間を憐れまれたのでしょうか。父なる神様は人間の原罪の身代わりとして御子イエス・キリストを十字架に掛け、人間の身代金を肩代わりしてくださいました。そしてそのこと受け容れる人の原罪を赦(ゆる)し、天の御国に導くことにされたのです。天の御国は罪赦された人しか入れません。もし罪を持ったままでも天国に入れるのなら、天国がまたこの世と変わらなくなります。それを防ぐために「従順となって救い主イエス・キリストを信じる」ことを条件とされたのです。神様は人間の心を見られるお方ですから、神様の目を逃れることはできません。ですから天の御国は、100%イエス・キリストを信じる人たちだけ、ということになります。
 この人たちが、本日の聖書箇所であるヨハネの黙示録7章9節に書いてある「白い衣を身にまとい、手になつめ椰子(やし)の枝を持っていた、だれも数えきれないほどの大勢の群衆」です。イエス・キリストを信じて天の御国に導かれた人たちです。彼らは、天の御国に入れたのが、誰のお陰であるのかを証ししています。10節です。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」神とは「父なる神様」であり子羊とは「イエス・キリスト」です。父なる神様と御子イエス様が協力して、自分達を救ってくださった、と証ししているのです。
 この白い衣を身にまとった群集を更に14節で説明しています。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」「大きな患難」と聞きますと、安土桃山時代に始まって、江戸時代を通じ、明治初期まで続いたキリシタン弾圧とか、外部から与えられる厳しい迫害を思い浮かべます。しかし、もっと厳しい環境は、個人の自由が認められている、この現代の社会ではないでしょうか。信じるも自由、信じないのも自由の社会です。自分の罪を認めなくとも誰も何とも言わない時代です。ですから人は自分の罪と向き合うチャンスを逃し、ずるずると歳を取っていく社会です。「伝道者の書」の著者はこのように勧告しています。伝道者の書12章1節です。「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」私たち全ての人間は、若い時に自分の創造者を知ることが求められています。若い日とは感受性の強い年齢の時です。しかしたとえ、あなたが既に年配になってしまっていても、明日よりは今日の方が若いのです。とにかく、自分を母の胎内で創造されたお方を求めることです。求めれば与えられます。しかし求めなければ与えられません。ですから自分の創り主を求め、お会いし、そして信じるのです。そしてこのお方と共に人生を歩き始めるのです。中には死の間際で信じ、イエス・キリストとともに本当に残り僅かな人生を歩み始めた人もいました。
 自分を母の胎内で組み立ててくださったお方が、イエス・キリストです。このお方を求めると、心の中で大変化が起こります。このお方によって心の中の罪が示され、悔い改めを求められるようになります。そして悔い改めると、あなたの罪は赦され、あなたは「あ、自分の罪が赦されて、自分は罪から清められた。」という思いに満たされます。この時、罪で真っ黒になっていたあなたの心は、キリストの身代わりの真っ赤な血によって、罪が贖(あがな)われて真っ白になり、心が軽くなった思いに満たされます。これがキリストの血で洗って白くされるという意味です。

 罪赦され、子羊の血で洗われた白い衣をまとうようになると、すなわちイエス・キリストを心の中に受け入れると、神様を賛美したくなります。自分を滅びから救ってくださったお方を誉め称えたくなるのです。10節に書いてあるように、私たちもまた、大声で叫びたくなります。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」そして私たちは、御使いたちや、長老達や、四つの生き物と共に、御座の前にひれ伏して、神を礼拝して言うようになります。11節です。「アーメン。讃美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、私たちの神に世々限りなくあるように。アーメン。」ですから、天の御国とは、信仰者の群れ、即ち聖徒の群れが礼拝を捧げている教会となります。地上では、教会で礼拝が捧げられる時、そこが天の御国になるのです。

 天の御国に入ったら私たちの体はどうなるのでしょうか。16節に書いてあるように、私たちの体は、もはや飢えることも、渇くこともない体に、変えられるようです。なんだ、食べたり飲んだりできないのか、と思われるかもしれません。でもご安心ください。マタイの福音書26章29節を見てください。そこにはこのように書いてあります。「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」天の御国ではイエス・キリスト共に大晩餐会が開かれ、少なくとも飲食することは確かですね。楽しみですね。
 また私たちの体は大きな変化を受けます。使徒パウロは、コリント人への手紙第一15章52節で、このように教えています。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

 そして天の御国では、神様が私達の目の涙をことごとくぬぐい取ってくださいます。この言葉を聞きますと、私は小さい子供の頃を思い出します。近所の子供たちと遊ぶのですが、時々けんかして、泣いて家に帰ってくるのです。私は、けっして自分で涙を拭くことをしませんでした。そして母に向かって、「目々拭いて」と泣きつくのです。目を拭いてもらって、慰められ、こうして友達に負けた気持ちが癒されました。
 神様に涙を拭いてもらおうなんて、何と私たちは甘えんぼうなことでしょうか。でもこれで良いのです。神様は御自分に「目々拭いて」と泣きついてくる人を優しく受け入れてくださいます。そして優しく私たちの涙をことごとくきれいにぬぐい取ってくださいます。コロナ禍の昨今、仕事を失い、食べることにも事欠き、家族をコロナ感染症で失い、失意のどん底に落とされておられる方々が大勢いらっしゃいます。しかし天の御国では、太陽もどんな炎熱も私たちを襲うことはありません。そしてそれだけでなく、神様自ら私達の目の涙をぬぐい取って慰めてくださり、命の水の泉に導かれ、永遠に生きる者としてくださいます。

 この様に私たちは、天の御国に入り、神様に目の涙をことごとく、ぬぐい取っていただきましょう。父なる神様は私たちを慰めたいと願っておられます。その為には、まず私たちの方から、神様に罪の赦しをお願いするのです。私たちが願うなら、神様は二つ返事で私たちの罪を赦して下さいます。そして私たちに白い衣をまとわせてくださいます。それだけでなく、地上での苦しみを思い出して涙にくれている私たちを神様は抱きかかえ、もう泣かなくとも良い、とおっしゃって私たちの目の涙を優しくぬぐい取ってくださいます。こうして私たちは、神様に慰められて、天の御国で平安な人生を送るようになります。私たちにこのような慰めに満ちた天の御国での生活を約束しておられる素敵な神様、私たちの涙をことごとくぬぐい取ってくださる神様を、多くの人にお伝えしましょう。そして共に、この優しい神様を礼拝する喜びに、満たしていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


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