説教全文

2020年12月13日(日) 待降節第三主日

書箇所 説教全文

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「光について証しするために来た」

ヨハネの福音書1章6-8、19-28節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 洗礼者ヨハネについては先週マルコの福音書から学びました。そして「悔い改めて、神様の守りの中に身を委ねること」が最善の新型コロナ・ウィルス対策であることをお話いたしました。その理由は、新型コロナ・ウィルスを造られたのが神様であるからであり、神様御自身が詩篇91篇3節で「主こそ 狩人の罠から 破滅をもたらす疫病から あなたを救い出される。」と約束しておられるからです、と申し上げました。しかしそのようなことを話されても、科学万能のこの世の中に在って、目に見えない神様を信じて本当に守られるのかと、心配になる方もいらっしゃることでしょう。なぜ神様に身を委ねると守られるのかと言いますと、神様がこの世を創り、私たち一人一人を生み出し、一人一人をコントロールして社会を構成させておられるからです。即ち、神様を信じない人に神様は無症状の感染者を近づかせて感染させ、反対に、神様を信じる人には、無症状の感染者を近づけさせないからです。イエス様はルカの福音書13章4節と5節でこのように言われました。「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」神様がこの様にある人には災いをもたらし、ある人には幸いをもたらされるのは、ご自分に助けを求めさせて、全ての人を救いに導きたいからなのです。
 しかし一概に神様と言っても日本には八百万の神様が住んでいると言われています。その中でどの神様が本当の神様なのか、私たち人間にはわかりません。どの神様を信じたら良いのか分からないのが人間にとって最大の問題であり、悩みです。どうしてこんなに多くの神々が日本に住んでいるのかと言いますと、生きておられるまことの神様が、ご自分を見つけられないように、煙幕を張っておられるからです。この様にして人間を迷わすようにしておられるのです。ですから、自分の方から、八百万の神様の中の一人の神様を選ぶとしたら、まことの神様に当たる確率は八百万分の一となり、ほとんどの人が貧乏くじを引いて、不幸に陥ってしまいます。ですから自分で選ぶのは、まずは無理と言うものです。
 それで自分で選ぶのではなく、神様の方から選んでいただくのです。どのようにして選んでいただくのかと言いますと、まことの神様に向かって祈ることです。「まことの神様。あなたを信じたいので、どうか私に現れてください。」と祈るのです。なぜなら聖書にこのように書いてあるからです。詩篇14篇2節です。「主は天から人の子らを見下ろされた。悟る者 神を求める者がいるかどうかと。」また詩篇 50篇15節にはこのように書いてあります。「苦難の日に わたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出し あなたはわたしをあがめる。」この様に神様を呼び求め、神様に私達を見つけ出していただくのです。聖書はそうしなさいと私たちに教えております。これがまことの神様を求める唯一の正しい方法であり、信じるための唯一の方法です。またコロナ・ウィルスに感染した時や苦難の時、唯一抜け出す方法です。

 さて、神様は、世の人々をまことの神様に導く特別な人を用意してくださいました。その特別な人とは洗礼者ヨハネです。本日の聖書箇所であるヨハネの福音書を見ていきましょう。洗礼者ヨハネは、神様から遣わされた旧約時代の最後の預言者と見ることもできますが、福音記者であるヨハネを始めマタイやマルコやルカの各福音記者たちは、洗礼者ヨハネを新約時代の預言者として扱っています。それは洗礼者ヨハネの任務が、旧約時代の預言者とは全く異なっていたからです。洗礼者ヨハネの任務は、旧約の預言者の様に神様の言葉を人間社会に伝えることではなく、神の言葉と呼ばれる「神の御子イエス・キリスト」を人間社会に紹介することでした。ですから洗礼者ヨハネは旧約時代の預言者の一人ではなく、新約時代で最初の預言者となります。
 新約時代にも預言者がいたのかと申しますと、いました。使徒の働き13章1節にはこのように書いてあります。「さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。」またコリント人への手紙 第一12章28節を見ますとこの様に書いてあります。「神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物(たまもの)、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。」
 その新約時代の第一番目の預言者である洗礼者ヨハネの任務が、ヨハネの福音書1章7節と8節に書いてあります。「この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。」洗礼者ヨハネが証しする「光」とは1章4節に書いてある「人の光」であり、1章5節で言う「闇の中に輝いている『光』」です。そしてこの「光」はヨハネの福音書1章1節に書いてある「ことば」です。そして「ことば」は「神」です。そして14節を見ますと、神様であるこの「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」とあります。14節はさらに続けます。「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」そして17節を見ますと、この「恵みとまことに満ちた」お方は、イエス・キリストであることが分かります。「律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」ですから、イエス・キリストによって実現した「恵み」とは「罪の赦(ゆる)し」であり、「まこと」とは「滅びからの救い」です。イエス様はヨハネの福音書14章6節で言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」私たちにはイエス・キリストを信じることによって、無条件で罪の赦しが、恵みとして与えられます。そしてその結果、永遠の滅びから無条件で救われるのです。イエス・キリストがこの世に来られたということは、全ての人がこのまことの神様イエス・キリストを信じれば、無条件で罪が赦され、無条件で永遠の滅びから救われ、無条件で父なる神様の御もとに導かれる道が開かれたことを示しています。

 このお方イエス・キリストはまことの人間としてこの世に来られました。イエス様は突然この世に現れたのではありません。預言の通り、マリアさんの胎を通って赤子としてこの世に来られました。創世記3章15節には、女の子孫としてこの世に来られると預言されています。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」そしておよそ30歳になられた時に洗礼者ヨハネの許に来て、ヨルダン川で洗礼を受けられ、公生涯を開始されました。
 ルカの福音書3章を見ますと、洗礼者ヨハネは、イエス様が公生涯を始める約半年前から人々に洗礼を授け始めています。そうしたら人々が群衆となってヨハネから洗礼を受けようと出て来たのです。マタイの福音書3章5節と6節にはこのように書いてあります。「そのころ、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川周辺のすべての地域から、人々がヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。」
 そして洗礼者ヨハネは、人々に洗礼(バプテスマ)を授ける時この様に言いました。ルカの福音書3章16節と17節です。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。また手に箕(み)を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして殻を消えない火で焼き尽くされます。」この様に洗礼者ヨハネは洗礼を受けに来た人々に自分の後から来られるイエス・キリストを信じるようにと教えました。

 洗礼者ヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていることは多くの人の知る所となり、人々は続々とヨハネの許に来て洗礼を受けたのです。なぜ多くの人々がヨハネの許に来て洗礼を受けるようになったのか、その理由がルカの福音書3章15節に書いてあります。「人々はキリストを待ち望んでいたので、みなヨハネのことを、もしかするとこの方がキリストではないか、と心の中で考えていた。」民衆の心が敬虔さを求めていた時代だったのかもしれません。多分神様が人々の心に働いて、イエス・キリストを求める空気を醸し出されておられたのでしょう。
 この人々の動きに神経をとがらせたのがユダヤ人の指導者たちです。彼らはサンヘドリンというユダヤ人の政治と司法を司る最高議会の議員たちでした。このサンヘドリンの議員たちが調査のために遣わしたのが祭司たちでした。レビ人は祭司の下で働く人々でしたから、多分警察の役目を持っていたのでしょう。祭司たちはレビ人を従え、威厳を持って洗礼者ヨハネを尋問しました。祭司たちは洗礼者ヨハネが「罪の赦しを与える悔い改めの洗礼を授けていた」ことは調査済みで、民衆がヨハネをキリストかもしれないと考えていたことも知っておりました。ですから後はヨハネが何の権威で行っているかを聞き出すだけでした。それで祭司たちは聞きました。ヨハネの福音書1章19節からです。「あなたはどなたですか。」そうしたらヨハネはためらうことなく答えました。「私はキリストではありません。」祭司たちは聞きました「あなたはエリヤですか。」ヨハネは答えました。「違います。」「では、あの預言者ですか。」あの預言者とはモーセが申命記18章15節で預言した預言者のことです。「あなたの神、主はあなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のような一人の預言者をあなたのために起こされる。あなたがたはその人に聞き従わなければならない。」ヨハネは答えました。ヨハネの福音書1章21節からです。「違います。」あれでもない、これでもないと言われて祭司たちには質問のことばがなくなり、そうかといって手ぶらで議員たちの所に帰ることもできず、ヨハネに答えをくれるように泣きつきました。「あなたはだれですか。私たちを遣わした人たちに返事を伝えたいのですが、あなたは自分を何だと言われるのですか。」ヨハネは答えました。「私は、預言者イザヤが言った、『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」祭司たちはこのヨハネの答えで満足したのでしょうか。満足しました。なぜなら祭司たちもこの言葉がイザヤ書40章3節に記されている神の言葉であることを知っており、神様がヨハネにこの言葉を宣べるように命じられたと知ったからです。神様が命じられる、これ以上の権威は無いからです。

 祭司たちが去ってしまうと、こんどはパリサイ人たちから派遣されて来た人たちがヨハネに質問しました。パリサイ人は律法主義者たちで、モーセ五書を厳格に守ることに熱心な集団でした。先ほどの祭司たちは死者の復活も、御使いも、霊も無いと主張しておりましたが、パリサイ派の人々は死者の復活も、御使いも、霊もあると信じていました。(使徒の働き23:8)比較すると、パリサイ人たちの方の霊性が高いことが分かります。ですからこのパリサイ人は洗礼者ヨハネに尋ねたのです。ヨハネの福音書1章25節です。「キリストでもなく、エリヤでもなく、あの預言者でもないなら、なぜ、あなたはバプテスマを授けているのですか。」先ほどの祭司たちは何の権威で洗礼を授けているのかと聞いてきました。それに対してパリサイ派の人々は、「なぜ洗礼を授けているのかと問いただしています。パリサイ人が発する「なぜ」とは、「どういう理由で洗礼を授けているのか」という意味です。この質問に対する洗礼者ヨハネの答えを私たちはどのように理解したらよいのでしょうか。私はその答えはルカの福音書10章30節から37節に記されている「良きサマリア人のたとえ話」にあるのではないかと見ています。サマリア人は、道の途中に強盗に襲われて半殺しに遭い、うめいている人を見つけます。サマリア人は、かわいそうに思い、オリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、宿屋に連れて行き介抱してあげます。このサマリア人に、「あなたはなぜ強盗に襲われた人を助けるのか」と問う人が居るでしょうか。いませんね。洗礼者ヨハネが人々に洗礼を授けていた理由は同じです。ヨハネは「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」(マルコ1:4)を授けていたのです。洗礼者ヨハネの洗礼は人々を死の滅びから救っていたのです。ですからヨハネはパリサイ人らに言いました。「私は水でバプテスマを授けています。」(ヨハネ1:26)この言葉でヨハネは「私は人々を死の滅びから救っています。」と答えたのです。そして付け加えました。「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方が立っておられます。その方は私の後に来られる方で、私にはその方の履き物のひもを解く値打ちもありません。」この言葉によって洗礼者ヨハネは、「自分が道備えをさせていただいているお方は人間の姿を取られた神様であり、自分はそのお方の履き物のひもを解く値打ちも無いのだ」と告白しました。この言葉を聞いたパリサイ人は、ヨハネが神様の道備えをしていることを知って、納得して帰って行きました。

 このように、洗礼者ヨハネは、光であるイエス・キリストについて証しするためにヨルダン川で、多くの人に罪の赦しを与える悔い改めの洗礼を授け、自分の後ろから来られる方、イエス様を信じるように人々に告げていました。またユダヤ人の議会であるサンヘドリンから遣わされた祭司たちに対しては、「自分は『主の道をまっすぐにせよ、と荒野で叫ぶ者の声』です。」と証しして、神様の命令により洗礼を授けていることを知らせ、なぜ洗礼を授けているのかと問うパリサイ人に対しては、「人々を滅びから救うために『水で洗礼を授けています。』」と言って、自分の後ろから来られる神様の道備えをしているのだと答えました。この様に洗礼とは、クリスチャンとなる単なる儀式でなく、人に罪の赦しを与えて、死の滅びから救うために神様が定められた救いの手段です。事故やコロナ・ウィルスのような病気で死ぬにしても、寿命で死ぬにしても、人間はいずれかこの世を去らなければなりません。その時、自分の罪は赦されていると確信の持てる人は何と幸いなことでしょうか。まだ洗礼を受けていない人は、悔い改めてイエス・キリストを信じ、洗礼を受けて罪赦され、死の滅びから救っていただきましょう。そして既に洗礼の恵みをいただいている方は、このクリスマスにお生まれになるイエス・キリストを信じることによって、無条件に罪の赦しが恵みにとして与えられ、無条件で永遠の滅びから救われるという喜びを、まだ知らない方々にもお知らせしましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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