説教全文

2021年3月14日(日) 四旬節第四主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「永遠のいのちを持つためには」

ヨハネの福音書3章14-21節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 本日の説教はヨハネの福音書3章14節から21節まで、説教題は「永遠のいのちを持つためには」です。そして本日の話題は、イエス様がイスラエルの教師でありパリサイ人であるニコデモさんに永遠のいのちを持つ方法を伝授する場面です。
 10年前の3月11日に、東日本大震災が起こり、特に東北沿岸部には高さ10~20mを超える大津波が押し寄せて、多くの人々が津波に飲み込まれて、犠牲者となったことは皆様御存じの通りです。2021年3月9日時点で死者15,900人、行方不明者2,525人、震災関連死者数は3775人、計22,200人に上ると報告されております。
 残された多くの方々の、失われた御家族のへの思いは、いかばかりかと、哀悼の意を表するのみです。大震災から10周年にあたり、津波襲来の様子から、その後の復興の様子、人々の日常生活の回復、そして前向きの気持ちになるまでの様子などがテレビの映像を通して報道されておりました。その中には震災後5年目の時は、亡くなった家族のことが悔やまれ、時間が止まったようだったそうですが、10年目の今年、漸く亡くなった家族の分まで生きなければと、気持ちが前向きになることができたと語っておられた方々へのインタビューもありました。
 また、新型コロナ・ウィルス感染症によるここ2年間の死者数は、日本では8,573人ですが、全世界では264万人と、多くの家族が愛する方々を失っております。
 そうでなくとも人間の死は寿命という形で訪れてきます。私事で恐縮ですが、私の父は100歳で、母は88歳でこの世を去りました。また、2年前、元気だった私の義理の兄が急に亡くなり、一昨日、私の甥の妻が48歳の若さで病死しました。甥にとっても妻の死は突然の事でしたし、残された高校生と中学生の子供たちにとっても、お母さんの死は大きなショックでしたので、きっと立ち直るのにはとても時間がかかることと思われます。
 甥の家族もそうですが、残された御家族にとって、愛する者を失うことは本当に悲しく辛いものです。しかし、もし私たちがイエス・キリストを信じているなら、私達には永遠のいのちが与えられており、例え肉体の死はあっても、また天の御国で会えるという希望を持つことができます。人間の死は早かれ遅かれ必ず訪れます。その時、慰められるのは神様の愛であり、天国でまた会えるという希望です。キリスト教は天地創創造以来そのことを保証しております。本日はこの永遠のいのちについて、特に、(1)「永遠のいのちとは何か」、(2)「永遠のいのちを持つと何の良いことがあるのか」、そして(3)「永遠のいのちを得るにはどうしたら良いのか」等、この三つの質問の答えを聖書に聞いていきたいと思います。

 まず「永遠のいのち」とは何でしょうか。本日の聖書箇所であるヨハネの福音書を見ますと、「永遠のいのち」という言葉が、既に2回出ております。15節と16節です。2回出ているので本日の説教題を「永遠のいのちを持つためには」としたわけです。聖書の中で、同じ言葉が近接して2回語られている時は、その言葉が重要であることを示しています。それでは一体ヨハネの福音書全体で何回「永遠のいのち」という言葉が出てくるのか調べてみましたら、17回も出てくることが分かりました。
 その17回目である17章3節に「永遠のいのちとは」という言葉で始まる箇所がありました。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」この「知る」というギリシャ語の言葉は、動作が継続することを表す現在形で書いてあります。つまり「父なる神様と御子イエス様を知り続けている」という現在の動作を意味します。私達が、まことの神様である父なる神様と、父なる神様が遣わされたイエス様を知るには、神様本人の言葉が書かれている聖書を通して知るしかほかに方法がありません。ですから神様を知り続けるということは、毎日聖書を読み続ける、あるいは聖書が朗読されているCDやスマート・フォンのアプリなりを毎日聞き続けるということを意味します。週報の4頁のお知らせ欄にも書いておきましたが、皆さんにお勧めしたいことは「この四旬節、今まで以上に聖書の御言葉に接する時間を作り、御言葉に思いを巡らせ、御言葉の中に自己を浸す」ことです。ちょうど私たちが毎日3度の御飯をいただくように、毎日一度は聖書に接する時間を持つことです。そして毎日聖書を繰り返し、繰り返し、聖書全体を読むことによって、私達と御言葉との距離が短くなり、私たちの心が聖書によって整えられたものとなって来るのです。つまり聖書と親しくなることによって、永遠のいのちが、私たちの心の中にしっかりと定着してゆくということが起こるのです。
 それでは永遠のいのちを持つためには「父なる神様と御子イエス様を信じることだけでは不十分なのか、」という疑問が出てきます。本日の聖書箇所のヨハネの福音書3章15節に書いてありますように、永遠のいのちはイエス・キリストを信じる者にあたえられるものなので、「永遠のいのちを持つために必要なことは、まず信じることです。」イエス様を信じること無くして何も始まりません。しかし、イエス様がどなたなのかを正しく知ること無しに、イエス様を信じ続けることはできません。ですから、まず信じ、信じたら聖書を読み始め、そして読み続けるのです。順序としては信じることがまずあって、それからイエス様に対する知識を持つことが求められている、ということになります。 

 次に「永遠のいのちを持つと何の良いことがあるのでしょうか。」この質問に対する答えが本日の聖書箇所に記されています。本日の聖書箇所には、夜にイエス様を訪ねてきたパリサイ人のニコデモさん対して、イエス様が教えられたことが書いてあります。ニコデモさんがイエス様を訪ねて来た目的は、ヨハネの福音書3章3節と5節のイエス様の言葉から、神の国を見る方法、できたら見ることだけでなく、実際に神の国に入る方法について教えていただくために来たことが分かります。ところが、ニコデモさんがそのような訪問の目的をイエス様に告げる前に、イエス様の方から話を切り出されました。ニコデモさんは、イエス様に心の内を読み取られている事を感じ、絶対者の前に立たされている畏れの気持ちを味わいましたが、同時に、優しい神様に守られているという温かな安心感も覚え、このお方に全てを委ねようと、心が定まりました。
 ニコデモさんが、神の国を見たい、できれば入ってみたいと願ったのは、洗礼者ヨハネさんや、イエス様が「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と宣べ伝えている声を、直接的に、あるいは間接的に聞いたからでした。前にもお話ししましたが、マルコの福音書1章15節に書かれている「時が満ち」という言葉は、神様の約束の時が満ちたという意味です。どんな約束の時かと言いますと、私達の最初の両親アダムとエバが悪魔に騙されて禁断の木の実を食べて罪を犯した時、神様が悪魔に裁きの言葉を下された時の約束です。その約束の時から数えて「時が満ちた」ということです。神様は悪魔に宣告されました。創世記3章15節の御言葉です。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」この裁きのみ言葉に出て来る「女の子孫」がイエス・キリストであって、その御方がイスラエルの国に登場されたことによって、「時が満ちた」のです。アダムとエバの事件の時から数えて約四千年後の事でした。そして「神の国が近づいた。」とは、「神の子イエス・キリストがあなたがたの所に来ましたよ。」という意味です。神の国とは、神様がおられる場所です。ですからイエス様がおられる場所、そこが神の国となるのです。そしてこの神の国に入る方法が、「悔い改めて、福音を信じる」ことです。具体的には、イエス・キリストを自分の神として信じて、罪を赦(ゆる)す悔い改めの洗礼を受けることです。そうすれば神の国に入ることができます。これが永遠のいのちを持つ人の受ける特典です。その人は全ての危害から守られ、当然コロナ・ウィルス感染症からも守られます。

 三番目の「永遠のいのちを得るにはどうしたら良いのでしょうか」という質問に対する答えも本日の聖書箇所に書いてあります。ニコデモさんがイエス様を尋ねてきた時には、イエス様が成し遂げなければならない任務がまだ一つ残っていました。それが本日の聖書箇所の14節書いてある任務です。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」モーセが荒野で蛇を上げた事件は、当然のことながらイスラエルの教師ニコデモさんも良く知っていました。イスラエルの民は最初、現在のイスラエルの国が位置するカナン地方に住んでいましたが、神様が飢饉を起されて、イスラエル民族の先祖であるヤコブ一族を食料のあるエジプトに避難させました。70人で避難してきたヤコブ一族は、430年間(出エジプト12:40)のエジプト滞在中に人口約200万人の民族となりました。そして、神様の導きによって、エジプトを脱出してカナンに帰るはずだったのですが、カナン偵察隊が悪い報告をしたために、神様の罰を食らい、40年間荒野での放浪生活を余儀なくされました。その40年が終わってようやくカナンに行けるという時になって、イスラエルの民が「パンもなく、水もない。われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている。」と言って神様と指導者のモーセに逆らってしまったのです。そこで主なる神様はイスラエルの民の中に燃える蛇を送られ、蛇が民に噛みついたので、民の中の多くの者が死んでしまいました。(民数記21章5-6節)それでモーセが民のために祈ると、主は言われました。民数記21章8節です。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。」「仰ぎ見る」という言葉は「仰げば尊し」と歌われているように「尊敬して見上げる」という意味で、「神様の言葉を信じて、旗竿の上に付けられた青銅の蛇を見上げる」という行為を現します。同じように、本日の聖書箇所の14、15節にあるイエス様の言葉、「人の子も上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」とは、イエス様が十字架に付けられることを預言しております。この十字架に付けられたイエス・キリストを信じて、仰ぎ見る者は皆、イエス・キリストが、自分の罪の身代わりとなって十字架に掛かってくださったということを信じているので、その人の罪の代価は既にイエス・キリストによって支払われており、その人にはもう罪が無いとみなされるということを表しています。ローマ人への手紙6章23節にはこのように書いてあります。「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ですから、イエス・キリストを信じない人の罪は赦されていませんので、そのままでは永遠の死となります。しかし、イエス・キリストを信じて、その十字架の死を自分の罪の身代わりとして受け入れている人には、神様からの特別な贈り物として、永遠のいのちが与えられるのです。ですから「永遠のいのちを得る方法は、イエス・キリストを信じて、その十字架の死を自分の罪の身代わりとして受け入れることです。」
 この全ての人の罪の身代わりとなる任務がイエス様にはまだ残っていたのです。このイエス様の十字架がいかに大切なことであるかが16節と17節にその理由として示されています。私達の日本語訳聖書には16節と17節が理由であるという言葉が翻訳されていませんのではっきりしませんが、ギリシャ語聖書の文章には「というのは…だからである」という意味の「ガル」という小さな単語が有ります。この理由を示す単語を加えて翻訳するとこの様になります。
 16節は、「というのは、神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためだからです。」となります。この16節が教えている第一の理由は、父なる神様が、私達全人類の罪の身代金を払うために、御自分の一人子イエス・キリストを十字架に掛けて殺してしまわれるほど、私達人間を愛しておられたということです。
 次の17節は「というのは、神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためだからです。」となります。この17節が教えている第二の理由は、父なる神様は一人子イエス・キリストを十字架に掛けて殺してまでも、私達人間を永遠の滅びから救いたかった、ということです。
 この二つの理由から次のことが分かります。即ち、神様はエデンの園で、悪魔を用いてアダムとエバに罪を犯させ、全ての人を御自分から遠ざけて不従順の内に閉じ込め、そして今回、一人子イエス様を十字架に掛けて、人間に御自分の愛を示し、全ての人々がイエス・キリストを信じる信仰を通して、神様の愛を知るようにされた、ということが分かるのです。使徒パウロがローマ人への手紙11章32節に書いた通りです。「神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。」

 ですから、全ての人を愛しておられる父なる神様としては、ヨハネの福音書3章18節に書かれているように、「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。」という言葉に従って、最後の審判を行われます。この結果、御子を信じる人には永遠のいのちが与えられて、この世に生きている内から天の御国に導かれ、信じない人には永遠のいのちが与えられず、この世の死と同時に地獄へと導かれます。
 イエス様は「わたしは世の光です。」(ヨハネ8:12)と言われました。イエス様は十字架に掛けられて亡くなられたとはいえ、その三日後に復活しておられます。したがって、この世にはイエス様の光が満ちています。一方、悪魔の闇もこの世に満ちています。全ての人間の前には、光を選ぶのか、それとも闇を選ぶのか、自由な選択が呈示されています。多くの人が闇を選ぶのはこの世の常です。人間は自分が好きなことをしたいのです。放って置いて欲しいのです。しかし神様は放って置かれず、その人を苦しい目に合わせて、目を覚まさせるようにして導かれます。皆さんも良くご存じの有名な讃美歌、アメージング・グレースを作詞したジョン・ニュートンはこの一人でした。彼はイギリス人で、アフリカからアメリカに黒人奴隷を運ぶ船の船長でした。彼は黒人奴隷を家畜のように扱い、輸送中に多くの奴隷を死に至らしめたことを、後年悔い改め、罪の赦しを経験し、のちに牧師となり、アメージング・グレースを書いたと言われています。
 真理を行う者、即ち真理であるイエス様を信じて、イエス様に導かれて毎日聖書に親しみ、悔い改めている人は存在しているのです。世界中の人口の30%はクリスチャンであると言われていますから、かなりの人が、光の方に来ていることが分かります。

 こう言う訳で、永遠のいのちとは、「唯一のまことの神である父なる神様と、父なる神様が遣わされたイエス・キリストを知ることである。」ということが分かります。イエス・キリストを知るために必要なことは、まずイエス・キリストを信じ、毎日聖書に親しむこととなります。信仰と聖書の知識無くして、永遠のいのちはありません。
 次に永遠のいのちを得るメリットは、生きている今から天の御国に導き入れられ、事故やケガや病気から守られ、この世における寿命が来た時には、イエス様のお迎えを受けて、天の御国に導かれることです。
 更に永遠のいのちを得るには、イエス・キリストを信じて、その十字架の死を自分の罪の身代わりとして受け入れることです。その人には、神様からの特別な贈り物として、永遠のいのちが与えられます。
 この四旬節、私達は聖書に親しみ、父なる神様と御子イエス様を身近に感じるようになり、永遠のいのちを豊かに持つ者とならせていただきましょう。永遠のいのちを豊かに持っている人は、まだ持っていない人にイエス様をお伝えし、永遠のいのちのおすそ分けをしましょう。そして多くの人が、コロナ・ウィルスはじめ多くの病気やケガや事故から守られた生活、光り輝く生活を送るようにならせていただきましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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