2021年6月13日(日) 聖霊降臨後第三主日
聖書箇所 | 説教全文 |
---|
説教全文
「神の国は人が地に種を蒔くようなもの」
マルコの福音書4章26-34節
牧師 若林 學
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。
今朝の説教は聖マルコの福音書4章26節から34節まで。説教題は「神の国は人が地に種を蒔くようなもの」でございます。
本日の説教題は、本日の聖書箇所の最初の節である26節から取らせていただきました。本日の聖書箇所には、神の国とは何か、そしてその神の国に入るためにはどのようにしたら良いのかが語られておりますので、聖書に聞いて参りましょう。
まず、神の国とは何でしょうか。神の国は、聖書の別の箇所で「天の御国」(例えばマタイの福音書4章17節)とも呼ばれております。「神の国」と言った場合、神様がご支配なさる国、と言う意味で、神様に重点が置かれ、神様が王様の中の王様、そして私たちクリスチャンそれぞれが王として王冠を頭に戴き、王の王である神様に属する者となるのです。即ち神様が家の主人とすると、私たちクリスチャンはその家族となります。それで神の国に住む人々は王様の家族だけであって、家来としての臣民はいません。
そういうわけで、クリスチャン同士は、互いを兄弟姉妹と呼び合いますが、この呼び方はこの神の国の実体を表しているのです。
また「天の御国」と言う場合は、この世の国、つまりこの地上にある国ではなく、天にある神の国であって、その本質が天のものであることを表しています。つまり、「神の国」も「天の御国」も、神様の「力」と「恵み」で満ちている国となります。「力」とはこの地上での死の滅びからの救いの力を表し、死ぬことの無い天上の世界に導き入れられることを意味しています。また「恵み」とは罪の赦(ゆる)しを表します。人が悔い改めてイエス・キリストを信じると罪が赦され、死の滅びから永遠に生きる神の国に救われるのです。
イエス様は、本日の聖書箇所で、この神の国とは、具体的にどのような国なのかを説明されました。まず26節で神の国とは第一に、「神の国は人が地に種を蒔くようなもの」であると言われました。このイエス様のお話は例え話ですから、登場する「種を蒔く人」や、その蒔かれる「種」、そしてその種が落ちる「地面」は、それぞれ何かを例えていることになります。一体何を例えているのでしょうか。幸いなことに、本日の聖書箇所の少し前のマルコの福音書4章3節から8節でイエス様は種を蒔く人についての例え話をお話しされ、その例え話を14節から20節で、弟子たちだけに解き明かしておられます。そこを参考にすると、14節でイエス様は「種を蒔く人は、みことばを蒔くのです。」と言われました。御言葉を語られる人はイエス様ですから、本日の聖書箇所である26節に登場する「人」とは「イエス・キリスト」であり、「種」はその御口から出てくる「御言葉」となります。そして種が蒔かれる「地」とは14節から19節までの解き明かしで、「イエス様の例え話を聞く人々」となります。ですから、御言葉は耳で聞いて心に届き、そしてその心に留まり続けます。聞いたその人が夜昼、寝たり起きたりしている内に、その人の心に留まった御言葉は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、御言葉を聞いたその人は知りません。まさに神様のみぞ知る世界です。
「心」である「地」は、蒔かれた種を包み込み、やがて芽を出させます。そして、芽は成長し苗となり、穂が出来、次に多くの実が穂に入ります。この人の心の中に実る実とは何でしょうか。ここで少し引いて、実を結ぶ植物について考えて見ましょう。稲は米を実として実らせます。稲が米を実らすように、小麦は小麦、リンゴはリンゴと、植物はそれぞれに決まったものを実らせます。稲が小麦を実らすこともないし、ましてやリンゴがコメを実らすこともありません。ですから御言葉が留まった心が実らす実とは、「御言葉を実らすようになる人」ということになります。牧師、宣教師、信徒伝道者に限らずクリスチャンは皆、まだイエス・キリストを知らない方々へイエス様のことをお知らせする、「御言葉を実らす人」になっていくのです。
前に何度かお話ししましたが、私は46歳の時に心臓手術を受けました。心臓の僧帽弁を金属弁に置換する手術です。その手術が成功したことを知った時、その感謝の気持ちを表すために、後半生を牧師になって神様のために捧げることを決心しました。そして神様に聞きました。「ついては私をどのような牧師にしていただけますか。」そうしたら答えがありました。マルコの福音書4章20節です。「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちのことです。」私はこの御言葉から、百人の牧師を生み出す牧師にしていただけると確信したのです。ところが私は二日前の今月6月11日に74歳の誕生日を迎えました。子供たちから「誕生日おめでとう。」の祝福の言葉が届きましたが、嬉しくもあり、また悲しくもありで、複雑な心境です。100人の牧師どころか、この新しい教会で、私はまだ誰にも洗礼を授けていないのです。しかし神様は全能のお方です。約束をたがえるお方ではありません。いつかは必ず成就してくださると固く信じております。イエス様は29節で「実が熟すと、直ぐに釜を入れます。収穫の時が来たからです。」とあります。この「収穫の時」とは、クリスチャンそれぞれの人生の最後を表しております。イエス様は、私が実らす実が熟するのを待っておられるのでしょう。しかしこの私どもの教会の状況を見ますと、収穫の時は全く見えていませんから、私にはまだまだ先があると言うことになります。
イエス様は、次に、神の国がどのような力を持っているものであるかを、からし種に例えてお話しされました。からし種は小さな種です。しかし地に「蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。(マルコ4:32)」とイエス様は言われます。この御言葉を聞くと、いま世界中に広がている新型コロナ・ウィルスを思い浮かべてしまいます。ウィルスという人間の目には見えない極々小さい病原体ですが、それが人に感染すると、次々に感染者を生み出し、あっという間に世界中に広まってしまうのです。これはウィルスという人間にとっては有害なものですが、神様が造られたものであることには間違いありません。
同じように、からし種に例えられた御言葉は人間の目には見えないほど小さく、その存在が耳でしか検知できないものですが、いったん耳を通して人の心に蒔かれると、人間を根本から変えてしまうのです。つまり人間は全て生まれながら自己中心の性格であって、自分を母の胎内で創られたお方を知らず、さらにアダムとエバが犯した原罪を持っていることさえ知らず、罪が赦されずに滅んでいく運命でした。けれども、旧約聖書の「伝道者の書」12章1節にありますように、「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に。」という御言葉を聞いて、恐れを抱き、素直に己の創造者を知ろうと尋ね求め始めると、その人は、導かれ、イエス・キリストと出会うのです。そうするとその人は自分の罪が指摘され、悔い改めに導かれ、罪の赦しを求めるようになります。するとイエス様は「私もあなたに罪を認めない。」と宣言され、その人を無罪放免とされます。この無罪放免とされた人は、イエス様から離れたのかと思うとそうではなく、さらにイエス様にぴったりと寄り添うようになり、イエス様に導かれ、イエス様の力によって、当人も思いつかないような大事業をするようになります。そして多くの人がその人の指揮の下に入って、大事業を完成させるのです。この良い例が使徒パウロです。使徒パウロは、元はユダヤ教に人並外れて熱心なパリサイ人の一人で、クリスチャンを迫害する者でしたが、ダマスコ途上で光り輝くイエス様と出会い、キリスト教の大宣教者に変えられました。使徒パウロは、イエス様の力によって、小アジアやギリシャに多くの教会を設立しました。この様に人間一人の力は小さいものですが、神様が人間を通して働かれると想像も出来ないような大きな力となる良い例です。
33節を見ますとイエス様は多くの例えを人々を教えられたことが記されています。なぜ例えで民衆に語られたのでしょうか。民衆は今も昔も難しいお話はご免です。簡単で面白い話を聞くことが好きなのです。ですからイエス様は、民衆の気持ちを引き付けるために、例え話でお話しされました。たとえ話の方が、聞き易く、心に残り易いからです。しかし理解しようとすると、何を言われているのか分からないのです。けれどもイエス様の例え話は、神の種なので、心にいつまでも残り、時間が経つと心の中に溶け込み、やがて信仰が芽生え、真理が心に浸透することが期待できます。このように、たとえ話の目的は、記憶に定着させ、聞く人の中に信仰を芽生えさせることにありました。
しかし、ご自分の弟子たちには、全ての例え話について解き明かされた、と34節にあります。ご自分の例え話が聖書の一部として保存され、後世に伝えられることをご存知だったからです。それで弟子たちが聖霊に導かれて、正確に思い出せるようにと、イエス様は弟子たちには全ての例え話について解き明かしをされました。
このようにイエス様は、神の国について例え話で民衆にお話しされました。民衆の聞く力に合わせて例え話を語られました。しかし例え話は表面的に分かり易くとも、何を例えているのか本質的なことは何もわかりません。でもいつまでも心に残ります。心の表面に残ったたとえ話は、時間の経過と共に心の中に沁み込み、いつか突然その意味が理解できるようになり、信仰が芽生えることが期待できます。ですからイエス様は、「神の国とは、人の子であるわたしが、地という民衆の心に、御言葉という種を蒔くようなものである」と教えられました。御言葉という種を受けとめた心は、イエス様の力によって多くの実を結ぶようになります。最大100倍もの実を結びます。またイエス様の力によって、人知を超えた大事業も起こすようになります。ですからまず悔い改め、優しく罪の赦しを与えるイエス様を信じましょう。イエス様を信じることによって、私たち人間は、自分の力ではなく、イエス様の力で行うようになり、多くの困難に打ち勝って、大きな成果を上げることができるようになります。私たちにはイエス・キリストというまことの神様が付いておられるからです。多くの人にこのイエス様のことをお伝えし、共に救われ、喜びに満ちた不思議な人生を歩んでいただきましょう。
全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。
©2021 Rev. Manabu Wakabayashi, All rights reserved.
聖書箇所 | 説教全文 |
---|