2021年2月14日(日) 私たちの主の変容
聖書箇所 | 説教全文 |
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説教全文
「彼らの目の前でその御姿が変わった」
マルコの福音書9章2-9節
牧師 若林 學
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。
クリスマスの後、1月6日から始まった顕現節は、今週2月17日の水曜日の日没をもって終了し、四旬節が始まります。ですから本日は、顕現節の最後の日曜日となります。クリスマスにお生まれになられた幼子イエス様は、天使達や星やシメオンやアンナによって、神の御子キリストとして、羊飼いたちや東の国の博士たちに顕現されました。その後、成長して大人になられ、弟子たちを集めて宣教を開始されましたが、本日の「私たちの主の変容」の日に到る迄、イエス様の神様としての本当の姿を見た人は誰もおりませんでした。それで父なる神様は、この日、高い山の上で、神としてのイエス様の本当の姿を、三人の弟子達にお見せになられ、イエス様がご自分の御子であり、
まこと(真)の神であることを示されました。しかし、どうしてこの時期に、父なる神様は、御子イエス様の神様としての本当の姿を、弟子たちにお見せになられたのでしょうか。その理由を本日のテキストに聞いて参りましょう。
まず、イエス様はご自分の本当の姿を弟子達に示す前に、御自分に対する弟子たちの信仰を確認されました。本日の聖書箇所マルコの福音書9章2節に「それから六日目に、」とありますように、この六日前には大きな出来事が有りました。それはマルコの福音書8章27節から30節に示されていますように、イエス様がピリポ・カイザリヤおいて、弟子たちに信仰告白を求めた出来事です。ピリポ・カイザリヤは、カペナウムの町からほぼ北に40㎞ほど離れたヘルモン山の南山麓の高台にあります。このピリポ・カイザリヤにはヨルダン川の水源の一つが有り、水が湧き出している洞窟の前には紀元前4世紀頃のヘレニズム時代から偶像神であるパンと言う半人半獣の神を祭った聖所が有りました。さらに紀元前19年にヘロデ大王が、皇帝アウグストゥスからこの町を授与された感謝を表すために建てた、皇帝の像を安置した大理石の立派な神殿が有りました。このことからわかる様に、このピリポ・カイザリヤは長い間、偶像崇拝や皇帝崇拝が行われてきた場所です。その皇帝崇拝が行われた立派な神殿の前で、イエス様は弟子たちに、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と信仰告白を求められたのです。するとペテロが弟子たちを代表して「あなたはキリストです。」と答えたのでした。
この様に、弟子たちはイエス様の霊的な導きを受けて、「あなたはキリストです」と信仰告白するレベルにまでは到達したのですが、まだまだイエス様を預言者、すなわち神の言葉を伝え、神の力で奇跡を行う人間と見る所から抜け出せてはいませんでした。事実、イエス様がマルコの福音書8章31節で「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならない。」と、弟子たちに教え始められた時、ペテロはイエス様を脇にお連れして、いさめ始めました。そうしたらなんとイエス様はペテロを叱って言われたのです。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」一番弟子のペテロでさえ、イエス様を人間と見ることから抜け出せなかったことが分かります。しかしイエス様によって、病を癒された人、悪霊を追い出された人、そして罪赦(ゆる)された人は、自分の身に起こったことを通して、イエス様は神様であると直感していました。けれども弟子たち全員はすこぶる健康であり、信仰深く育っており、罪深い経験も有りませんでした。この健康に恵まれたことと信仰深さが弟子たちにとっては逆に、イエス様を人間と見ることから抜け出す足かせとなっていたのです。
そこで十字架の死を数か月後に控えたイエス様は、死ぬ前にご自分の本当の姿を弟子たちに見せようとされて、弟子たちの信仰告白から数えて六日目に、イエス様はペテロとヤコブとヨハネの3人だけを連れて、高い山に登られました。なぜ3人なのかといいますと、イスラエルの国での証言は「二人また他は三人の口によって確定される」と、律法に記されているからです。後にこの3人によって高い山の上で起こった出来事が人々に紹介された時、人々から確かな事であるとして認められるためです。また3人に絞ったのは、後で述べるように、秘密が漏れないようにという配慮からでもあると思われます。時期は何時頃かと言いますと、通説では8月頃となっています。大変暑い時期です。この暑い時期に、イエス様は3人の弟子たちと、えっちらおっちら山を登って行かれたのでしょうか。当教会の公式聖書としている「聖書新改訳2017」も「口語訳聖書」また「聖書協会共同訳」も登山の「登」を用いて「登られた」という言葉で翻訳しています。しかし「新改訳第三版」は「導いて行かれた」と別の言葉で翻訳しています。前にもお話ししたことがありますが、原語のギリシャ語聖書では「運び上げる」とか「連れて上がる」という意味の言葉が用いられています。ですからイエス様と3人の弟子たちは、エレベータかケーブルカーに乗るように、スーッと目的とする高い山の上に連れて行かれたと推定されます。イエス様は神様ですから、不可能なことはありません。
さて、山の上に到着すると、弟子たちの目の前で、イエス様の姿が変わりました。福音記者マルコは9章3節でイエス様の衣が「非常に白く輝き、この世の職人には、とてもなし得ないような白さ」に変わったと記しています。しかし肝心のイエス様の顔については何も記していません。そこでマタイの福音書17章2節を見ますと「顔は太陽のように輝き」と記されています。ヨハネの黙示録21章23節を見ますと、「子羊が都の明かりだからである。」と記されています。この様に天の御国におけるイエス様の御顔は太陽のように輝き、その衣は光のように白いということが分かります。
これが本来のイエス様の御姿です。するとすぐにエリヤがモーセと共に現れ、イエス様と話を始めました。マルコの福音書には話の内容が記されていませんが、ルカの福音書9章31節にこのように記されています。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。」この言葉から、話題はエルサレムでイエス様が十字架の上で最期を遂げられることについて話されていたことが分かります。このイエス様の十字架の死は天地創造の初めから予定されていたことです。モーセは旧約聖書の中心であるモーセ五書を書いた人であり、預言者エリヤは旧約聖書のその他の書即ち預言書と詩歌を表し、そしてイエス様は新約聖書を表します。つまりこの3人は聖書全体を表しているのです。ですから、この3人は、イエス様が全人類の身代わりとして十字架に掛かることによって、イエス・キリストを信じる人の罪が赦され、その人は滅びから救われ、天の御国に導かれるという、素晴らし救いの道が、間もなく完成することを話し合っていたのです。
生身の人間にとって天国の出来事を見るということは、心身共に疲れることらしく、ルカの福音書9章32節によると、弟子たちは睡魔に襲われ、うとうとしていたようです。しかし、はっと気が付いて目を開けると、モーセとエリヤがイエス様から別れようとしているではありませんか。そこでペテロがあわててイエス様に言いました。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」(マルコ9:5)このペテロの言葉から、少なくとも、天の御国は、「素晴らしい所である。」ということが分かります。イエス・キリストを信じれば、確実に「素晴らしい所である」天の御国入れます。逆もまた真なりです。イエス・キリストを信じなければ、確実に「最悪の所である」地獄に落とされます。ですから、私達は皆イエス・キリストを信じ、何としても天の御国に入らなければなりません。そして素晴らしい第二の人生を素晴らしい天の御国で過ごさせていただきましょう。
もう一つ分かることは、「彼らは恐怖に打たれていた。」(マルコ9:6)ということです。この「恐怖に打たれる」という原因が、報告する福音記者によって微妙に異なっています。このマルコの福音書ではモーセとエリヤがイエス様と語り合っている所を見て、恐怖に打たれています。マタイの福音書17章6節では、光り輝く雲の中から御父の声を聞いて、「非常に恐れた。」と書いてあります。そしてルカの福音書9章34節では、「雲がわき起こって彼らをおおった。彼らが雲の中に入ると、弟子たちは恐ろしくなった。」と書いてあります。福音記者三人の表現する「恐れた」原因が異なるので、特定が難しいのですが、少なくとも、罪を持った人間にとって、天の御国は「恐怖に打たれる」住みにくい所、とも言えます。ですからイエス様はマルコの福音書1章15節で述べられました「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」このイエス様が言われるように、「罪を悔い改め、イエス様を信じましょう。」そうすれば私達は「素晴らしい」天の御国に入ることが出来るようになれるのです。
弟子たちが恐怖に打たれている時、雲が沸き起こって弟子たちを覆い、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け。」(マルコ9:7)雲は父なる神様の臨在を示します。また雲の中から聞こえた「これはわたしの愛する子」という内容から、声の主は父なる神様と言うことができます。父なる神様は、「彼の言うことを聞け。」と弟子たちに命じています。「彼の言うこと」とは何を指すのでしょうか。それはイエス様の言われる全ての言葉です。イエス様は神様であるからです。このイエス様の言葉を聞くために必要なことは、ただ一つです。それはイエス様に「どうか私の罪を赦して下さい。」と願い、イエス様から、「わたしもあなたに罪を認めない。」と宣言していただくことです。罪の赦しを願うなら、イエス様は、二つ返事で罪を赦して下さいます。しかし、逆に願わなければ、決して赦していただけません。なぜなら、イエス様に罪の赦しを願うということは、「イエス様の言われる全てのことを聞く用意がある」という態度を示しますが、イエス様に罪の赦しを求めないことは、「イエス様の言われる全ての事を聞く用意がない」という態度を示すからです。今から約2000年前、イエス様は私たち全人類の罪の身代わりとして、十字架に掛かってくださいました。ですからイエス様の罪の贖いは既に完了しているのです。後は私達がそれを受け入れることが求められているのです。コロナ禍の今の世の中にあって例えるならば、イエス様の十字架はワクチンの様なものです。イエス様の十字架を受け入れる人は、イエス様の十字架のワクチンを受ける人となり、ワクチンによってコロナ・ウィルスに対する免疫ができるのと同じように、イエス様の十字架によって、罪の赦しという神様からの恵みが与えられるので、永遠の死に至ることが無いのです。しかし、イエス様の十字架を受け入れない人は、イエス様の十字架のワクチンを受けない人となるので、永遠の死に至ってしまうのです。
弟子たち三人に、ご自分の天の御国における姿を見せられたイエス様は、予定していたことを全て終えると、山を下り始めました。山の頂上に向かう時は、イエス様が全能の力を用いて、瞬時に弟子たちを頂上まで連れて行きましたが、山を下る時は、歩いておりて来られました。ギリシャ語聖書はそのように伝えています。その歩いておりてくる間にイエス様は弟子たちに命じられたことが一つあります。それは、「人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない。」(マルコ9:9)ということです。選ばれた証人たちペテロ、ヤコブ、そしてヨハネの唇がこのイエス様の変容に関して封印されたのは、イエス様が「メシア」という称号を常に避けておられたのと全く同じ理由からです。この「メシア」という称号は、ローマ帝国から独立を勝ち取る「救い主」という、政治思想と結びついてしまっていました。しかし、私たちの主の変容は、信仰の大いなる基盤、つまり罪の赦しと永遠の救いのしるしとして行われました。
イエス様は十字架に掛かられる数ヶ月前に、三人の弟子たちだけを高い山の上に連れていかれ、モーセとエリヤを伴って「彼らの目の前でその御姿」を変えられ、天の御国におけるまことの神としての姿を現されました。これは後に、全ての人が、「イエス・キリストは自分のために十字架に掛かられたまことの神である」と知って、イエス・キリストを信じて罪赦され、天の御国に入る者とされるためでした。ですから全ての人には、悔い改めてイエス・キリストを信じ、罪赦されて天の御国に導かれることが求められています。しかし、信じるということほど難しいものはありません。自分の心の奥に隠してある罪の赦しを求めることなぞ、恥ずかしくて、簡単に出来ることではありません。出来たら死ぬ迄、お墓迄持って行きたいほど、隠し通したいのです。でも恥は一時です。しかし死は永遠です。罪を持ったままでは永遠の死が待っているだけです。でも穴にも入りたいほど恥ずかしい思いがする罪の告白は一時で、その恥を忍んでイエス様に罪を告白した人には、永遠の命と天の御国への入国が許可されるのです。
イエス様は本日あなたのためにも高い山の上で「その御姿」が変わり、神としてのまことの姿を現わして下さいました。このお方を信じ、永遠の命に入らせていただきましょう。また、既に永遠の命に入っておられる方々は、まだイエス様と出会っておられない方々が信じることが出来るようにと祈り、その人のためにも変容されてまことの神の姿を現わして下さった方、イエス・キリストのことをお知らせしましょう。
全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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