説教全文

2021年5月30日(日) 聖三位一体主日

箇所 説教全文

説教全文

「水と御霊によって神の国に入る」

ヨハネの福音書3章1-17節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 昨年の1月頃から流行り出した新型コロナ・ウィルス感染症は、徐々に日本中に広まり、日本中で感染していない所は一つも無いと言う状況になってしまいました。日本におけるこのコロナ・ウィルス感染症による死者数は5月末で約12,800人です。また世界に目を向ければ、全世界の国に感染が広まり、パンデミックと言う状況に陥りました。全世界のコロナ・ウィルス感染症での死者数は5月末で約352万人です。多くの方々が亡くなっております。亡くなられた方々に心から哀悼の意を表します。
 日本では、流行り出してから1年半にして、ワクチン接種が始まり、漸く終息への道が見えてきました。そうと言っても、現在日本では9の都府県で緊急事態宣言が発令中で、気を緩めることができません。
 この様な状況下で、平和の祭典であるオリンピック・パラリンピックが開催できるのか疑問視する声が起こっております。願わくば、全世界の国々におけるワクチン接種が進んで、パンデミックが終息し、何処の国においても、安全、安心の状況になってから、開いた方が、どこかの国の大臣が言われたように、本当の意味で「新型コロナウィルス感染症に打ち勝った証としてオリンピック・パラリンピックを開催」できるのではないかと思います。昔から「無理を通せば、道理が引っ込む」と言われていますように、何事も無理をしていいことはありません。全ての人に受け入れられ、全ての人に喜んでいただける道は、道理が通った道です。日本政府のみならず、IOCにもこの道理の通った道を選んでいただきたいものです。

 この新型コロナウィルス感染症が原因の不慮の死に限らず、私たち人間は、神様によって創造された時点から、「いつかは死ぬ」という運命を背負わされました。それは神様がエデンの園の中央に命の木と善悪の知識の木を生えさせ、人間の祖先であるアダムに「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。(創世記2:17)」と戒めておきながら、悪魔を用いて、エバに禁断の木の実を食べさせたのが原因でした。そしてエバは共に居た夫のアダムにも与えたので、アダムも食べました。こうして人間は「食べてはならない。」という神様の戒めを破って罪を犯し、死ぬ者となったのです。
 この時神様は、蛇とエバとアダムのそれぞれに罰を宣告されました。まず蛇に言われました。創世記3章15節です。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」次にエバに宣告されました。創世記3章16節です。「わたしは、あなたの苦しみとうめきを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」そして最後にアダムに宣告されました。創世記3章19節です。「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」
 この三者に与えられた罰をみますと、一番重いのが蛇に与えられた罰で、一番軽いのがアダムに与えられた罰です。蛇に与えられた罰が一番重いと言う訳は、蛇は女の子孫によって頭を打たれるという致命傷を受けるからです。これに対しエバに与えられた罰は出産の苦しみです。そしてアダムに与えられた罰は汗を流して大地を耕すという労働でした。
 先月、アメリカ在住の私共の長女が男児を出産し、私共に初孫が与えられました。アメリカでは無痛分娩が普通なので、入院してからは麻酔を打たれ、その麻酔のお蔭で痛みは無かったそうです。しかし、いざ出産となった時には、麻酔が災いして、産科医から「息(いき)め」と言われてもうまく息むことができず、最後には麻酔を止めて、通常の分娩となったので、大変な痛みだったと言っておりました。まさに聖書に書いてある通りでした。それにしても、女性の胎から赤ちゃんが生まれて来るなんて、すごい神秘ですね!娘の父として、感動で涙が出てきます。
 この三つの罰の中で注目すべき罰は、蛇に与えられた創世記3章15節の罰です。「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」お前の子孫とは悪魔の事で、女の子孫とはこの事件から約4000年後に聖霊によって受胎した処女マリアから誕生された御方、神の子イエス・キリストの事です。神様は、アダムとエバの原罪を遺伝として受け継ぐ人間を救うために、女の子孫としてイエス・キリストを誕生させ、全人類の原罪の身代金として、十字架に掛けられました。そしてこの十字架に掛かり、死なれた神の子イエス・キリストを信じる人に、「永遠のいのち」を恵みとして無償で与えることを計画されたのです。この神様の一連の御計画をユダヤ人の大秀才でパリサイ人でもあった使徒パウロはそのローマ人への手紙5章21節でこのように読み解いています。「それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。」「恵み」とは、イエス・キリストを信じることによって与えられる、罪の赦(ゆる)しのことです。ですから、アダムとエバが罪を犯したので、全ての人間が原罪を背負わされ、死ぬ運命とされたと同じように、イエス・キリストを信じる者は恵みによって罪赦され、義と認められ、永遠に生きる者、天の御国に入る者とされるのです。つまり罪の赦しに感謝して、神様を従順になって信じる者だけを救うことにされたのです。

 この女の子孫であるイエス・キリストが宣教活動を開始されたのは、紀元27年でした。最初の大仕事は、過ぎ越しの祭りの直前に行われた、エルサレム神殿の宮清めでした。ヨハネの福音書2章13節から22節に書いてある前代未聞の大事件です。普通に考えれば、たとえイエス様が多数の両替商人たちや動物商人たちに向かって「わたしの父の家を商売の家にしてはならない。(16節)」と言われたとしても、商人たちは聞く耳を持たなかったことは明らかでしょう。何しろ彼らは神殿の管理者にテナント料を払い、営業許可を取り付けていたからです。また多くの牛や羊や鳩等の生贄の動物を囲いから追い出すことも容易ではありません。しかしイエス様は神様です。イエス様が細縄で鞭を作ると、なんと生贄の動物たちが列をなして神殿から出て行ったのです。また動物商や両替商たちも、恐れをなしてあたふたと動物たちの後を追って神殿から出て行きました。これはイエス様が動物や商人たちの心に、恐れの気持ちを与えられたからだと思われます。この様子を見た神殿管理者のユダヤ人たちは、動物たちや商人たちが整然と出て行く異様な光景を見て、イエス様に言いました。ヨハネの福音書2章18節です。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」このユダヤ人たちが求める「しるし」とは、奇跡のことで、神様から遣わされた預言者にしかできない業です。ユダヤ人たちは商人たちと家畜たちをあっという間に追い出した奇跡を確認するために、別に新たな奇跡を見せてくれと要求したのです。しかしイエス様は不信仰な人たちにその場でそれ以上奇跡を見せることはなさいませんでした。しかしながらヨハネの福音書2章23節を見ますと、その後イエス様はエルサレムの町の中で、ご自分に助けを求めて来る多くの悩める病人には、直ちに癒してあげる、という奇跡を行われたことが記されています。

 このイエス様の宮清めの奇跡やエルサレムの町の中で行なわれた多くの病人の癒しの奇跡のうわさを聞いた人々の中に、神を敬う敬虔なユダヤ人が一人おりました。復活も、御使いも、霊も存在すると信じているパリサイ派の教師で、ユダヤの政治と司法を司るサンヘドリン議会の議員であるニコデモさんでした。この人がイエス様の行われた「しるし」のうわさを聞いて、ひょっとしたらこのお方は預言者たちによって伝えられ続けてきた、救い主かもしれないと直感したのです。確かに旧約聖書にはイエス様の到来されることが数多く預言されています。数例をあげますと、創世記3章15節には、「女の子孫]として来られることが神様によって紀元前4000年に預言されており、創世記49章10節には、「ついには彼がシロに来て、諸国の民は彼に従う。」とイスラエル12部族の親であるヤコブによって紀元前1800年に預言されており、イザヤ11章1節には、「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」と預言者イザヤによって紀元前700年に預言されており、ミカ書5章2節には、「ベツレヘム・エフラテよ、…あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る」と預言者ミカによって同じく紀元前700年に預言されており、ゼカリア書 9章9a節には、「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。」と預言者ゼカリヤによって紀元前520年に預言されており、そしてマラキ書3章1b節では、「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。」と預言者マラキによって紀元前430年に預言されています。そして遂に紀元元年(最近の研究に寄れば紀元前7年から4年の間)、イエス様はベツレヘムで処女マリアから誕生されました。この様に救い主イエス様の到来は、なんと、四千年にも渡って預言され続けてきたのです。
 ニコデモさんは、神殿の管理をしているユダヤ人から、イエスという若いラビ(ユダヤ教の教師)が神殿に来て、あっという間に生贄の動物たちや商人たちを神殿から追い出したと聞いた時、「あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。」という預言者マラキの預言の言葉を思い出し、もうびっくりを通り越して、このお方こそ私たちユダヤ人が尋ね求めていた主に違いない、と強い確信を持ったに違いありません。それで夜にイエス様が泊まっておられる宿に尋ねて来たのです。ニコデモさんが夜に尋ねたのは、サンヒドリンの議員の立場上人目を避けていたのは当然のことでしょう。しかし、忙しい昼間では深刻な問題をじっくりと話ができないので、落ち着いて話せる夜に尋ねて来たと見るべきと思われます。
 ニコデモさんがイエス様に聞きたかったことは、「どうしたら神の国に入ることができるのか」という問題です。この問題は宗教に熱心なユダヤ人たちにとって非常に大きな問題でした。一例を挙げますとマタイの福音書19章16節から22節には金持ちの青年のお話が有ります。この青年も神の国に入りたくて、イエス様の所に来て尋ねました。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」イエス様はこの青年に言われました。「あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与え、…そのうえで、わたしに従ってきなさい。」このイエス様の教えに、青年は悲しみながら立ち去って行きました。「多くの財産を持っていたからである。」とその理由が書いてあります。イエス様は、この青年の心が、表面上は宗教には熱心であっても、心が財産から離れられないことを御存じでした。私たちクリスチャンも、財産で表されるこの世の楽しみから心が離れられない人は、結局イエス様から離れて行くことになるので要注意です。
 話しをニコデモさんに戻しまして、人の心を見られるイエス様は、ニコデモさんの求めに応じて、単刀直入に永遠の命を得る方法、即ち神の国に入る方法を教えてくださいました。それはヨハネの福音書3章3節に記されている「新しく生まれること」であり、5節に記されている「水と御霊によって生まれること」でした。なぜなら6節に記されているように、「肉によって生まれた者は肉であり、御霊によって生まれたものは霊である」からです。この3節と5節と6節のイエス様のお言葉から、次の二つの事が分かります。
 第一に、神の国に入ることができるのは新しく生まれた人間だけだということです。人間に備わっている生まれつきの霊は、神様に似せて造られた自己中心の霊です。しかし御霊によって新しく生まれた霊は、詩篇51篇17節で示されている「砕かれた霊。打たれ、砕かれた心」です。その昔、ダビデ王はウリヤの妻バテ・シェバと情を通じた後、預言者ナタンによってその姦淫の罪を指摘された時、悔い改めてこのように告白しています。「神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑(さげす)まれません。」私たちに生まれつき与えられている霊は、自己中心の霊なので、神様が用いようにも用いることができません。しかし、悔い改めた霊や砕かれた霊は、神様に従順なので、悔い改めた霊や砕かれた霊を持つ人は、神様によって「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」というガラテヤ書5章22節から23節に記されている御霊の実を実らす人間に変えていただけます。この御霊の実を実らす人間のことをイエス様は本日の聖書箇所であるヨハネの福音書3章8節で説明されました。「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。」風は自分で吹いているわけではありません。気圧の変化で吹いています。ですから思いのままに風を吹かしておられるのは気圧を調節しておられる神様ということになります。このように、悔い改めた霊や砕かれた霊を持つ人は、神様によって新しく生まれ変わらせていただけるのです。
 第二に、神の国に入る方法は、水という洗い流す地上の手段を、御霊である御言葉を通して用いる方法だということです。どの御言葉であるのかと言いますと、マタイの福音書28章19節の御言葉です。「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授けなさい。」私たちが、悔い改めて、父、子、聖霊の名において三度頭に水を注がれて洗礼を受けると、原罪という生まれながらの罪と、生まれてそれまで犯してきた全ての罪が洗い流され、永遠の命が与えられ、天の御国への入国が許可されるのです。ただしこの世の法律に抵触する罪に対しては、その罪に規定されている刑罰迄帳消しにするものではありません。刑罰は刑罰としてきちんと受けなければ、当然天の御国に入ることはできません。悔い改めている人は、自分が犯した罪を従順になって受け止められるからです。

 ヨハネの福音書3章9節から11節にかけて、ニコデモさんの理解の遅さがイエス様によって指摘されています。これはモーセの律法を守ることによって義とされる「行為義認」の教育に縛られてきたためと思われます。先ほどお話ししました金持ちの青年もイエス様に、「永遠の命を得るために、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」と聞いていました。しかしユダヤ教は本来アブラハムから始まった、「信仰義認」の宗教でした。「信仰義認」というのは、神様の言葉を信じることによって義と認められるということです。創世記15章6節がその原点です。「アブラハムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」と書いてあります。しかしアブラハムから約500年後モーセを通して神様から律法が与えられると、その律法を行為によって守ることに専念するようになり、ユダヤ教は徐々に行為義認の人間的な宗教に成り下がっていったのです。
 ですからイエス様はヨハネの福音書3章12節から17節に渡って、ユダヤ教は基本的に信仰義認の宗教ですよと教えられました。まず12節でイエス様は言われます。「わたしはあなたがたに地上のことを話しましたが、あなたがたは信じません。それなら、天上のことを話して、どうして信じるでしょうか。」イエス様はここで、「パリサイ人よ、あなたがたは信じることをないがしろにしてますよ」、と指摘されました。そして15節と16節で「信じる」ことによって「滅びることから救われ」、「信じる」ことによって「永遠の命を持つことができる」と教えられました。
 問題は何を信じるかです。14節でイエス様は、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」と言われました。これは民数記21章4節から9節に書いてある昔起こった出来事を指しています。イスラエルの民が40年間の荒野の旅を終えて、間もなく目的地であり、終着地であるカナンに着こうとしていた頃、イスラエルの民は、40年間食べてきた天からのパンであるマナに対して「われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている」と言って、神様に対して不平を漏らしたのです。それで神様は燃える蛇をイスラエル民の中に送られ、蛇はイスラエルの民に噛みつき、多くの者が死にました。現在の新型コロナ・ウィルス感染症みたいなものです。驚いた民はモーセの所に来て自分たちの罪を認め、燃える蛇を取り去ってくださるよう、モーセに祈りを願いました。モーセが祈ると神様はモーセに言われました。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上に付けよ。かまれた者はみな、それを仰ぎ見れば生きる。(民数記21:8)」この神様の約束の言葉を信じて、その蛇を仰ぎ見た者はみな生きたのです。このようにイエス様も、御自分が全ての人の罪の身代わりとなって、十字架の上に付けられなければならないと預言されました。それは、十字架に付けられた御自分を信じて仰ぎ見る者が皆、永遠の命を持つためです。
 16節と17節でイエス様は、なぜ父なる神様が御子イエス様を十字架に掛けるためにこの世に送られたのかその理由を述べておられます。16節の理由は「愛」です。神様が蛇を用いてアダムとエバに禁断の木の実を食べさせて罪を犯させたのは、人間をこよなく愛する愛の故でした。日本では昔から「可愛い子には旅をさせよ。」と言います。愛する子供をかわいさのゆえにいつまでも手元に置いておくと、子供が何時まで経っても独り立ちできず、甘やかされて、わがままな子になってしまうからです。それで人間に罪を犯させ、泣く泣く人間をご自分から遠退けました。そして時が経ってイエス・キリストをこの世に送り、全ての人の罪の身代わりとして十字架に掛け、イエス・キリストが私の罪のために十字架に掛かって死んでくださったと信じて、イエス・キリストを仰ぎ見る人を救って永遠に生かすことにされたのです。
 そして17節の理由は「救い」です。父なる神様は一人でも多くの人を救おうとされておられます。ですから神様は、たとえ人が死の間際に追い詰められていても、決してあきらめずイエス・キリストを信じることを静かに待っておられます。私の妻の一番下の妹はキリスト教を毛嫌いしていましたが、癌にかかり、その癌の治療の過程で、クリスチャンと出会い、信仰を勧められ、イエス・キリストを受け入れました。亡くなる三日前に病床洗礼を受け、その次の日は痛みを抑えるため投与されたモルヒネの働きでこん睡状態に陥っていましたが、突然目を開け、天井の一角を見つめ、震えながら「イエス様、イエス様、イエス様。」と大きな声で三度叫んだのが最後の言葉となりました。そして眠りから覚めないまま、翌朝天国へと旅立って行きました。まだ37歳の若さでした。妻は、「妹は死んでしまったけれど、イエス様に導かれて天国に入ったのは確かだから慰められる、本当に間に合って良かった。」と言っております。

 聖三位一体主日の本日、神の国に入りたいと願ってイエス様を訪ねて来たニコデモさんに、イエス様は神の国に入る方法を伝授されました。それはまず新しく生まれ、次に水と御霊によって神の国に入るという方法です。新しく生まれるとは悔い改めることです。自分がいかに罪深いかを認め、その罪の赦しを神様に願うことです。私たちが神様に罪の赦しを願うならば、神様は二つ返事で赦してくださり、私たちを罪の無い者、義なる者としてくださいます。そして「御父と御子と聖霊の御名」によって、牧師から洗礼を受けると、私たちの罪は洗い流され、神の国に導き入れられます。これが水と御霊によって神の国に入る方法です。洗礼を受けると、聖霊に導かれるようになり、私たちは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という御霊の実をつける人となります。この御霊の実が世の人々の関心を引き付け、自分もクリスチャンのようになりたいという思いを抱かせます。ですからクリスチャンである私たちは、まずこの御霊の実が実っているか自己吟味してみましょう。実っていなければ、どこかでボタンを掛け間違っています。それを本日チェックしましょう。人間は何歳になっても謙遜になって初心に帰る事が求められています。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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