2021年6月6日(日) 聖霊降臨後第二主日
聖書箇所 | 説教全文 |
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説教全文
「神のみこころを行う人が主の家族」
マルコの福音書3章20-35節
牧師 若林 學
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。
本日の説教題は、本日の聖書箇所の最後の節である35節から取らせていただきました。「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」神のみこころとは何か、そしてそのみこころを行うとはどのようにすることなのか、それが本日のテーマです。このテーマについて聖書に聞いて参りましょう。
もう先々週になりますがの4月23日聖霊降臨祭より、この世は聖霊に満たされ、世の終わりの時代に入りました。誰でも自分の罪を認めて悔い改め、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、そして洗礼を受けるならば、全ての罪が赦(ゆる)され、天の御国に入ることのできる時代となったのです。どうしてそのようなことになったのか、その理由がコリント人への手紙第一1章21節と1章29節に書いてあります。コリント人への手紙第一1章21節と29節を続けて読みますとこの様になります。「神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。・・・肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。」神様は人間が己の知恵で神を知る道を閉ざされました。もし己の知恵で天国にはいるようにしたら、天国は自分の知恵を誇る人間ばかりとなってしまい、誰も謙遜になって神様を信じないからです。それで神様は、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1章15節)という宣教の言葉の愚かしさを通して、信じる者を救うことにされたのです。悔い改めるとは、己の罪を認め、その罪の赦しを神様にお願いすることです。また福音とは、「神の御子イエス・キリストを信じる者の罪は赦され、父なる神様と和解出来ます」、という良い知らせです。自分の力や知恵を誇りたい人間にとって、罪を認め、罪の赦しを願うことは敗北を認める以外の何物でもなく、そのようなことは全く愚かなこととしか受け取れないのです。ですから神様はこの世に災害を送り、大人たちが生涯かけて積み上げた財産を台無しにしたり、家族を失わせさせたりと、その知恵と欲に突っ張った目をご自分に向けさせようとされます。そしてその結果、ハッと気づいて神様に助けを求め、神様を信じる人を起こそうとしておられるのです。今パンデミックになっている新型コロナ・ウィルス感染症も、神様が起こしておられる災害と見るべきです。こんな災害を起こす神様なんか信じたくないと思う人もおられることでしょう。またこのコロナ・ウィルスの災害で肉親を失って神様を呪う方もおられることでしょう。でも人間はこのように追い詰められなければ、神様の存在を考えることもせず、神様を求めるどころか、拒むことも呪うことさえもしないのです。ですから私たちは、進化論という科学の衣を着せられた一見正しいように見える学説に惑わされるのではなく、この世を造り、動植物を造り、そしてあなたや私という、私たち人間を造られた、まことの神様を探し求めなければなりません。神様は私たち人間に、ご自分を探し求めるように仕向けておられるのです。ですから、神様を探すならば神様は見つかり、神様を求めるならば神様にお会い出来ます。そして門を叩くならば天の門は開かれます。これが聖書の教えるまことの神様にお会いする方法です。それは子供から大人まで、全ての人がイエス・キリストを信じて救われるためです。
本日の聖書箇所マルコによる福音書3章20節から22節で、この世がいかに人々の目を神様からそむけようとしているかが記されています。20節を見ますと、イエス様が家に戻られると、それと知った群衆がイエス様の家に押し掛け、イエス様を取り巻いて、天の御国のお話を聞こうとしていた様子が書かれています。イエス様の家は集まってきた人で満杯となり、とてもゆっくりと食事をとることなんてできない状態でした。この大ぜいの人に囲まれているイエス様を見てねたんだ人々がいるのです。イエス様の家はガリラヤ湖のカペナウムの町にありましたから、このねたんだ人々はガリラヤ地方に住む宗教熱心なユダヤ人であるパリサイ人と思われます。安息日なのに、民衆が会堂に集まらず、イエス様の家に集まっているので、イエス様をねたんだのです。それでパリサイ人たちは、イエス様の兄弟たちに知らせて、「おい。お前の所のイエスがおかしくなっているぞ。早く家に連れ戻した方がいいぞ」と伝えたのでしょうね。「イエスはおかしくなった」という意味は「イエスは気が狂った」という意味です。嫉妬心から悪く言いふらしていることが分かります。
22節を見ますと、嫉妬心に溢れたもう一団がいました。エルサレムから下って来た律法学者たちでした。彼らの言い分は「イエスはベルゼブルに憑(つ)かれている。」とか「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している。」と言って、なりふり構わずイエス様の評判を落とそうと躍起になっていました。彼らは今でいう進化論者の類です。46億年という広大な時間があれば、生命は誕生すると主張する人たちと少しも違いはありません。免疫機能の完成した人間でさえも、コロナ・ウィルスという人間の目に見えない病原体によって、いとも簡単に死んでしまうのです。ましてや進化途中のまだ免疫機能を十分に形成できない生物が、どうして厳しい地球環境で生き残って進化できるというのでしょうか、疑問を感じます。
23節を見ますと、「イエスは彼らを呼び寄せて、たとえで語られた。」と記されています。多分、家の周りで、「イエスはベルゼブルに憑かれている。」とか「イエスは悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出している。」と連呼している声が聞こえてきたのでしょう。それでイエス様はその悪い評判を言いふらす律法学者たちを呼び寄せて、例えを用いて言われました。「どうしてサタンがサタンを追い出せるのですか。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。もし家が内部で分裂したら、その家は立ち行きません。もし、サタンが自らに敵対して立ち、分裂したら、立ち行かずに滅んでしまいます。まず強い者を縛り上げなければ、だれも、強い者の家に入って、家財を略奪することはできません。縛り上げれば、その家を略奪できます。」(マルコの福音書3章23節~27節)イエス様はこの例え話で、律法学者たちが言い触らしていることは、矛盾だらけで、不可能なことを並べ立てているだけですよと説明されました。
サタンとはヘブル語で「悪魔」のことです。創世記3章1節を見ますと、この悪魔は最初から悪役として「蛇」の姿で登場しています。この蛇は野の獣の一つとして天地創造の六日目に、受肉前のイエス様によって造られました。この蛇は、まずエバをだまして人間に罪を犯させ、ヨブ記では災害を起こして義人ヨブの子供たちや家畜を殺し、新約時代になるとイエス様の弟子の一人として召され、イエス様を十字架に掛ける役目を担っています。
今回も、サタンは律法学者たちに働いて、イエス様に対する悪い評判を言い触らさせ、人々をイエス様から遠ざけようとさせました。でも残念ながら、多くの人々はますますイエス様に近づくようになったのです。何しろイエス様が、悪霊に憑かれている人から悪霊を追い出して正気に戻され、中風の人を歩けるようにされ、生まれつき目の見えない人を見えるようにされ、ツァラアトに冒された人を癒されたのを見て、このお方こそ人となられた神様であると信じたからです。こうして律法学者たちの言いふらす悪評は、イエス様を信じる人々の信仰心を強めることはあっても、弱めることはありませんでした。
それでイエス様は平然と律法学者たちを呼び寄せて言われました。「サタンも国も家も、内輪でもめたら、サタン自身も、国自身も、そして家自身も立ち行かず滅んでしまうでしょう。だから強い者がまずサタンを縛り上げることができれば、サタンに従う悪霊どもをも縛り上げることができます。同じように国の中の一番強いものをまず縛り上げればその国を占領できます。家も同じように、その主人を縛り上げれば、その家の財産を奪うことができます。」
ですから「イエスは汚(けが)れた霊に憑かれている」と悪評を言いふらす律法学者たちに言われました。「まことに、あなたがたに言います。人の子らは、どんな罪も赦していただけます。また、どれほど神を冒瀆(ぼうとく)することを言っても、赦していただけます。しかし聖霊を冒瀆する者は、だれも永遠に赦されず、永遠の罪に定められます。」(マルコの福音書3章28節~29節)ここでイエス様が言われる「人の子ら」とは私たち人間のことです。ですから私たち人間はどんな罪も赦していただけるのです。たとえ父なる神様を呪うことをしても、赦されるのです。それは人間が父なる神様とはどのようなお方なのか知らずに呪ったからです。しかし聖霊を冒涜する罪は赦していただけません。なぜなら聖霊は父なる神様のお言葉を運ぶ神様であるからです。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられて救い主に就任された時、天から聖霊が鳩の姿を取ってイエス様の上に降られました。イエス様はこの時以来、聖霊に満たされて、聖霊を通して父なる神様といつもお話をされ、父なる神様から指示を受け取られて行動しておられました。
同じように人が悔い改めてイエス様を信じ、御父と御子と御霊のお名前を通して洗礼を受けると、その人の上に聖霊が注がれます。ですから私たち全てのクリスチャンは、主イエス様のお名前を通して、父なる神様にお祈りすることができるのです。
しかしある人々が、クリスチャンである私たちが父なる神様に祈る姿を見て、クリスチャンは汚れた霊に憑かれていると言うならば、聖霊がどなたなのか分からずに言ってしまったとしても、その人の罪は未来永劫赦されないということになります。なぜなら、聖霊は人に働いて悔い改めさせる働きをしますが、聖霊を汚れた霊と呼ぶと、その時点で、聖霊はその人を悔い改めさせる働きを停止し、その結果、汚した人は悔い改めできないので罪赦されず、未来永劫、「有罪」のままとされてしまうからです。
福音記者のマルコは、21節でイエス様の家族のことを持ち出し、そして31節でも、もう一度イエス様の家族がイエス様を連れ戻しに来た話題を持ち出しています。このように、福音記者マルコが二度イエス様の家族のことを持ち出しているのは、まことの家族とはどのような家族のことを言うのかを明らかにするためであることが分かります。イエス様は35節で、このまことの家族とはどのような家族を指すのかを教えられました。「だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」神であるイエス様にとってご自分の本当の家族とは、血縁的なつながりではなく、霊的なつながりを持つ人であることが分かります。しかしこの世にあっては、人間である私たちにとって、私たちを生んでくれた父や母を尊敬するのは当然のことですし、血縁上の兄弟姉妹とも仲よくすべきであることも当然のことです。けれども血縁上の両親や兄弟姉妹の関係は、この世の生活を送る間だけの限られた期間の関係です。他方霊的な家族は、この世と天の御国での永遠に渡る関係となります。ですから私たち人間は、天の御国で永遠に過ごすために、この世に生まれてきたということになります。
そこでイエス様は天の御国で永遠に過ごす資格のある人とはどのような人であるかを35節で言われました。その人とは「神のみこころを行う人」です。それでは「神のみこころ」とは何なのでしょうか。幾つか聖書の中から見てまいりましょう。
まずテモテへの手紙 第一2章4節です。「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられます。」この御言葉から、神様のみこころとは、全ての人が真理であるイエス・キリストを信じて救われることであることが分かります。
次にペテロの手紙 第二3章9節です。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」この御言葉から、神のみこころとは、だれも滅びることがなく、全ての人が悔い改めることであることが分かります。
そしてルカの福音書 7章29~30節です。「ヨハネの教えを聞いた民はみな、取税人たちでさえ彼からバプテスマを受けて、神が正しいことを認めました。ところが、パリサイ人たちや律法の専門家たちは、彼からバプテスマを受けず、自分たちに対する神のみこころを拒みました。」この御言葉から、神様のみこころとは、悔い改めて洗礼を受けることであることが分かります。
更にテサロニケ人への手紙 第一4章3節~6節です。「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。あなたがたが淫らな行いを避け、一人ひとりがわきまえて、自分のからだを聖なる尊いものとして保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、そのようなことで、兄弟を踏みつけたり欺いたりしないことです。」この御言葉から、神のみこころとは、私たちが聖なる者となることであることが分かります。しかし、自分の力で聖なる者となろうとすると、どうしても偽善者ぽくなります。自然体でできるようになるには、自分の力ではなく、神様の力で行うことが最善です。そこでお勧めは、丁度弟子たちがイエス様と共に歩んだように、私たちも、目には見えないイエス様といつも一緒に歩むことです。
以上まとめますと、神のみこころとは、全ての人が子なる神であるイエス・キリストを信じて滅びから救われ、永遠の命を持つことです。そうすると「神のみこころを行う人」とは、悔い改め、洗礼を受け、そして目には見えないイエス様といつも共に歩む人となります。
こういうわけですから、聖霊降臨祭から始まったこの世の終わりの時代にあって私たちに求められていることは、神のみこころを行うことであることが分かります。この神のみこころを行う人が主の家族の一員として認められるのです。神のみこころを行うとは、イエス・キリスト信じて滅びから救われ、永遠の命を持つことです。具体的には、①悔い改めること、②洗礼を受けること、そして③イエス様と共に歩む人です。
悔い改めて、イエス・キリストに罪の赦しを求めましょう。求めれば、「私もあなたに罪を認めない。」と宣言していただけます。そして父と子と聖霊の御名によって洗礼を受けましょう。そうすれば私たちは罪赦された者として、生きている今天の御国に導かれ、全ての災害から守られ、生活に必要なものは与えられ、喜びに満ちた人生を送ることができます。救い主イエス・キリストがそのような生活を送るようにしてくださるからです。この様な人生があることを知った方々は、この喜びの生活を独り占めするのではなく、多くの人々に知らせ、共にこの天の御国の喜びの生活に与るものとなっていただきましょう。
全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
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