説教全文

2021年5月2日(日) 復活節第五主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「私の内に留まりなさい」

ヨハネの福音書15章1-8節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 今朝の説教は聖ヨハネの福音書15章1節から8節より、説教題は「私の内に留まりなさい」です。本日の説教題に「私の内に留まりなさい」を選んだ理由は、「とどまりなさい」という言葉が沢山出て来るからです。何回出て来るのか数えてみますと、9回です。イエス様が弟子たちに、いかにご自分の中に、ご自分の内に、あるいはご自分に「とどまる」ことを求めておられたのか、その御気持ちが伝わって来るようです。本日の聖書箇所はイエス様が十字架に掛かられ、亡くなる前に、最後の晩餐を弟子たちと共にした時に、弟子たちに教えられたお話です。別れを惜しむ気持ちがひしひしと伝わって来ます。原典のギリシャ語聖書の趣旨を正確に伝えるために本日の説教題を「わたしの内に留まりなさい」とさせていただきました。

 イエス様は本日の聖書箇所の15章1節と2節で、ご自分と父なる神様とそしてご自分を信じる信仰者の相互関係を例え話を用いて説明されました。イエス様はぶどうの木、父なる神様はぶどうの木を育てる農夫、クリスチャンたちはぶどうの木の枝であると言われます。
 先週私たちは「わたしは良い牧者です。(ヨハネ10:11)」という言葉をギリシャ語でどのように書かれているか学びました。ギリシャ語では「わたしはあの牧者、あの良いです。」と書かれていました。これと同じ書き方が、本日の第1節の「わたしはまことのぶどうの木」でも使われています。原文のギリシャ語聖書には、この様に書いてあります。「わたしはあのぶどうの木、あのまことです。」「あのぶどうの木」とは「ぶどうの木の中のぶどうの木、この世で一本しかないあのぶどうの木」という意味となります。そして「あのまこと」とは何でしょうか。イエス様はヨハネの福音書14章6節で「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」と言われました。イエス様が「わたしが真理です。」と言われた時、イエス様は神様ですから、神様は真理であり、真理は神様である、ということになります。また、「真理」という言葉は別の言い方をすれば「真(まこと)」ですから、本日の聖書箇所ヨハネの福音書15章1節でイエス様が「私はあのまことです。」と言われた時、それは、イエス様が「私はあの神です。」とおっしゃられたということになります。 
 そうすると、「私はあのぶどうの木、あのまことです。」という言葉は、「私はこの世に1本しかない神のぶどうの木」という意味になります。そして父なる神様は、この「この世に一本しかないぶどうの木」を手入れしてくださる農夫となり、クリスチャンは「この世に一本しかないぶどうの木」の枝となります。現在、全世界で23億人のクリスチャンがいるそうですから、「この世で一本しかない神のぶどうの木」は23億本の枝を持つ巨大なぶどうの木ということになります。そうすると、父なる神様はこの巨大なぶどうの木の剪定のために大忙しということになりますね。
 ぶどうの木の枝で大切なことは何でしょうか。それは実を実らすことです。それも甘い実を実らすことです。酸っぱいぶどうの実を結ばせてはなりません。甘い実を実らすようになるよう、父なる神様は刈込をなさるのです。しかし中には酸っぱいぶどうの実さえ実らせない枝もあります。そのような枝は全て父なる神様によって取り除かれてしまいます。そして甘い実を結ぶ枝は、もっと多く実を結ぶようにと、父なる神様が刈込をなさいます。
 「神のぶどうの木」の枝であるクリスチャンが結ぶべき実とは何でしょうか。使徒パウロはガラテヤ人への手紙5章22節と23節で「御霊(みたま)の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」と御霊の実について説明しています。また、ピリピ人への手紙1章11節では、「イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。」と、義の実について教えています。

 次にイエス様は、ヨハネの福音書15章3節で「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」と言われました。このイエス様の言葉で、「きよい」と翻訳されている原語のギリシャ語には、「きよい」のほかに「罪のない」という意味があります。とすると、このイエス様の言葉から、イエス様の言葉を聞く者全てが罪が無いという風に聞こえます。しかし、イエス様の言葉を聞く者全てが、イエス様の言葉を信じて受け入れている訳ではなく、中には聞き流している人、聞いていても拒絶している人など様々です。でもイエス様は人の心の内を見られるお方ですから、誰がご自分の言葉を信じて受け入れ、誰が聞き流していたり、誰が拒絶しているのかをご存知でした。ですからイエス様はご自分の言葉を信じて受け入れている人を弟子にしていました。と言いたいところですが、イエス様はご自分を裏切る人を一人弟子にしておられました。その弟子の名前は皆様ご存知のイスカリオテのユダです。ユダはイエス様を十字架に付けるために弟子に加えられた悪魔の手先です。それでもイエス様は敢えて「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、すでにきよいのです。」と言われました。全ては父なる神様が天地創造の時からご計画されていたことですから、父なる神様にとって聖いのです。
 ですからイエス様はご自分が十字架に掛かられた後、弟子たちが絶望してご自分から離れて行かないように、絶えず御自分の内に留まるようにと4節で言われました。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたも私にとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」私たちがイエス様の内に留まっているならば、それだけで私たちの罪は許され、清くされます。しかしそれだけでなく、イエス様が私たちの内に留まってくださるので、イエス様の力が私たちの内に流れ込み、私たちはイエス様という神様の力で物事を行うことが出来るようになると言われるのです。これがイエス様という神のぶどうの木に留まることの意味です。何をするにも私たちがイエス様のお名前を通してお祈りしてから始める行いは、仕事にしろ遊びにしろ、全て実のなるものとなるのです。私たちが実を実らせるのではなく、イエス様が私たちに実を実らせてくださるからです。

 もし私たちがイエス様を離れたら、どうなるのでしょうか。イエス様を離れるとは、イエス様に対する信仰を失うことを表し、私たちがこの世の人と同じようになることを意味します。その結果、5節の最後に記されるされているように、まず私たちは何もできなくなります。当然、実を結ぶことはできません。それだけでなく、6節に書いてあるように、私たちは農夫である父なる神様によってイエス様から切り離され、天の御国から追い出され、枝のように投げ捨てられて、枯れてしまいます。その最後はどうなるのでしょうか。天使たちがやってきて枯れた枝となってしまった私たちを拾い上げ、地獄の火の中に投げ込んでしまいます。そして私たちは永遠の業火でさいなまれる火あぶりの刑となるのです。このように信仰を捨てた人々は、この世に生きている内に信仰を持とうとしなかった多くの人の辿る道を歩むことになるのです。
 この様な意味で、「全ての人は、イエス・キリストを信じるために生まれて来る」、と言うことができます。一生の内のどこかでイエス・キリストにお会いし、御言葉によって清められ、イエス・キリストを信じて罪赦(ゆる)され、信仰の実を結ぶようになるために生まれて来るのです。イエス・キリストを信じる道は、人を縛る道ではありません。信仰を強要する道でもありません。人に制限を強いる道ではありません。ああしてはならない、こうしなさいという命令の道でもありません。信じるか信じないかは全く自由です。信じればイエス様に導かれますが、信じなければ何の導きもありません。そういう道です。神様はこの道を天地創造の初めに決められました。天地創造の時に、父なる神と御子イエス・キリストと聖霊の三位一体の神様が協力してこの世を創造されました。そして人類の祖アダムとエバを創造され、悪魔を用いて二人に罪を犯させ、神様に不従順なものとされたのです。それは、人生の苦しみの中で神様に助け求め、その結果、まことの神様を見出すようになるためなのです。ですから全ての人がそれぞれの人生のどこかの場面でイエス・キリストとお会いしています。難病が癒された時、大事故から救われた時、死ぬほど苦しい目に遭った時など、どこかで神様とお会いしているのです。誰かに助けられたという思いを抱いたならば、その時あなたはイエス・キリストとお会いしています。

 イエス様は7節と8節で言われました。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになります。」イエス様はクリスチャンに「何でも欲しいものを求めなさい。」と命じられました。どうしてでしょうか。人にはそれぞれ得意分野が有り、クリスチャンは皆同じではありません。ですから求める物は千差万別です。それらが神様の力によって実を結ぶ時、その実はこの世の人々にとって、うらやましいものとなります。
 先程、ガラテヤ人への手紙5章22節と23節で、「神のぶどうの木」の枝であるクリスチャンが実らせるべき実とは「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制で」あると言いました。イエス様と繋がっていることによって、聖書が教えるこれらの御霊の実を持つ人と変えられることにより、イエス様と共に素晴らしい人生を歩んで行けるのです。なぜなら、ヨハネの福音書15章8節に書いてあるように、私たちが多くの実を結び、私たちがイエス様の弟子であることが世の人々に知れ渡る時、この世の多くの人々がクリスチャンをうらやましく見るようになり、誰しもがクリスチャンになりたいと願うようになるからです。すなわち父なる神様が栄光を受けられるようになるからです。ですから私たちクリスチャンは、大胆になって神様に求めましょう。それは必ずかなえられると、イエス様が保証しておられます。大胆に欲しいものを求め、父なる神様に栄光を受けていただこうではありませんか。

 それでは、イエス様の内に留まるというのは具体的にどのようにすることなのでしょうか。イエス様が地上におられた時代からすでに2,000年経っています。今どこへ行けばイエス様に会えるのでしょうか。ヨハネの福音書第1章1~2a節に「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。」と記されているように、聖書自体がイエス・キリストなのです。しかし聖書を買って手元に置いていてもイエス様の内に留まることにはなりません。毎日食事をとるように聖書を読むのです。出来れば毎日3章から5章、読むことをお勧めします。聖書を繰り返し読むことによって、御言葉であるイエス様が心の中に入って来ます。特に、心に響く御言葉に出会ったら、その御言葉を覚えると、さらにイエス様が心の中に定着するようになります。聖書=イエス様ですから、聖書のことばを私たちの心の中に留めることが、イエス様の内に留まることなるのです。

 このようにイエス・キリストは全ての人に向かって、「私の内に留まりなさい。」と呼びかけておられます。全ての人間はイエス・キリストの内に留まるために生まれてきました。なぜなら私たちだけでは何もできないからです。そしてそのイエス・キリストの内に留まらない道は、枝のように投げ捨てられて枯れ、地獄の業火の中に投げ込まれてしまう恐ろしい道です。しかし、私たちがイエス様を信じて罪赦され、イエス様の力で物事を行うようになると、私たちは信仰の甘い実を多く実らすようになり、多くの人を魅了するようになります。それだけではありません、イエス様は私たちに向かって、「何でも欲しいものを求めなさい。」と命じられました。これは神様の命令です。ですから私たちクリスチャンは引っ込み思案になって、何もせずに過ごしていたら、お尻をぺんぺんと叩かれてしまいます。そうでなく大胆になって、父なる神様に求めなければなりいけません。この世の人々が私たちを見て、クリスチャンになればこんなにいいことが起きるのかと知って、我も我もとイエス様を信じるようになり、父なる神様が栄光を受けていただけるようになるからです。その為に私達は毎日聖書を読み、御言葉を心に蓄えてイエス様の内に留まらせていただき、父なる神様に大いに喜んでいただこうではありませんか。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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