説教全文

2020年11月8日(日) 聖霊降臨後第二十三主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「その日、その時をあなたがたは知らない」

マタイの福音書25章1~13節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 本日の説教はマタイの福音書25章1節から13節まで。説教題は「その日、その時をあなたがたは知らない」でございます。本日の話題は「この世の最後の日の事」です。
 先週の「全聖徒の日」より11月28日まで、教会歴における終末節に入りました。この終末節は、私たち全ての者がこの世の最後の日への途上にいることを再認識するためにあります。礼拝の中で、御言葉と聖礼典において主は御自身を現わされ、そしてこの世の終りの日には私たちを天の御国に導くために、私たちの目に見えるお姿で、天の軍勢を伴って再び来られます。私たちはキリストと共に新しい天と新しい地に住むのです。
 この世の最後の日に問題となる事とは、私たちがこの新しい天と新しい地に入れるのかどうかということです。以前から申し上げている通り、この世の最後の日には二通りあります。一つは、まさにこの世全体が終わりになる時です。即ちこの世が私達に別れを告げる日です。その日に生きている人には全員、否応なく死が臨みます。「太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされ(マタイ24:29)、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともにやって来られ(同30節)、天地が消え去る(同35節)」日です。この日の事は神学用語で「キリストの再臨の日」と呼ばれています。もう一つは、「私達個人、個人の寿命が尽きて、この世に別れを告げる日です。いわゆる人が死ぬ日です。前者の場合も後者の場合も、私たちには知らされてはいませんので、事前には誰にもわかりません。しかし、ただ一つ分かっていることは、この世に生きている内に、天の御国に入っていなければ、死後、入れる見込みはないということです。生きている今天の御国に入っている人は、この世の最後の日に確実に天の御国に入れます。しかしこの世に生きている内に天の御国に入っていない人は、この世の最後の日にも天の御国に入れないことは確かです。死んでしまってからは、誰もイエス・キリストを信じることができないからです。

 さて、本日の聖書箇所マタイの福音書25章1節でイエス様は、「天の御国は、それぞれ灯火(ともしび)を持って花婿を迎えに出る、十人の娘にたとえることができます。」と言われました。イエス様が例えとして話しておられる結婚式は、今から約二千年前のユダヤ人の結婚式のことです。その当時の状況の一端がルカの福音書1章27節に記載されています。「この処女は、ダビデの家系のヨセフという人の許嫁(いいなずけ)で、名をマリアといった。」ここには、ヨセフさんとマリアさんが許嫁の仲であった、と書かれています。イエス様が宣教されていた当時、ユダヤ人の結婚は、新郎、新婦の両親が自分の子供たちを将来結婚させようと約束を取り交わしていました。二人は大人になったある時期、正式なユダヤ式の婚約の後、一定の期間を置いて、ある夜、新郎は友人を伴って自分の家から新婦の家までお祝いの行列を作って進み、新郎の家に新婦と新婦の同伴者を連れて来て、結婚式のお祝いの日を迎え、結婚が完了するのだそうです。
 このユダヤの実際の結婚式に本日の聖書箇所を合わせると、新郎はキリスト、新郎の家は天の御国、新郎の友人は天の軍勢、新婦は10人のクリスチャン、新婦の家は地上にある教会となります。キリストは天の御国から天の軍勢を従えて地上の教会にやって来て、用意のできていた5人のクリスチャンを連れて天の御国に帰り、そこで結婚の祝宴を開き、結婚が完了するということになります。
 さてイエス様は2節で十人の娘について言われました。「その内の五人は愚かで、五人は賢かった。」その「愚か」と「賢い」の理由が3節と4節に書いてあります。「愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を持って来ていなかった。賢い娘たちは自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。」ここから「愚か」と「賢い」の差は、「入れ物に油を用意していたか、いなかったか」の違いであることが分かります。即ち花婿を迎え出るのに、全ての事が予定通り進むと想定して、それに間に合うだけの油しか用意していなかったのか、それとも予定通り進まない場合もあると想定して、余分の油を用意していたのかの差です。この油とはいったい何を表しているのでしょうか。
 日本語で「ともしび」と翻訳されているギリシャ語は「ランパス」です。いわゆる「ランプ」です。現代で言えば、足元を照らす懐中電灯やスマホの明りですね。懐中電灯もスマホも電池が切れればつかなくなります。同じようにランプも油が切れればつかなくなります。
 イエス様はマタイの福音書5章16節で言われました。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。」このイエス様の言葉から、クリスチャンとはランプであり、そのランプが放つ光とは、「良い行い」であることが分かります。この光である「良い行い」を生み出す物が油であり、その油とは、イエス様を信じる信仰となります。信仰を通してイエス様から力が私たちクリスチャンに注がれ、そのイエス様の力で行うので、その行いが世の人に本当に「良い」と認められる「行い」になるのです。
 またヨハネの福音書15章4節でイエス様は言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」私たちクリスチャンがイエス様の内に留まる時、即ちイエス様を信じる時、イエス様もまた私たちの内にとどまっていてくださいます。そうすれば私たちはイエス様の力によって、実を結ぶようになるのです。このイエス様の言葉から、ランプである私たちが放つ光の源は、私たちの内にとどまっておられるイエス様となります。そうなると、イエス様自体が油となります。
 使徒パウロもまたガラテヤ人への手紙2章20節でこのように証ししています。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」このパウロの言葉から、クリスチャンとは、信仰を通してイエス・キリストを内に宿している人ということになります。

 さて次に5節でイエス様は言われます。「花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。」何故花婿が来るのが遅くなったのでしょうか。身支度に時間がかかったからでしょうか。それとも、急な用事ができたからでしょうか。そうではありません。花婿が来るのは最初から遅いのであって、娘たちが期待していた時間ではなかったということです。即ち、娘たちが生きている間に、キリストの再臨は無く、まだまだ先だったということです。ですから、娘たちの眠りは死ということになります。娘たちはみな死んでしまいました。
 そして6節です。夜中になって、「さあ、花婿だ。迎えに出なさい。」と叫ぶ声がしました。この声の主は「御使いのかしら」でしょう。使徒パウロがテサロニケ人への手紙 第一4章16節で預言しています。「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、」と書かれています。その通り、キリストが再臨されました。そして「娘たちはみな起きて、自分のともしびを整えました。(7節)」娘たちは死という眠りからよみがえらされ、自分のともし火である信仰を整えました。

 ところが、娘たちの中で、ともし火が消えそうな人と、赤々とともる人が居たのです。ともし火が消えそうな娘たちは、ともし火が赤々とともっている娘たちに言いました。8節です。「私たちのともしびが消えそうなので、あなたがたの油を分けてください。」ともし火を赤々とともしている娘は何と答えたでしょうか。9節です「いいえ、分けてあげるにはとても足りません。それより、店に行って自分の分を買ってください。」もし油が信仰とかイエス様御自身だったら分けてあげることができるでしょうか。それはできませんね。ですから、ともし火を赤々とともしている娘たちは、「店に行って自分の分を買ってください。」と言いました。店とは教会の事で、そこで信仰を得、イエス・キリストを心の内に宿しなさいと教えてあげたのです。しかし、イエス・キリストが再臨された今となっては、タイム・オーバーですね。すなわち時間切れです。既に、時遅し、です。死んでからはイエス・キリストを信じることはできないのです。生きている今信じなければ、イエス・キリストを自分の内に宿すことができません。また、イエス・キリストが再臨されるということは、イエス・キリストが救い主として来られるのではなく、裁き主として来られるからなのです。

 その裁かれる様子が10節に書いてあります。「そこで娘たちが買いに行くと、その間に花婿が来た。用意ができていた娘たちは彼と一緒に婚礼の祝宴に入り、戸が閉じられた。」ともし火が消えそうな娘たちが油を買いに行っている間に、祝宴会場である天の御国の入口の戸は閉じられました。もう誰も入ることができません。油を手に入れようと買いに行った彼女らは、油を手に入れることができず、空しく元の場所に戻ってみると、そこには誰もいず、遠くの方に赤々と輝く家が見えました。その家に近づくと、入口の戸はぴったりと閉じているではありませんか。娘たちは叫びました。11節です。「ご主人様、ご主人様、開けてください。」しかし中から冷たい声が聞こえてきました。12節です。「まことに、あなたがたに言います。私はあなたがたを知りません。」生きている内に、イエス・キリストを信じて、天の御国に入れていただかない限り、天の御国に入る方法が無いことを示しています。
 では、どのようにしたら天の御国に入ることができるのでしょうか。その方法が13節に記されています。「ですから、目を覚ましていなさい。その日、その時をあなたがたは知らないのですから。」「目を覚ましていなさい。」とは、イエス・キリストの再臨まで、目を真っ赤にして起きていることでしょうか。そういう意味ではありません。「目を覚ましていなさい。」ということは、「眠った信仰」ではなく「目覚めた信仰」「生きた信仰を持ちなさい。」という意味です。「生きた信仰」とは私たちの創り主イエス・キリストとつながっている信仰です。私達が毎日食事をとって生きているように、信仰も毎日霊的な食事をとらなければやせ衰え、いつかは死んでしまい、形だけの信仰となってしまいます。霊的な食事とは、イエス・キリストそのものである聖書の言葉と毎日親しみ、御言葉の糧として毎日頂くのです。一番良いのは、聖書の言葉を覚えることです。即ち自分の中にイエス・キリストを積極的に取り込むことです。ですから先ほど引用した使徒パウロの言葉「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」は、本当のことです。パウロの内にイエス・キリストが生きておられるのです。聖書を丸ごと覚え、心で咀嚼(そしゃく)するのです。心で食べるのです。そして内なる霊の糧とするのです。ここまで行かなくとも、毎日聖書に親しむことは、信仰を生き生きと保つことに大きな力となります。毎日聖書の御言葉を頂くことこそが生きた信仰を保つ秘訣です。この生きた信仰を持つ人が賢い娘です。この反対は聖書を読まないことであり、信仰が眠ってしまうことであり、ついには信仰が死んでしまうことです。この人が、愚かな娘となります。
 13節の後半でイエス様は言われました。「その日、その時をあなたがたは知らないからです。」ある人たちは、イエス様の再臨の予定が分かっていたら、もっと熱心に聖書に取り組むのだが、と言いますが、本当にそうでしょうか。その人は再臨の予定が分かっても、多分何もしない事でしょう。聖書の言葉はおいしくないばかりか、苦いからです。意に沿わない事ばかりしか書いてないからです。それは私たちが、聖書をいのちのことばとして受け取り、多少苦くとも受け入れ、心を刺されて悔い改め、「わたしもあなたに罪を認めない。」とイエス様から宣言されて喜びに満たされ、イエス様を神様と仰ぐようになるためです。また、一人でも多くの人が悔い改めてイエス様を信じて救われ、天の御国に入るようになるためです。そしてイエス様は時が満ちた「その日、その時」、天の軍勢を連れてこの地上に再臨され、全人類を復活させて裁きを行い、生前ご自分を信じて眠ったクリスチャンだけを天の御国に導かれます。

 ですからイエス様は、「その日、その時をあなたがたは知らない。」と言われ、私たちが再臨の時を知らないようにされました。人間には愚かな人から賢い人に至るまで、様々な人がおり、人それぞれが悔い改めに至るまで時間がかかることをイエス様はご存知です。イエス様は、あなたが悔い改めると、「私もあなたに罪を認めない。」と宣言されて、あなたを罪の滅びから救ってくださいます。しかし、イエス様が待ってくださるからと言って、こちらの方から一方的に時間を引き延ばしてはなりません。気が付いたら、ランプのともし火が消えていたということにもなりかねません。人間の一生は最長120年と決められているのは、人間の一生が天の御国への入国試験であることを示しています。ですから、明日よりは今日、一日でもあなたの若い日に主を覚えましょう。そして天の御国に入れていただき、神様に守られ、輝く人生を送らせていただきましょう。今輝く人生を送っておられる方々は、その人生を自分のものだけとするのではなく、多くの人にイエス・キリストをお伝えし、多くの人と輝く人生を分かち合うようにならせていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。


©2020 Rev. Manabu Wakabayashi, All rights reserved.

聖書箇所 説教全文