2020年12月6日(日) 待降節第二主日
聖書箇所 | 説教全文 |
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説教全文
「主の通られる道を真っすぐにせよ」
マルコの福音書1章1-8節
牧師 若林 學
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。
先週私たちは、ロバの子に乗られたイエス様のエルサレム入城の場面を通して、全能の神様であられるイエス様にいつも頼った生活をすることが重要であることを学びました。特に無症状の感染者が新型コロナ・ウィルスを撒き散らすという、新型疫病にさらされている今日、その重要性は高まっています。先週お読みしました、詩篇91篇3節にはこのように書いてあります。「主こそ 狩人の罠から 破滅をもたらす疫病から あなたを救い出される。」つまり、新型コロナ・ウィルス感染症を含め全ての疫病は、神様が造られ、神様がまき散らしておられると私は考えています。ですからウィルスをまき散らしておられる神様に頼れば、感染から守られるという訳です。
しかし、神様が疫病を起こし、全世界にまき散らしておられると言うと、「そんな馬鹿な」、と思われる方が多いと思います。また、「そんな不敬虔な」、と眉をひそめるかもしれません。確かに一般に、「神様が悪いことを為さるはずがない。悪いことを起こすのは悪魔だ。」と信じておられる方は多いと思います。しかし、聖書はそうは教えていません。イザヤ書45章7節にはこのように書いてあります。「わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを行う者。」神様が人間に対して災いを造っておられると書いてあります。災いを造っておられるのは間違いなく神様です。ご自分がそうだと宣言されておられるから確かに間違いありません。ですから神様が人間に対して新型コロナ・ウィルスを撒き散らして、感染を拡大しておられるのです。特に無症状の感染者から感染が広まる新型コロナ・ウィルス感染症は、まさに詩篇90篇6節でいう「暗闇に忍び寄る疫病」であり、「真昼に荒らす滅び」です。誰から感染するのか分からない新型コロナ・ウィルスの性質を見事に表現しています。
なぜ神様はそのような悪性の疫病を人間世界に送られるのでしょうか。それは詩篇91篇9節に書いてあることに反して、「わが避け所 主を いと高き方を あなたが自分の住まいと」していないからです。人間が神様から離れているから、即ち神様を無視しているから、神様が嫉妬為さるのです。神様は人間全てにご自分を信じて欲しいのです。しかし人間がなかなか信じてくれないので、人間に災いを送って来られるのです。神様を信じるとは、神様を自分の避け所、自分の住まいとすることです。神様の懐に飛び込むことです。この神様とは、父なる神、主イエス・キリスト、そして聖霊の三位一体の神様です。この三位一体のお方を除いてほかに神様は存在しません。特に真の人間となられた主イエス・キリストが、私達の罪のために十字架に掛かり、復活され、信じる者の罪を赦(ゆる)し、信じる者を永遠に生きる者としてくださいました。
この神様である私たちの主イエス・キリストが、赤子として天から私達の人間界においでになられるのを待ち望む時がこの待降節アドベントです。この神様であられるお方を私達はどのようにして待ち望んだらよいのでしょうか。その待ち望み方を本日の聖書箇所であるマルコの福音書1章1節が教えています。「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」。まず「イエス・キリスト」はどなたなのかと言いますと、神様の子供です。蛙の子は蛙であるように、神様の子は神様です。ですから、イエス・キリストは真の神様です。そして「神の子」とは、人間として生まれた神という意味で、真の人間です。ですから、イエス様は真の神様であり、真の人間なのです。
次に、「福音」とは、福々しい知らせです。英語でGood Newsという通り、良い知らせです。このお方を信じると、全ての罪が赦され、滅びから救われる、という良い知らせです。そして「はじめ」とは「始まりー、始まりー」という意味で、これから「神の子イエス・キリストの福音物語の始まりー、始まりー」、と私たちに告げているのです。
神の子イエス・キリストの福音の物語はどこから始まるのかと言いますと、それはイザヤ書40章3節に書いてある預言の言葉から始まると福音記者マルコは示しています。「荒野で叫ぶ者声がする。『主の道を用意せよ。荒れ地で私達の神のために、大路を真っすぐにせよ。』」イザヤは紀元前8世紀に南ユダ王国に現れた預言者です。イエス様が来られる約800年前に、既にイエス様の到来は預言されていたことが分かります。そしてその到来の様子が、細かく預言されているところがすごいですね。イエス様本人の到来だけでなく、そのイエス様の先駆者、道備えをする者が既に用意されたことが記されているのです。イエス様は神様ですから、当然と言えば当然です。しかしイエス様はまことの人間ですから、この御方がまことの神様であると受け入れるには、生身の人間にはハードルが高すぎます。そこでイエス様を紹介する人として洗礼者ヨハネが用意されました。洗礼者ヨハネは、ルカの福音書1章によりますと、イエス様が誕生される半年前に、老年の祭司ゼカリヤと不妊の妻エリザベツの間に生まれた奇跡の子供で、母親の胎の中にいる時から聖霊に満たされていた人でした。
この聖霊に満たされた洗礼者ヨハネが、マルコの福音書1章4節に記されている荒野で叫ぶ者です。その洗礼者ヨハネが荒野で叫ぶその声もイザヤ書40章3節に預言されていました。「主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。」この「主の道を用意せよ」とは「主なる神様イエス・キリストをあなたの心の中に迎え入れなさい。」という意味であり、「主の通られる道をまっすぐにせよ。」とは、「私達の心の中を神様が住めるようにきれいにしなさい」という意味です。しかしそう言われても、人間の心は罪で真っ黒に汚れていますから、とても神様に入っていただけるような所でもなく、ましてや神様が住めるような場所ではありません。基本的に原罪という罪を生まれながら背負わされている人間は、自分の心を清くにすることはできません。どんなに良い行いをしたところで、心は清くはならないのです。神様が人間の努力によっては清くならないようにしておられるからです。それにもかかわらず、神様が人間に心を清くしてイエス・キリストを迎え入れるように命じられる時、そこから導き出される明白な意味は、神様が与えてくださる力と恵みによってのみ、それができるということです。つまり神様は、私に頼りなさいとおっしゃっておられるのです。そこで神様は洗礼者ヨハネを遣わし、「悔い改めよ」と叫ばせました。この「悔い改め」が「主の道を用意する」神様の方法です。悔い改めは、行いではありません。心の働きです。自分の心の中をのぞき込み、隠しておきたい罪を認めることです。自分の罪を認め、それを神様の前に、赦して下さいと願い出るのです。願い出たら、神様がもっと厳しく咎めるのではないかと心配する必要は全くありません。全能全知の神様は私達が願い出る前に、既に私たちの罪をご存知であるからです。ただ神様が待っておられるのは、私達が罪の赦しを願い出ることだけです。ですから願い出れば、神様は二つ返事で赦して下さいます。これが悔い改めです。口で告白する必要はありません。神様は私たちの心の内を見られるからです。ですから私たちが心から悔い改める時、神様は喜んで私たちの罪を赦して下さいます。こうして悔い改めが主のための道を用意することであることと分かります。このように、人間は自分の心を清くできませんが、神様に委ねるなら清くしていただけることが分かります。神様が与えてくださる力と恵みによってのみ、心を清くすることができるのです。ですから、「悔い改め」が「主の道を用意する」ことになり、「主の通られる道を真っすぐにする」ことになるのです。
洗礼者ヨハネがヨルダン川の岸辺で、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ、つまり洗礼を宣べ伝えていることは、たちまち有名になりました。注解書によれば、この時の洗礼はヨルダン川の水を頭に注ぐ方法だったということです。人が、洗礼者ヨハネの許に行って、洗礼をお願いすると、聖霊に満たされている洗礼者ヨハネはその人が悔い改めていることを直感し、直ちにその人の頭にヨルダン川の水を注いで、「あなたの罪は赦された。」と宣言して下さったのです。ですから洗礼を受けた人は、罪の赦し喜びに溢れ、その喜びを多くの人と分かち合ったのです。罪の赦しがこんなにも心を軽くするものかと知った人々は、隣近所の友人たちに伝え、洗礼者ヨハネの許に大勢のユダヤ人が押し寄せるようになりました。マルコの福音書1章5節を見ますとこの様に書いてあります。「ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」
またこのヨルダン川の水を頭に注ぐだけというヨハネの洗礼は、当時ユダヤ人行っていた水による清めの儀式とかけ離れたものではなかったようです。マルコの福音書7章4節を見ますとこの様に書いてあります。「市場から戻ったときは、からだをきよめてからでないと食べることをしなかった。ほかにも、杯、水差し、銅器や寝台を洗いきよめることなど、受け継いで堅く守っていることが、たくさんあったのである。」ですからユダヤ人にとって、ただ頭に水を注ぐだけという洗礼の授け方は受け入れ易いものでした。
このヨハネの洗礼は、イエス様がマタイの福音書28章19節で命じておられる洗礼と違いが有るのでしょうか。マタイの福音書28章19節にはこのように書いてあります。「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授けなさい。」マルコの福音書1章4節に書いてあるようにヨハネの洗礼は、「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼でした。」ヨハネの福音書4章1~2節を見ますと、イエス様はご自分の弟子たちによって人々に洗礼を授けています。またイエス様もイエス様の弟子たちもヨハネから洗礼を受けました。もしヨハネの洗礼が本質的に劣っているものであったならば、弟子たちもイエス様自身も洗礼を受け直さなければなりませんでしたが、受け直されたという言う話はどこにも書いてありません。洗礼は一生に一回だけで良いのです。洗礼を受けた時点で直ちに、その方の洗礼は神様に報告されているからです。
ただ一か所、聖書には受け直し場面があります。使徒の働き19章1節から5節です。使徒パウロは、エペソにいたヨハネの洗礼を受けた弟子たちに、主イエスの御名によって洗礼を授けました。それは使徒パウロがこのエペソの弟子たちに問題を感じたからでした。パウロは、洗礼を授ける前に、二つの事を尋ねています。一つ目は「信じた時、聖霊を受けましたか。」エペソの弟子たちは答えました。「聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません。」二つ目は「どのようなバプテスマを受けたのですか。」弟子たちは答えました。「ヨハネのバプテスマです。」(使徒19:3)これらの質問によって使徒パウロは、このエペソの弟子たちが洗礼者ヨハネ自身からではなく、ヨハネの弟子たちから洗礼を受けたことを確認しました。そこで使徒パウロはこの弟子たちに教えました。「ヨハネは、自分の後に来られる方、即ちイエスを信じるように人々に告げ、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」(使徒19:4)このパウロの言葉から、エペソの弟子たちに洗礼を授けたヨハネの弟子たちは、師である洗礼者ヨハネから正しい指導を受けていなかった弟子たちであることが分かります。ですからヨハネの弟子たちは人々に洗礼を授けたのではなく、形式的に水をかけただけであって、本質的なことを何も教えていなかったということがわかります。それで使徒パウロはエペソの弟子たちに教えて、洗礼を授けたのです。
そういう訳ですから、ヨハネの洗礼とイエス様の洗礼は罪の赦しを与えるという点において本質的に同じものであると言うことができます。ヨハネの洗礼は、来るべきキリストの信者を誕生させ、イエス様の洗礼は、2000年前に来られたイエス・キリストの信者を誕生させ続けています。ですから、ヨハネの洗礼はイスラエル国の人々のためだけに準備されたものであり、イエス様の洗礼は全世界の全ての時代の人々のために準備されたものとなります。
このように、「主の通られる道を真っすぐにせよ」とは「私達の心の中を神様が住めるようにきれいにしなさい」という意味です。しかし私たち人間の心の中は、罪の汚れで真っ黒です。人間には心の中を綺麗にする力が備わっていないからです。このままでは全ての人間が滅んでいくので、神様は洗礼者ヨハネを遣わし、「悔い改め」を叫びさせました。悔い改めは行いではありません。心の働きです。人間は悔い改める時、素直になり、罪を認めるようになるのです。心の中にひた隠しに隠している罪を認めること、これが求められている事なのです。悔い改めるとき、私達の罪は全て赦され、心が軽くなります。そして神様から、あなたの罪は赦された、「無罪」と宣言していただけるのです。洗礼の水は、その罪を綺麗に洗い流すことを象徴的に表しています。マルチン・ルター博士は95か条の提題で、この様に述べています。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ…」と言われた時、キリストは信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」私たちは、洗礼を受けたのだから、もう悔い改めは必要ない、と考えるのは間違っています。ルターは、クリスチャンの全生涯が悔い改めであると教えています。ですから私達が悔い改める時、素晴らしいことが起こるのです。その人は「わが避け所、主を、いと高き方を、あなたが自分の住まいとしたからである。」と神様は宣言してくださり、「暗闇に忍び寄る疫病も、真昼に荒らす滅びをも・・・それはあなたに近づかない。」と保証してくださいます。ですから新型コロナ・ウィルス感染症が蔓延(まんえん)しつつある今日、日々悔い改めて、神様の守りに身を委ねましょう。
全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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