説教全文

2021年1月24日(日) 顕現後第三主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「時が満ち、神の国が近づいた」

マルコの福音書1章14-20節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 本日の説教はマルコの福音書1章14節から20節から、説教題は「時が満ち、神の国が近づいた」でございます。
 本日の聖書箇所は、内容的には先週の聖書箇所であったヨハネの福音書1章43~51節の続きの場面です。それでまず最初に、先週の聖書箇所の出来事を振り返ってみましょう。
 先週の聖書箇所で私たちは、イエス様が6人の信仰深い弟子たちを集められたことを見ました。アンデレ、ヨハネ、シモン、ヤコブ、ピリポ、そしてナタナエルです。この6人の内少なくともアンデレとヨハネは、それまで洗礼者ヨハネの弟子たちでしたが、師匠の洗礼者ヨハネの導きと勧めで、イエス様の弟子となりました。残る4人も洗礼者ヨハネのもとに集まって来ていた人々と思われますが、イエス様の弟子となりました。アンデレが自分の兄シモンをイエス様の所に連れて来たので、イエス様はシモンにペテロと言う名前を付けられました。聖書には書いては有りませんが、ヤコブも弟のヨハネの導きでイエス様の弟子となったことでしょう。またピリポとナタナエルはイエス様から直接導かれ、弟子とされています。
 なぜこのガリラヤでの若者たちは、いとも簡単に次々とイエス様の弟子としていただけたのでしょうか。その理由は、彼らがそれまで師と仰いでいた洗礼者ヨハネのイエス様に対する言葉にあります。洗礼者ヨハネはイエス様を指してこのように言いました。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)、「御霊が、ある人の上に降って、その上にとどまるのをあなたが見たら、その人こそ、聖霊によってバプテスマを授ける者である。」(1:33)「それで、この方が神の子であると証しをしているのです。」(1:34)そして洗礼者ヨハネは最後にもう一度「見よ、神の子羊」(1:36)と呼びました。これらの洗礼者ヨハネの言葉によって、弟子たちはイエス様が「世の罪を取り除くために神様から遣わされた生贄(いけにえ)の神の子羊」であり、「聖霊によって洗礼を授ける神の子」であると理解したのです。「神の子羊」とは、「神が遣わした子羊」と言う意味で、「人間の身代わりとして死ぬ神」を表しています。また「神の子」とは「神が産んだ子」と言う意味で、「人間となられた神」のことです。イエス様の弟子となったこの6人の若者たちは、洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、あるいはアンデレやヨハネのように直接イエス様からお話を聞いて、あるいはシモンの様に初対面で新しい名前を頂いたり、ピリポのように直接「わたしに従って来なさい。」と命じられたり(ヨハネ1:43)、ナタナエルのように見えないはずのいちじくの木の下に居たことを言い当てられて(ヨハネ1:48)、それぞれイエス様が人間となられた神様であることを悟ったのです。この「悟る」ということは、イエス様のことが預言されている旧約聖書を深く学んでいなければできないことです。これら6人の弟子たちは、毎週の安息日の礼拝の後、ユダヤ教の教師ラビのもとで学んだり、あるいは自分達で勉強会を開いて自主的に研鑽を積んだりしていたと推測されます。この様な聖書に対する熱心な学びが無ければ、「悟る」と言うことは難しいからです。

 さて、ヨハネの福音書3章26節を見ますと、イエス様は6人の弟子たちを得た後、弟子たちと共にヨルダン川に残り、人々に洗礼を施していたことが分かります。しかし洗礼者ヨハネがヘロデ・アンティパス王によって捕らえられたと聞くと、多分、ヨルダン川における洗礼の時期は終わったと知られたのでしょう、イエス様は弟子たちと共にガリラヤ地方に戻られました。そしてマタイの福音書4章13節を見ますと、イエス様は、住居をナザレからガリラヤ湖に面したカペナウムの町に移して、伝道の本拠地としておられます。腰を据えて、本格的に福音伝道を開始しようとされていたことが分かります。
 イエス様がガリラヤを本拠地とされた理由がマタイの福音書4章14~16節に書いてあります。「これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」イエス様は旧約聖書の預言に従って行動しておられたこと分かります。
 そしてイエス様がナザレからカペナウムの町に来て住まわれてから、神の福音を宣べ伝え始められました。「神の福音」とは神様が遣わされた良い知らせです。どのような良い知らせかと言いますと、「救い主イエス・キリストを信じると、全ての罪が赦(ゆる)され、滅びから救われますよ」、というありがたい知らせです。
 その福音宣教の第一声が15節です。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」この「時が満ち」とは、何の時が満ちたのでしょうか。ここで言われている「時」とは、紀元前4000年前に起った空前絶後の大事件から数えての「時」です。その事件とは、エデンの園で、アダムとエバが蛇に化けた悪魔にだまされて禁断の木の実を食べ、罪を犯してしまった事件です。その時、父なる神様はアダムとエバをだました悪魔に言われました。創世記3章15節の御言葉です。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」この御言葉の中で預言されている「女の子孫」がイエス様なのです。ですから「時が満ち」とは、「女の子孫である私イエスが来ることになっている4000年の時が満ちましたよ。」と言う意味です。
 次に「神の国が近づいた。」とはどのような意味でしょうか。まず神の国とは、神様の力と恵みによって統治されている国です。具体的にはイエス・キリスト御自身です。ヨハネの福音書1章14節にこのように言われています。「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」
 ですから「神の国が近づいた。」とは「神の国である私があなたがたの近くに、あなたがたの中に来ましたよ。後はあなたがたが神の国である私を受け入れて、自分のものに(と)するだけですよ。」と言う意味です。イエス様はルカの福音書17章21節でこのように言われました。「(神の国は)『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」つまり「神の国に入るとは」イエス・キリストを信じることによって、私たちの全ての罪が赦され、死後、滅びから救われ、天の御国に入るだけでなく、生きている今、イエス様の目に見えない囲いの中に入れられ、日々イエス様によって導かれ、事故やケガや病気から守られ、平安と喜びに満ちた生活を送ることできるようになる、と言うことを意味しています。詩篇91篇を見ますと、今はやりのコロナ・ウィルス感染症という疫病からも守られると書いてあります。91篇3節「主こそ 狩人の罠から 破滅をもたらす疫病から あなたを救い出される。」5節と6節「あなたは恐れない。夜襲の恐怖も 昼に飛び来る矢も。暗闇に忍び寄る疫病も 真昼に荒らす滅びをも。」そして10節「わざわいは あなたに降りかからず 疫病も あなたの天幕に近づかない。」だからと言って、守ってくださるよう祈りもせず、マスクをしないで会話をしたりしてはなりませんね。特に祈りは大切です。祈りはイエス様の守りの中に入れていただく願いであるからです。

 イエス様の福音伝道の第一声の後半は、「悔い改めて福音を信じなさい。」です。「悔い改める」と言うことは、神様の法律である「モーセの十戒」に照らして自分の行為を素直になって省み、十戒の戒めから外れていれば、素直に認めて、神様に赦しを願うことです。このモーセの十戒の守り方は神様を愛し、隣人を愛することです。マタイの福音書22章37節から40節でイエス様が教えています。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」この二つの戒めを裏返すと、「神様をも隣人をも、心から愛していなければ、戒めを破っていることになります。」ということです。しかし人間である私たちは、いつも、いつも心から神様と隣人を愛していることができませんので、毎日悔い改め続けることが求められているのです。ルーテル教会の祖マルチン・ルター博士はその著書「95か条の提題」の第一条で次のように教えられました。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ…』と言われた時、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。」
 そしてイエス様の福音伝道の第一声の後半の「悔い改めて福音を信じなさい。」の「信じなさい。」は、「福音を信じ続けることです。」既にお話ししたように、「イエス・キリストを信じれば、全ての罪が赦される」と言うありがたい知らせを信じ続けることです。生涯の一時期信じれば良いのではなく、生涯に渡って信じ続けるのです。そうすれば、生涯、罪の赦しが与えられ、生涯、神の国というイエス様の守りの中に入れていただけ、幸せな人生を送らせていただけるのです。

 さて、本格的にガリラヤ宣教を開始されたイエス様は、まず弟子たちを集め始めました。イエス様がヨルダン川で洗礼者のヨハネから洗礼を受けられた後、6人の若者を弟子として召された時から約1年経っていました。弟子たちはすっかり自分たちのこれまでの生活に戻っていました。でもヨルダン川で神の御子、救い主に出会った衝撃的な経験は、忘れることができませんでした。ことある度に、家族に話しをして、何時かイエス様と共に仕事ができることを夢見ていたのです。家族も、自分たちの息子が神様のお手伝いができるなんて日が来れば、何と素晴らしいことだと、手放しで喜んでいたことでしょう。息子たちが立派な信仰を持っているということは、親が立派な信仰を持っていることを表しています。親の教育姿勢が良いから子供が立派に育つのです。弟子たちの親は、何時息子たちが旅立って行ってもいいようにと、覚悟していました。
 イエス様は神様ですからそのことを知っておられました。ですから、まずシモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを見て、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と言われました。シモンとアンデレは、「待っていました」とばかり、網をたたみ、舟を陸に上げて、イエス様の後に従いました。
 そしてイエス様は次に、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイと雇い人と共に、舟の中で網を繕っているのをご覧になり、「ヤコブ、ヨハネ。私に付いて来なさい。」と呼ばれたのでしょう。父ゼベダイは、神の子イエス様を見て、喜んで二人を送り出しました。二人は父ゼベダイと雇い人を舟に残して、イエス様の後について行きました。

 このように、イエス様が「時が満ち、神の国が近づいた」と言われた時、それは紀元前4000年前に神様が悪魔に宣告された判決文「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」が成就したことを意味していました。悪魔の力を無力にするために「女の子孫」として救い主であるイエス様がおいでになったのです。ですからイエス様はご自分の到来を「神の国が近づいた」と言われました。罪を悲しみ、悔い改めてイエス様にその罪の赦しを願う者は誰でも、その罪が赦され、イエス様という神の国、即ちイエス様の守りの囲いの中に入れていただけます。毎日悔い改めてイエス様の守りを祈り求め続けるならば、幸福で、喜びと楽しみに包まれた毎日となるのです。イエス・キリストは生ける神様ですから、ご自分の名前(イエス・キリスト)を通して祈られるあなたの祈りを確実に聞いてくださり、あなたの願いを実現してくださいます。ですから、毎日悔い改めて、イエス様を信じ、イエス様に守られた神の国に入れていただき、幸せな人生を送らせていただきましょう。また既に幸せな人生を堪能しておられる方は、イエス様を信じることのすばらしさを、多くの人にお知らせし、この世に在って、幸せに満ちた人生を送っていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

©2021 Rev. Manabu Wakabayashi, All rights reserved.

聖書箇所 説教全文