説教全文

2021年4月4日(日) 私たちの主の復活祭

聖書箇所 説教全文

説教全文

「あの方はよみがえられました」

マルコの福音書16章1-8節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 私たちの主の復活祭の説教は聖マルコの福音書16章1節から8節より、説教題は「あの方はよみがえられました」です。
 まずは、「私たちの主の御復活」おめでとうございます。イエス様のご復活をお祝いする復活祭を英語ではイースターと言います。日本のデパートとかショッピングセンターでは、最近漸く「イースター・セール」の広告が出るようになりましたが、一般の方々には、まだ「イースターって、なあに?」と言われる位、イースターの存在は認知されておりません。現在、一般的に日本を含め多くの国で日曜日は休日となっています。でも日曜日が休日となった理由がこのイースターが原点であることを知っている人は少ないことと思います。
 皆様御存知のように、日本では昔から休日と言えば盆と正月と言われる位、人々は一年中ほとんど働き詰めで、日曜日を休日とする慣習はありませんでした。それが明治時代になって、欧米の国々との交流が盛んになるにつれ、西洋の文化を取り入れる一環として日曜日を休日とすることも取り入れられたようです。
 どうして日曜日が全世界的な休日になったのか調べたところ、「紀元4世紀に、ローマ帝国のコンスタンティヌス皇帝が、日曜日を休日とせよ。」と命じたことが大きな発端であることが分かりました。その理由は、コンスタンティヌス皇帝のお母さんであるヘレナさんがクリスチャンであり、コンスタンティヌス皇帝もまたクリスチャンになったからと思われます。その結果、それまでローマ帝国から弾圧されてきたキリスト教は、コンスタンティヌス皇帝によって西暦313年にローマ帝国公認の宗教となりました。ローマ帝国の日曜休日の慣習はその後ローマカトリック教会の発展に従い、ヨーロッパ各地に広がり、終には明治時代になって日本にも到達しました。日本でも1876年、明治9年4月に太政官布告が出され、官庁の休日を日曜日とし、土曜日の執務は正午までの半ドンとすることになりました。それ以後、多くの国民が日曜日には休むようになりました。ですから日本の方々にも、もう少し日曜日の由来を知ってキリスト教に関心を持ってもらいたいと願っています。

 さてそもそも、なぜ日曜日が休日となったのか、それはイエス様がユダヤ教の礼拝日である安息日(あんそくにち)の次の日、即ち日曜日に十字架上での死から復活されたからでした。イエス様は十字架に掛かられる前に、三回に渡って弟子たちに、ご自分が十字架に掛かって死に、三日後によみがえることを話しておられました。イエス様は神様ですから、イエス様が二回言われただけでもそのことは必ず実現するのに、ましてや三回も同じことを言われた訳ですから、実現しないと思う方がおかしいということになります。マルコの福音書で言えば、一回目は8章31節で、この様に言われました。「それからイエスは、人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」二回目は9章31節です。「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。しかし、殺されて三日後によみがえる。」そして三回目は10章34節です。「異邦人は人の子を嘲(あざけ)り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」このようにイエス様は、「死んだ後によみがえる」と三度言われました。
 この三度に渡るイエス様の預言の言葉は、十二弟子から逐一男女を問わず大勢の弟子たちに伝えられました。イエス様が死んだ後によみがえるという言葉ですから、どうでもいいような話ではなかったことも、弟子たちに伝わっていく力となったことでしょう。ですから本日登場する婦人達、マグダラのマリアさん、ヤコブの妻であるマリアさん、それにサロメさんの三人も当然知っていました。
 しかし自分たちのこの目で、イエス様が本当に十字架につけられ、槍で胸を刺し貫かれて、確かに息絶えられた様子や、香料と亜麻布にくるまれてお墓に葬られたところを目撃した者たちにとって、イエス様の死はとても信じられない程の大きなショックでした。もう夢も希望も打ち砕かれ、イエス様が三日後によみがえるという預言はとても信じられるものではありませんでした。病気で亡くなったベタニアのラザロさんを、イエス様が復活させたことは目撃していましたが、そのイエス様はもういません。一体誰がイエス様をよみがえらせると言うのでしょうか。もう誰もいないのです。
 そういう訳で、三人の婦人たちは悲しみに暮れて、イエス様がお墓に葬られた後、急いで市場に行き、高価な香油を買いました。イエス様の体に塗るためです。婦人たちにとっては、愛するイエス様が、葬りの香油も塗られないまま埋葬されたことに、とても我慢ができなかったのです。ところが実は、イエス様の体には、既に香油が塗られていました。ヨハネの福音書12章3節から7節を見ますと、イエス様がベタニアのラザロさんの家を訪れた時、接待していたマリアさんが、非常に高価なナルドの香油を1リトラ(約328グラム)取ってイエス様の足に塗り、自分の髪の毛でイエス様の足をぬぐうという出来事がありました。それを見ていたイスカリオテのユダが非難しました。「どうして、この香油を300デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」300デナリは日本円で約300万円です。そうするとナルドの香油は1グラム約1万円です。高価ですね。このユダの非難の言葉を聞いてイエス様は言われました。「そのままにさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。」こういう訳でイエス様の体には、葬りのための香油が既に塗られていたのですが、イエス様を心からこよなく愛する婦人たちは、やっぱりきちんと葬りの香油を塗って差しあげたいと思っていたからです。その思いは募ることはあっても止むことは決してありませんでした。

 婦人たちが、明け方前のまだ涼しい時にお墓に向かって出発したのは、少しでも遺体を丁重に扱えることを願っての事でした。婦人たちがお墓に着いた時、朝日が差し始めました。その時、婦人たちは、大変なことを思い出しました。「金曜日の午後、イエス様が葬られる所を見ていたけれど、あのお墓の入り口を塞いでいる、あの大きな円盤状の岩の扉を、私達だけで動かすことができるかしら。」と心配になったのです。聖書には「石は非常に大きかった。」と書いてあります。そしてどうして昨日の内にペテロやヨハネに一緒に来るように頼まなかったのかと悔やまれました。ところがなんとお墓に目を向けると、お墓の入口がぽっかりと開いているではありませんか。そして扉となっていた円盤状の岩はレールから外れて、お墓の前にでーんと横たわっていたのです。それを見た時、婦人たちの扉を転がす心配は吹き飛び、今度は何事が起ったのかと、びっくりしてしまいました。次に一番心配したのはイエス様の遺体です。それで急いで行ってお墓の中に入りました。婦人たちがそこで見たものは、真っ白に輝く長い衣をまとった青年でした。その青年は、イエス様が横たえられたと思われる台の右端に座っていました。この光景に婦人たちは更なる恐れに襲われました。恐れた通り、イエス様の遺体が無かったのです。きっとこの青年がイエス様の遺体をどこかに運び去ったに違いない、と疑いました。

 ところがこの青年は婦人たちに更に驚くべきことを告げたのです。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。」この青年に「驚くことはありません。」と言われても、お墓の中にいた青年に驚かない訳にはいきません。そして婦人達は耳を疑いました。そしてこう思いました。「この青年は、ここに葬られていたお方が、十字架に付けられたナザレ人イエス様であることを知っていたわ。だからこの青年の言うことはどうも確からしいわ。そして、『あの方はよみがえられた。』と言っているわ。」しかし、「本当かしら。」という、疑いの念がどうしても拭いきれません。それにしてもこの白く光り輝く長い衣をまとっている青年は、一体どこから来たのかしら。もしかしたら、この方は神様が遣わされた天使なのかしら。天使は嘘をつかないから、イエス様がよみがえられたというのは本当かもしれないわ。」そう婦人たちが青年の言葉を信じ始めた時、以前イエス様が言われていた三度の言葉を思い出しました。「異邦人は人の子を嘲(あざけ)り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」「そういえば、今日はイエス様が十字架の上で亡くなられてから三日目だわ。そうよ、きっとイエス様はよみがえったのに違いないわ。だから、この青年の言うことは正しいのだわ。」と婦人たちは思いました。

 青年は、婦人達が心の中で自問自答を繰り返し、自分の言葉が受け入れられたと知った時、言葉を続けました。7節です。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」婦人達は、以前、確かにイエス様が言っておられた、「わたしはよみがえった後、あなたがたより先にガリラヤに行きます。」(マルコ14:28)という言葉を思い出しました。そうした婦人たちの心の中に、「イエス様は生きている!」という確信が湧いてきたのです。そう婦人たちが合点した時、婦人たちは、心の底から溢れて来る圧倒される喜び、今まで経験したことの無い深い喜びに包まれ、心が天に吸い込まれそうな、なんともいわれぬうっとりとした恍惚の境地に導かれました。まるで天国に導かれたような素敵な思いに満たされたのです。それは新改訳聖書2017のマルコ16章8節に書いてある「気も動転していた」と翻訳されている言葉はギリシャ語で、「エクスタシス」と書いてあるからです。英語で言えば「エクスタシー」です。「狂ったような喜び」、とか「歓喜」とか、「恍惚」と翻訳されるべき言葉です。
 そしてこの8節最後の「恐ろしかったからである。」は正しい訳です。でもどうして恐ろしかったのでしょうか。あの十字架に掛かり、槍で胸を突かれ、血と水を流されたイエス様がなんと私たちと同じ普通の人間ではなく、まことの人間の姿を取られたまことの神様であると分かったからです。青年の姿をした天使ももちろん恐ろしかったけれど、それ以上のお方、天に住まわれるお方、天地を創造されたまことの神様、人間の目に見ることもできない畏れ多いお方と、今迄何も知らずにお話ししたり、食事を差し上げたりしたり、一緒に歩んだりして、なれなれしく接してきたことを知って、急に体がガタガタと震えが止まらなくなり、恐ろしくなったのです。
 それで婦人たちはお墓から逃げ去りました。そして誰にも何も言えませんでした。深い喜びに突き上げられると同時に、畏れ多い思いに心がおののき、心が平静になるまで時間が必要だったのです。

 このように日曜日が休日になったのは、日曜日に「あの方がよみがえられた」からです。即ち、イエス様が日曜日によみがえられたからでした。それで初代教会時代のクリスチャン達は、一週間ごとに巡りくる日曜日を主の日と定め、仕事を休んで、復活されたイエス様を礼拝する日と決め、集まって礼拝するようになりました。年に一回ではなく、七日に一回なのです。なぜなら初代教会の人達は、復活されたイエス様と会って、えも言われぬ喜びに溢れただけでなく、あの十字架に掛かり、槍で胸を突かれ、血と水を流されたイエス様がなんと普通の人間ではなく、まことの人間の姿を取られたまことの神様であると分かったからです。
 イエス様が人間の姿を取られてこの地上に住まわれたのは今から2000年前の一時期でしたが、神様ですから、今でも生きておられます。もしイエス様にお会いしたければ、自分の部屋に入り、後ろの戸を閉め、罪を告白して、その罪の赦(ゆる)しをお願いしましょう。私達が心から罪を悲しみ、その赦しを願うなら、あなたにもきっと現れてくださいます。あなたは罪の赦しの御言葉を聞き、今まで経験したことの無い深い喜びに満たされ、感謝の気持ちに溢れることでしょう。
 また罪の赦しだけでなく、様々な願い事を、イエス様のお名前を通して祈りましょう。祈りが聞かれた時、あなたは「まことに、主はよみがえられた!アレルヤ!」と復活祭の歓声を上げるようになり、イエス様があなたと共に歩んでくださることを実感するようになります。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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