2021年4月25日(日) 復活節第四主日
聖書箇所 | 説教全文 |
---|
説教全文
「良い牧者は羊のためにいのちを捨てる」
ヨハネの福音書10章11-18節
牧師 若林 學
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。
今朝の説教は聖ヨハネの福音書10章11節から18節に記された御言葉について、「良い牧者は羊のために命を捨てる」と題しましてお話しいたします。
4月4日の復活祭から始まった復活節は、早くも半ばとなりました。月日の経つの早いものです。あと3週間後の5月16日には「私たちの主の昇天」主日を迎え、イエス様は天に戻って行かれます。そこでイエス様は、本日の『良い羊飼い』の例え話を通して、これから起こるご自分の十字架刑での死や復活、その後に起こるユダヤ人の弟子たちに対する迫害、その迫害にもかかわらずキリスト教が世界中に広まることを弟子たちに話され、ご自分に対する信仰を失わないように教えられました。
さて、イエス様はご自分が誰であるのかを紹介するにあたり、本日の聖書箇所ヨハネの福音書10章11節で、「わたしは良い牧者です。」と言われました。このイエス様の言葉を、原典となるギリシャ語聖書で見ますと、「わたしはあの牧者、あの良いです。」と書いてあります。「わたしはあの牧者、あの良いです。」と言われても、何のことを言っているのかちんぷんかんぷんです。それで、日本語では、本日の聖書箇所の様に「わたしは良い牧者です。」と翻訳するしか方法がありません。英語に直訳して言えば、「I
am the shepherd, the good.」となりますが、これでも何を言っているのか分かりませんので、英語の注解書を見ましたら、日本語の「わたしは良い牧者です。」と同じく、「I
am the good shepherd.」と翻訳するしかないと書いてありました。でも日本語の翻訳も英語の翻訳も、原文のギリシャ語で記されているイエス様の言葉の意味が正確に表現されているとは残念ながら言えません。
私が中学校で英語を習い始めた時、英語には不定冠詞と定冠詞というものあると教わりました。不定冠詞の「a」または「an」を付けると、a man「一人の男」、とかan
apple「一つのリンゴ」とかと、一般的なものを指しますが、定冠詞の「the」を付けると、the man「あの男」とかthe apple「あのリンゴ」とか特定な事物を指すようになります。ですから英語文法のこのような規則と同じく、イエス様は「あの」という定冠詞を付けて、「わたしは『あの牧者』、『あの良い』です。」、と、御自分を紹介されました。
まず、このイエス様が言われる「あの牧者」とはどのような意味でしょうか。羊を世話する牧者は大勢います。しかし「あの牧者」と言うと、良くも悪くもある特定の牧者を指すことになります。即ち、牧者中の牧者、最高の牧者かあるいは、最もだめな牧者、最低の牧者かのいずれかになります。イエス様は神様ですから、ご自分のことを「牧者中の牧者、大牧者です。」と言われたのは確かです。まさに、本日の礼拝の最初に讃美しました入祭唱の詩篇23篇の中で、著者のダビデ王が「主は私の牧者です」と歌っている通りです。
では次に、後半の「あの良いです。」とは何を意味するのでしょうか。ルカの福音書18章18節を見ますと、ある指導者がイエス様にこのように質問している場面があります。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」そう尋ねられたイエス様は、次の19節で、「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」と言われました。このイエス様のお言葉から、「良い」と言われるお方は、神様お一人であることが分かります。そうすると、本日の聖書箇所でイエス様が「わたしはあの『良い』です。」と言われた時、それは、「わたしは『神』です。」と言われた、ということになります。事実イエス様はご自分が父なる神様であることを明言しておられる所があります。それはヨハネの福音書14章8節から10a節で、イエス様が最後の晩餐の席で、弟子たちとこのような会話をしておられる場面です。「ピリポはイエスに言った。『主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。』イエスは彼に言われた。『ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。」この弟子たちとの会話でイエス様が最後に語られた「わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられる」という言葉から、「イエス様=父なる神様」ということが分かります。
ですから日本語に翻訳されている「私は良い牧者です。」とは、正確には「私は神である大牧者です。」という意味となります。イエス様がご自分のことを「神である大牧者」と言われたのは、何が起こっても、ご自分に対する信仰から離れないようにという意味です。
そしてこれから始まる例え話を語られた目的は、「神である大牧者」イエス様がこの世に来られた使命と、この後に起こるイエス様の十字架の死が、父なる神様からの命令によるものであることを弟子たちに教えるためであり、またイエス様が十字架に掛かられた後に、弟子たちの上に襲い掛かってくる迫害に対して、彼らに用心させるためでした。
なぜこのようなことが言えるのかと言いますと、イエス様は本日の例え話を通してその理由を二つ挙げておられるからです。第一の理由は、ヨハネの福音書10章16節の御言葉です。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです。」「この囲い」とは当時イエス様が宣教活動をしておられたユダヤの国の事であり、「この囲いに属さないほかの羊たち」とはユダヤの国以外の全世界に散っている羊たちのことを表しています。この16節の御言葉が示すことは、イエス様はユダヤの国だけでなく、全世界の羊たちの大牧者だということです。第二の理由は、17節と18節の御言葉です。「わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。・・・わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」この御言葉はイエス様の十字架の死と復活を預言しており、それも父なる神様の御計画だと言われるのです。
それでは、イエス様が言われる「羊たち」がイエス様を信じるクリスチャンであるならば、12節で言われている「牧者でない雇い人」とは、一体誰のことなのでしょうか。それはペテロの手紙
第二 2章1節に書かれている偽教師と推定されます。ペテロの手紙 第二 2章1節には、「しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。」と書かれてあります。イエス様が来られる前にも多くの偽預言者がユダヤの国に現れ、ユダヤ人を真の神様から、偶像礼拝に導きました。事実イエス様が来られた時には、ユダヤ人は真の神様を信じて律法を守るのではなく、律法を細分化して行為によって守るようにしていました。使徒の働き15章1節を見ますと、この様に書いてあります。「さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに『モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と教えていた。」この様に主張していたのは、15章5節を見ますとパリサイ派の者で信者になった人たちであることが分かります。このパリサイ派の信者は、イエス・キリストを信じることによって救われると教えていたのではなく、モーセの律法を守ることによって救われると教えていたのです。まさに「滅びをもたらす異端をひそかに持ち込んでいた」のです。この偽教師たちは、羊であるクリスチャンを救うのではなく、滅びに導いていたのです。ですから彼らは真の「偽教師」であり「牧者でない雇人」でした。この偽教師たちは、狼が襲って来ると、羊であるクリスチャンを置きっぱなしにして真っ先に逃げてしまうのです。理由は、本日の聖書箇所ヨハネ10章13節に書いてあるように、「彼らは雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。」
そして次に、ここで言われているクリスチャンたちを襲う狼とは誰のことなのでしょうか。本日の聖書箇所の少し前のヨハネの福音書の9章40節を見ますと、イエス様のお話を聞いている人たちは、「パリサイ人」と書いてあります。そしてイエス様は次の9章41節で次のように言われました。「イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」イエス様はパリサイ人が、「私たちは霊的に盲目で、霊のことは何もわからない」、と言っていたのなら罪はなかったのに、「いや、私たちは霊的なことが分かる」と主張しているから、罪を犯しているのですよ、と指摘されました。ヨハネの福音書9章は、イエス様が生まれつき盲目の青年の目を見えるようにされた奇跡のお話ですが、その9章38節で、生まれつき盲目の青年は、目が見えるようにしてくださったイエス様を礼拝しています。それなのに、パリサイ人は9章34節で、「お前は全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか。」と言って、この青年を軽蔑して外に追い出しています。このことから、パリサイ人には、信仰とは何なのかが、全く理解できていなかったということが見えてきます。
また、パリサイ人がどのような人たちであったかについては、聖書には次のように書いてあります。使徒の働き23章8節を見ますと、パリサイ人はユダヤ人の3大勢力の一つで、死人の復活も御使いも霊も存在すると信じている人たちでした。また使徒の働き26章5節を見ますと、ユダヤ人の中で最も厳格な宗教派閥でした。新約聖書の多くの書簡の著者である使徒パウロは、かつてはヘブル名サウロという名前であって、パリサイ派に所属する行動隊の隊長でした。使徒の働き9章1節と2節を見ますと、「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者(クリスチャン)であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。」と書いてあります。また、使徒の働き22章20節には、パウロはイエス様の弟子のステパノが石打の刑に処せられた時、彼を殺した者たちの上着の番をしていたと書いてあります。ですから、イエス様の言われる「狼」とは、当時のユダヤ社会を牛耳っていたパリサイ派の人々を指していることが分かります。
11節でまだ説明していなかった言葉があります。それは「良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。」です。これと同類の言葉が15節には「わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます。」そして17節には「わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。」そして18節には「わたしが自分からいのちを捨てるのです。」と、このように、8箇節しかない本日の聖書箇所に、4回も「自分からいのちを捨てる」という言葉が書いてあるなんて異常だと思いません?全く異常ですね。同じ言葉が2回繰り返されただけで確実に実行される聖書の世界で、4回も書いてあるのだから、その確実性は全く確かです。どうしてイエス様は4回も「自分からいのちを捨てる」と言われたのでしょうか。
最初の2つは「羊たちのために」と書いてあります。次の二つは、「再びいのちを得るために」と書いてあります。つまり前者の二つは、羊たちの罪の贖(あがな)いのために身代わりとなって死ぬことが、確実であることを意味していると、見ることができます。そして後者の二つは、イエス・キリストを信じた人は、必ず復活して、天の御国に入ることが確実であることを示すためと、見ることができます。すなわちイエス・キリストを信じた人は確実に罪赦(ゆる)され、確実に天の御国に入ることが保証されていますよと、イエス様は言われたのではないでしょうか。
使徒パウロがローマ人への手紙6章23節で「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」と述べているように、神様が負わせた原罪を持つ全ての人間は、「死」という報酬を支払わなければならないのです。全ての人間が死ぬ運命になっているのはこの理由によります。この人間に課せられた永遠の定めを解決するために、イエス様は良い牧者として、すなわち神の牧者として、羊である全ての人間のいのちの身代わりとなって十字架に掛かり、いのちを捨ててくださいました。そしてイエス・キリストは復活されて全ての人間も復活することを示され、ご自分を信じる人の罪を赦して天の御国に導いていくことにされたのです。なぜでしょうか。イエス様が「良い牧者」すなわち「神の牧者」であり、そして良い牧者が羊のためにいのちを捨ててくださった故なのです。
このように、今から約2,000年前に、良い牧者、神の牧者であるイエス様は羊である全ての人間のために十字架に掛かり、全ての人間の罪の身代わりとなって、いのちを捨ててくださいました。ですからもう、誰でもイエス・キリストを信じる人は、どのような罪を犯していても、悔い改めて罪の赦しを願うなら、即座に赦され、死から生に移され、復活して天の御国に入れるようになりました。ですから悔い改め、イエス様に罪の赦しをお願いしましょう。そして神の牧者イエス・キリストに守られた安全安心の快適な人生を送らせていただきましょう。またもう既にイエス様に守られた快適人生をエンジョイしておられる方は、この神の牧者を多くの人に伝え、共に良き人生を送る者となっていただきましょう。
全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
©2021 Rev. Manabu Wakabayashi, All rights reserved.
聖書箇所 | 説教全文 |
---|