2021年4月11日(日) 復活節第二主日
聖書箇所 | 説教全文 |
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説教全文
「イエスの名によっていのちを得る」
ヨハネの福音書20章19-31節
牧師 若林 學
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。
今朝の説教は聖ヨハネの福音書20章19節から31節より、説教題は「イエスの名によっていのちを得る」です。
イエス様の御復活によって、私たち人間の想像を遥かに超える出来事が起こるようになってきました。キリストの十字架刑によって、ユダヤ人たちは、キリスト教は消え去るだろうと踏んでいましたし、使徒たちを始め大勢の弟子たちも夢が潰(つい)えたと思って、沈み込んでしまっていました。しかしキリストの御復活により、行いを教えるユダヤ教は衰退し、信仰を教えるキリスト教がユダヤ教を引き継ぐ正統的な宗教となり、世界中に広まりました。この想像以上のことは、キリストと同じ時代の人たちだけにではなく、今に到るまでもイエス・キリストを信じる人々の人生にも起こり続けています。クリスチャンを迫害したパリサイ人のサウロは、復活されたイエス様によって使徒パウロとされ、奴隷商人だったジョン・ニュートンは「アメージング・グレース」を書く牧師となり、物作りが好きだったエンジニアは心臓手術を契機に牧師となりました。多くの人が復活されたキリストと出会い、キリストに導かれて想像以上の素晴らしい人生を歩んでいます。
このイエス様のご復活は、天地創造の最初から計画されたものだったのでしょうか。答えは「はい。」ですね。アダムとエバが神様の戒めを破って禁断の木の実を食べた時、神様はエバを誘惑した蛇に向かって言われました。創世記3章15節の言葉です。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」「わたし」というのは裁き主の神様です。「おまえの子孫」というのは悪魔です。そして「女の子孫」がイエス様です。イエス様は悪魔の頭を打ち、最終的に悪魔を滅ぼされますが、その前に悪魔はイエス様の足を打ち、軽傷を与えます。イエス様の足を打つとは、具体的には、悪魔がユダヤ人を用いてイエス様を十字架に掛けて殺すことです。しかし、イエス様は神様ですから復活されたのです。そういう訳で創世記3章15節の言葉から、イエス様のご復活は天地創造の初めから予定されていたということをうかがい知ることができます。
このイエス様のご復活は、何のためかというと、私たち人間のためでした。人間はもともと、神様の花嫁として永遠に生きるように造られたのですが、アダムとエバが、神様が唯一食べてはならないとお命じになった「善悪の知識の木」の実を食べたので、罪を持つ者となり、その結果死ぬ者となったのです。前にもお話ししましたが、本来罪は、当然ながら罪を犯した者だけに留まり、その周囲の人々には伝わりません。聖書もそのことを明確に規定しています。申命記24章16節にはこのように書いてあります。「父が子のために殺されてはならない。子が父のために殺されてはならない。人が殺されるのは自分の罪過のゆえでなければならない。」ですから使徒パウロは、このアダムとエバの罪を全ての人間が負わなければならないものとされたのは、神様であるとローマ人ヘの手紙11章23節で明らかにしています。「神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。」この「不従順」とは神様に逆らうことを意味します。これはアダムとエバが神様の言いつけに逆らって、善悪の知識の木の実を食べたことを表しています。そして人間はアダムとエバの子孫ですから、神様に逆らう性質を持って生まれてくることが分かります。この神様に逆らう性質のことを神学用語では「原罪(げんざい)」と呼びます。そしてパウロの言葉は、原罪が全ての人の心の中に植え付けられ居ることを示しています。この様にして神様は全ての人間をご自分に逆らうようにされました。何故逆らうようにされたのでしょうか。それは使徒パウロが言うように「すべての人を憐れむためだったのです。」即ち、全ての人を救いに導くためでした。どのようにして救いに導くのでしょうか。それは救い主イエス・キリストを信じて、罪赦(ゆる)されるという道を通してです。決して良い行いをするという道ではありません。神様は徹底して全ての人を平等に扱う基準を設けられたのです。それが「信じて救われる道」です。信じることは誰にでもできます。子供でも大人でも、女性でも男性でも、貧乏な人でも裕福な人でも、そこには何の分け隔てがありません。また「救われる」とは、「永遠の滅びから救われる」ことを意味しています。即ち、イエス・キリストは十字架に掛かって死なれ、そして死から復活されたことによって、イエス・キリストを信じる人は、寿命が尽きて一度は死ぬけれども、必ず「永遠のいのちへと復活する」、と保証されたのです。
そこで神様は本日の聖書箇所を通して、どのようにしたらイエス・キリストを信じて永遠のいのちを得ることができるのかを教えてくださいました。
さて、本日の聖書箇所であるヨハネの福音書20章19節を見ますと、イエス様が復活された「その日」、即ち週の初めの日である日曜日の夕方、弟子たちがいた所では、ユダヤ人たちが襲ってくることを恐れて、戸に鍵が掛けられていました。するとイエス様が来られて、弟子たちの真ん中に立ち、言われました。「平安があなたがたにあるように。」この自分たちの真ん中に、忽然として現れたイエス様に、弟子たちはさぞかしびっくりし、恐れたことでしょう。死の世界から生還した人をまじかに見たわけですから、恐ろしいのは当然です。イエス様の周りにいた弟子たちはきっと、ざざざーと、イエス様の周りから後ずさりしたことでしょう。自分たちも死の世界に引き摺り込まれてしまうのではないかと恐れたのです。私も子供の頃はお化けが怖かったことを思い出します。みなさんはどうでしたか。
そんな恐怖に襲われた弟子たちに対して、「平安があなたがたにあるように。」と言われたイエス様の第一声が弟子たちの耳に響いた時、弟子たちは懐かしイエス様の声を思い出し、後ずさりが止まりました。そして、このイエス様の言われた「平安」という言葉に、自分たちの罪を赦すイエス様の思いを聞いたのです。弟子たちの心に平安が戻って来ました。
そしてイエス様は両手と脇腹を弟子たちに示されました。そのイエス様の様子に、弟子たちはどのように反応したでしょうか。20節の後半には、「弟子たちは主を見て喜んだ。」としか記されていません。しかしヨハネの手紙第一1章1節を見ますと、驚くべき言葉が書いてあります。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。」このヨハネの証言から言うと、弟子たちは、イエス様の両手に空いた釘跡と脇腹の傷をじっと見つめ、次に大胆な行動に出たと思われます。じっと見詰めているだけでは飽き足らず、両手の釘の跡や、脇腹の槍の跡を自分の手で触ったのです。そしてだんだんと大胆になり、弟子たちの中には、イエス様の掌に空いた釘穴に指を入れた人もいたことでしょう。つまり弟子たちはイエス様に遠慮会釈なく、べたべたと触ったのです。このように、心行くまでイエス様に触り終えると弟子たちは、このイエス様が、マルコの福音書
10章34節に書いてあるイエス様の預言を思い出したました。「異邦人は人の子を嘲(あざけ)り、唾をかけ、むちで打ち、殺します。しかし、人の子は三日後によみがえります。」「そうだ、今日は三日目だ。」そして「このお方は確かに十字架に掛かられたイエス様だ」、と確信したのです。そして「弟子たちは主を見て喜んだ。」のではないでしょうか。人と言うものは、心から納得できなければ決して喜ばないものであるからです。
弟子たちの心が落ち着くと、イエス様は再び言われました。21節です。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」19節の「平安があなたがたにあるように」でイエス様は、ご自分と弟子たちの間の平安を確立されました。そして21節の二回目の「平安があなたがたにあるように」で、イエス様は弟子たちに、福音宣教への任務を授けました。イエス様とこの世の人々との間の平安を確立するためです。福音宣教とは、「神の子イエス・キリストが、私たち人類の罪の身代わりとなって、十字架に掛かってくださったので、イエス・キリストを信じれば、罪赦され、永遠のいのちが与えられ、天の御国に入れるようになることを伝える任務」です。ですから、福音宣教とは人間の知恵で行うものではなく、神様の知恵で行うものです。そこで福音宣教の任務に必要なのは、導いてくださる神様の霊、聖霊です。そしてイエス様を信じる人が出てきたら、洗礼を施す時、その人に罪の赦しを与えなければなりません。そういう訳でイエス様は、弟子たちを福音宣教に派遣するために、聖霊と、罪の赦しの権能を授けました。22節と23節です。「こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。』」この様にしてイエス様は、御自分がこの世に生まれ、多くの奇跡を行って病人を癒し、弟子たちを集めて教育し、十字架に掛かって罪の贖いを完成され、死から復活されて、人となられた神であることを示されました。そして今回弟子たちに、聖霊と罪の赦しの権能を与えて、福音宣教の任務を授けたことにより、イエス様の地上での任務は終了したのです。
しかし、いつの世にも手間のかかる弟子がいることは確かです。イエス様には、その手間のかかる弟子トマスを導くことがまだ残っていました。教師にとって手間のかかる生徒は、足手まといのようにも見えますが、成長すれば大物になる場合が多いことが良く知られています。トマスもそうでした。トマスは頑固でした。自分の信念をなかなか曲げない人でした。自分が分からないことは、己の無知をさらけ出してまでも食い下がっていく性格の持ち主です。ヨハネの福音書14章1節から6節でイエス様が「わたしの父の家には住む場所がたくさんあります。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」と語られた場面があります。その時トマスは、イエス様に聞きました。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。」そうしたらイエス様がさらなる真理を明らかにしてくださいました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」トマスの質問に答えることを通して、イエス様はご自分が父なる神様の所に行く道である、すなわちご自分が天国に行く道であり、他にはないことを明らかにされました。
このように頑固なトマスですから、今回のイエス様の復活も起こるはずがないと固く信じていました。あのラザロをよみがえらせたイエス様でさえもご自分を十字架の死から救うことができなかったのに、それよりもはるかに難しい死からの復活なんて、とてもあり得ないことだと固く信じていたのです。ですから、仲間の弟子たちが復活したイエス様に会ったという話を聞いた時も、見間違いか、あるいは単なる勘違いとしか思えず、とてもまともに聞く気にはなれませんでした。ですからそのようなあやふやな情報が飛び交っている所に、我が身を置くことを潔しとせず、イエス様が復活された日の夕方は、弟子たちの集まりから抜け出して一人寂しく過ごしていたのです。
その様なトマスを弟子たちは探し出し、きっとこの様に言ったことでしょう。「なあ、トマス。どうして昨晩私たちと一緒にいなかったのだ?私たちが集まっている所に、イエス様が現れ、両手の釘の穴と脇腹の槍の跡を見せてくださり、ご自分が復活されたことを私たちに示してくださったよ。トマス。君がいなくてとても残念だったよ。」弟子たちは早速トマスに証ししました。しかしその言葉にトマスは冷たく答えました。「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」このトマスの言葉から、トマスは、信用できるのは経験的事実に限るという、実証主義者である、ということが分かります。自分で確認するまでは納得出来ない人だったのです。
そして1週間後の日曜日の夕方、今度は部屋の中にトマスも他の弟子たちと一緒にいました。今回も戸には鍵がかかっていたのに、再びイエス様がやって来られ、弟子たちの真ん中に立たれ、「平安があなたがたにあるように」と言われました。このイエス様の平安を祈る挨拶で、トマスの心は和らぎました。ゲッセマの園でイエス様を置いて逃げてしまった罪も、イエス様はよみがえったという仲間の証言を信じなかった罪も赦されていく気持になりました。そのトマスに向かってイエス様は言われました。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」このイエス様の言葉に、トマスは震え上がりました。トマスは、仲間の弟子たちに主張した自分の言葉「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません。」をイエス様が聞いておられた、と知ったのです。
トマスはイエス様の指示に従い、実際にイエス様の手のひらの釘跡に指を差し入れ、脇腹の槍の跡に触ったでしょうか。私は、トマスが、イエス様の手のひらに空いた釘穴に、指を差し入れ、脇腹の槍の跡にさわったと考えます。イエス様が27節でトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。」と命令しておられるからです。イエス様は神様ですから、その命令は絶対です。弟子として従わないわけにはいきません。ですからトマスは多分男泣きに泣きながら、イエス様の手の釘跡に指を差し入れ、脇腹の槍の跡を手で触ったことは確かと言えるでしょう。それはイエス様が27節で言われるように、「信じない者ではなく、信じる者になる」ためです。そしてトマスはイエス様に答えました。「私の主、私の神よ。」この「私の神よ。」という言葉で、トマスは、イエス様が人間となられた神様であって、死ぬこともよみがえることもお出来なる御方であることをはっきりと告白ました。トマスを除く10人の使徒たちのイエス様御復活の証言に加え、この頑固で疑い深い実証主義者であるトマスの経験を通して、イエス様の復活が二重に証明され、イエス様の復活は揺ぎ無い事実として後世に伝えられることとなりました。
30節と31節はトマスの事だけをまとめているのではなく、ヨハネの福音書全体のまとめている言葉です。特に31節の言葉が大切です。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」ここで言われている「いのち」とは、私たち人間に与えられている肉のいのちではなくて、霊的な永遠のいのちです。初めにお話ししましたように、人間はそもそも神様の花嫁として永遠に生きるように造られました。しかし神様の花嫁になる人は、神様に従順でなければなりません。ところが神様に似せて造られた人間は自分中心です。神様に従順ではありません。そこで神様は人間に「不従順」という罪を植え付け、その「不従順」の罪を悔い改めて神様を信じる人に永遠のいのちを与え、花嫁とすることにされたのです。
このように、イエス様は疑い深いトマスに、ご自分が復活されたことを、非常に疑い深く厳しい目と手と指で検証させることによって、そしてそのほかの弟子たちの「私たちは主を見た(25節)」という証言によって、ご自分が十字架の上で死んだイエス本人であり、前もって弟子たちに話していた通りに復活したのだということを明らかにされました。こうして後世の人たちは、トマスの行為に支えられて、安心してイエス様が十字架に掛かられて亡くなり、そして復活された神様であることを受け入れることができるようになりました。トマスのお陰で、多くの人が復活されたイエス様を信じて罪赦され、イエス様のお名前によって永遠のいのちを与えられております。どうかあなたも、またあなたも、イエス様があなたの罪のためにも十字架に掛かってよみがえられたことを知り、イエス様お名前によって永遠のいのちを得て、イエス様に守られ、導かれ、祝福された人生を歩ませていただきましょう。そして、まだこの良い知らせである福音を知らない方々にもお知らせしていきましょう。
全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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