説教全文

2021年7月11日(日) 聖霊降臨後第七主日

聖書箇所 説教全文

説教全文

「イエスの名が知れ渡った」

マルコの福音書6章14-29節

牧師 若林 學

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたの上にありますように。アーメン。

 今朝の説教は聖マルコの福音書6章14節より29節から、説教題は「イエスの名が知れ渡った」でございます。本日の説教題は本日の聖書箇所であります6章14節から取らせていただきました。本日の聖書箇所は、説教するのにとても苦労する箇所です。何しろイエス様のお話も、働きも一切書いてないからです。書いてあるのは「イエスの名が知れ渡った」という言葉だけです。国主ヘロデ・アンティパスと異母兄弟の妻ヘロデヤとの不倫の問題を通して何が見えて来るのか、それが本日のテーマかもしれません。御言葉に全てを委ねて、聞いて参りましょう。

 さて本日の聖書箇所の最初の節である14節で、福音記者のマルコはこのように述べています。「さて、イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。」ここで言うヘロデ王とは、国主ヘロデ・アンティパスの事で、30年ほど前に赤ちゃんのイエス様を殺そうとしたヘロデ大王と大王の四番目の妻であるマルタケとの間にできた子供です。ヘロデ・アンティパスは父ヘロデ大王から北にあるガリラヤ地方と、南にあるペレヤ地方を受け継ぎ、国主となりました。そして死海東岸にあるマケルスという町に城を築いて住んでいました。この14節の言葉「さて、イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。」から、二つのことが分かります。一つは、「イエス」という名前が一般庶民のユダヤ人の間に広く知られるようになったことです。もう一つは、国主ヘロデ・アンティパスというガリラヤとペレヤの地域でも最高位の人の所まで、イエス様のお名前が知られるようになったことです。この二つの事から、イエス様のお名前が、ガリラヤとペレヤの地域の下々の人々から、為政者である最高位の王に至るまで、ほとんど全ての人々に知られるようになったということが分かります。
 このように、「イエス」という名前がほとんど全ての人々に知れ渡っているのに、なぜ「人々」は14節後半のように、「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。」と言っているのでしょうか。イエスというギリシャ語の名前は「主は救い」という意味のヘブル語の「イェーシューア―」から来ており、ヨハネというギリシャ語の名前は、「主は恵み深い」という意味のヘブル語「ヨーハーナーン」から来ています。ですからヘブル人にとって、「イエス」と「ヨハネ」は全く違う名前です。聞き間違えるはずはありません。
 更に面白いのは、14節の後半の言葉です。「だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」この言葉は、死から自力でよみがえった人には奇跡を行う力が備わっているという考えを表しています。「自力で死からよみがえることができるのだから、他の人に対しても奇跡を行う力があるのは当然だ」、という風に聞こえます。聖書の中で預言者が死んだ人をよみがえらせる場面がありますが、しかしその預言者といえども、自力で死からよみがえった人間はいません。イエス様だけが自分の力でよみがえりました。イエス様は神様ですから、十字架の上で一時的に死ぬことがあっても、直ぐに復活され、永遠に死ぬことはできないのです。なぜなら、イエス様は「命」そのものであるからです。イエス様はヨハネの福音書14章6節で言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」イエス様は命そのものですから、死ぬことがないのです。それに引き換え人間は、いくら預言者といえども単なる肉に過ぎません。ですから、自力でよみがえることは出来ないのです。また、洗礼者ヨハネが生存中、奇跡を起こしたという話は、聖書にはありません。そういう訳で、国主ヘロデ・アンティパスが14節で「だから、奇跡を行う力が彼のうちに働いているのだ。」と言っているのは、迷信としか言いようがありません。

 イエス様の事を他の人々は何と言っていたのでしょうか。15節を見ますと、「ほかの人々は、『彼はエリヤだ』と言い、さらにほかの人々は、『昔の預言者たちの一人のような預言者だ』と言っていた。」と書いてあります。イエス様がマタイの福音書11章14節で洗礼者ヨハネの事を「あなたがたに受け入れる思いがあるなら、この人こそ来たるべきエリヤなのです。」と説明しておられます。ですから、もし人々が洗礼者ヨハネを指して、「彼はエリヤだ」と言うのならば正しいですね。しかし、人々がイエス様を指して、「彼はエリヤだ」と言っていたとすれば間違いとなります。
 洗礼者ヨハネは、旧約聖書最後の書であるマラキ書4章5節で預言されているエリヤなのです。「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」この様に預言された預言者エリヤである洗礼者ヨハネがイエス様の道備えとして遣わされてから、既に二千年程経ちましたが、「主の恐るべき日」はまだ到来していません。この「主の恐るべき日」とは、この世の終わりの日の事で、天の御国が悔い改めて洗礼を受けた人々で満ちるまで、神様は忍耐して待っておられるのです。
 更に他の人々はイエス様のことを、「昔の預言者たちの一人のような預言者だ」と言っていました。この「昔の預言者」とは死んだ人をもよみがえらせることができるほど力のある預言者となります。確かにイエス様はカペナウムの町の会堂司ヤイロの娘さんをよみがえらせ(マルコ5:42)、またベタニアのラザロさんをよみがえらせ(ヨハネ11:44)、多くの病人を癒し(マルコ1:34)、五つのパンと二匹の魚から一万人以上の人々に食事を与え(マルコ6:44)、嵐の湖の上を歩き(マタイ14:25)、また弟子のペテロをも水の上を歩かせ(マタイ14:29)、嵐を鎮められて(マルコ4:39)、偉大な預言者としての力をお示しになりました。

 しかし国主ヘロデ・アンティパスは、イエス様のお名前とその力ある業の数々を聞いた時、言いました。16節です。「私が首をはねた、あのヨハネがよみがえったのだ。」もしこの国主ヘロデ・アンティパスが本当にそう思っていたのだったら、非常に怖かったでしょうね。よみがえったヨハネが自分に復讐するために、何時襲ってくるのかと怖れに満たされ、多分気が休まる暇が無かったことと思われます。いつもいつもびくびくして過ごさなければならない日々が続いたことでしょう。恐怖で心が病み、体は日に日に衰弱していったのではなかと想像されます。
 というのは本日の聖書箇所の18節に書いてあるように、以前、国主ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネから「あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない」と糾弾されていたからです。つまり洗礼者ヨハネから、「あなたは姦淫の罪を犯していますよ」、と指摘され続けていたのです。もし一般の領民が一国の王様に対して「あなたは姦淫の罪を犯していますよ」、と指摘したらどうなるのでしょうか。たちまち兵隊が遣わされてその人は捕らえられ、40回の鞭叩きの刑に処せられるか、終生監獄にぶち込まれるか、それでも言うことを聞かなければ打ち首となるでしょう。

 どうして国主ヘロデ・アンティパスが姦淫の罪を犯すようになった経緯が本日の聖書箇所の17節に書いてあります。「実は、以前このヘロデは、自分がめとった、兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、人を遣わしてヨハネを捕らえ、牢につないでいた。」国主ヘロデ・アンティパスには既に正式な妻がいました。ナバテヤ王国の王様アレタ四世の娘です。ナバテヤ王国は、国主ヘロデ・アンティパスが住む死海東岸のマケラスから南に100㎞ほど南に下ったところに位置する王国で、その首都はペトラでした。現在ペトラ遺跡として知られている場所です。
 ところが、国主ヘロデ・アンティパスが所用でローマを訪れた時、ローマに住んでいた異母兄弟のヘロデ・ピリポを表敬訪問したのでしょう。そしてヘロデ・ピリポの妻であるヘロデヤと出会ったのです。そして二人はたちまち恋仲になってしまいました。二人はそれぞれの結婚を解消して、一緒になろうを計画し、国主ヘロデ・アンティパスは一旦自分の国に帰り、妻であるアレタ四世の娘と離婚したのですが、ヘロデヤは夫と離婚出来なかったのです。多分夫のヘロデ・ピリポが離婚を承諾しなかったのでしょう。ヘロデヤは夫との関係が切れないまま、ヘロデ・アンティパスと同棲して内縁関係に入るという律法に反することをしていたのです。そのことを恐れも無く糾弾する洗礼者ヨハネの口を封じたかったヘロデヤが、洗礼者ヨハネを捕らえるようにと、内縁の夫の国主ヘロデ・アンティパスにけしかけたのだということは想像に難くありません。洗礼者ヨハネは、イエス様が宣教を始める直前に捕らえられ、国主ヘロデ・アンティパスが住む、マケルスのお城の牢獄に閉じ込められていました。

 ところでヘロデヤはローマに住む夫のヘロデ・ピリポとの間に、サロメと言う名の娘をもうけていました。このサロメにはローマの一流の先生を付けてダンスを習わせていたことと思われます。このサロメを用いる絶好のチャンスが訪れました。同棲している国主ヘロデ・アンティパスが自身の誕生日に重臣や千人隊長、ガリラヤの主だった人たちを招いて、祝宴を設けることにしたのです。ヘロデヤはその祝宴が盛り上がった時に娘を踊らせ、列席の人々を楽しませ、喝采を得る計画を立てました。その為にはきっと一流の音楽隊を雇ったことでしょう。サロメはその素晴らしい音楽に乗って、ローマで習った素晴らしい踊りを披露したのです。ローマ仕込みの素晴らしい踊りを披露されて、その誕生日の祝宴は大いに盛り上がりました。
 気を良くしたのは当然のことながら、この祝宴の主役である国主ヘロデ・アンティパスです。そこで王は少女に、「何でも欲しい物を求めなさい。おまえにあげよう。おまえが願う物なら、私の国の半分でも与えよう」と堅く誓ったのです。そこで少女は出て行って、母親に相談しました。すると母親は言いました。「バプテスマのヨハネの首を。」少女はすぐに、王のところに行って言いました。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます。」
 思いもかけない娘の申し出に、国主ヘロデ・アンティパスだけでなく、列席のお客たちも一瞬氷付き、戸惑いとざわめきが起こりました。「この娘はなんてことを言うんだ。ヨハネの首だなんて、恐ろしい。きっとヘロデヤのさしがねだね。彼女はヨハネを恨んでいるからなあ。それにしてもヘロデはどうするのだろう。娘の要求を断るのか、それとも叶えてやるのか。」
 ヘロデヤには自尊心と虚栄心が強く、しかも道徳心も低いヘロデの出す答えが分かっていました。その通り、ヘロデの心の中の答えは26節の次の言葉に示されています。「自分が誓ったことであり、列席の人たちの手前もあって、少女の願いを退けたくなかった。」ヘロデの自尊心が自分の誓いを守らせ、その虚栄心が少女の願いを退けさせず、道徳心の弱さが、無実の人を殺すという罪を犯させてしまったのです。もしヘロデに、罪の無い人を殺すということは間違いであるという道徳心の強さがあったならば、娘の非常識な要求を退けたことでしょうし、自尊心や虚栄心が低ければ、即ち謙虚であれば、大勢のお客の前で自分の非を認めて、誓いを破ることもいとわなかったことでしょう。でもヘロデにはそのような道徳心も、謙遜さも持ち合わせていませんでした。
 国主ヘロデ・アンティパスはすぐに護衛兵を遣わして、ヨハネの首を持って来るように命じました。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来て、少女に渡しました。少女はその生首が載っている盆を受け取り、どう思ったでしょうか。ヘロデヤの娘ですから、多分平然と受け取り、母親に渡したことでしょう。この騒動の一部始終を聞いたヨハネの弟子たちは、やって来て遺体を引き取り、墓に納めたのです。
                                       
 このように、「あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない」と責める洗礼者ヨハネの口を塞ぐのために、彼は殺されたわけですが、しかしそれさえも神様の御計画であったと考えられます。ヨハネはイエス様の道備えをするためだけの役割でした。しかしこのイエス様の道備えをすることがどんなにすごい仕事であることかが、イエス様の言葉から分かります。マタイの福音書 11章11節です。「まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、洗礼者ヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。」ですから酷のように感じますが、役割が終われば退場しなければならないのです。洗礼者ヨハネ自身もそのことを知っており、ヨハネの福音書3章30節で言っています。「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」ヨハネに限らず、全ての人は役割が終われば退場しなければなりません。しかし、罪赦(ゆる)された信仰者たちは天国で洗礼者ヨハネにも会うことができます。ですからヨハネの死は、人間的には無駄死の様に見えても、神様の目には尊い死なのです。私も歳を取って来ました。あと20年以内に私も退場しなければなりません。でもまた大勢の兄弟姉妹と天国で再会できると思うと、楽しみこそあれ、悲しみはありませんね。

 イエス様のお名前が知れ渡ったので、その名前は国主ヘロデ・アンティパスの耳にも入りました。国主ヘロデは、自分が首をはねた洗礼者ヨハネがよみがえった、と受け取りました。それは以前、洗礼者ヨハネが国主ヘロデに向かって、「あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない。」と糾弾し続けていたので、同棲していたヘロデヤの恨みを買い、ヘロデヤの策略に踊らされた自尊心と虚栄心の強い国主ヘロデによって首をはねられました。この時洗礼者ヨハネは、およそ33歳で、イエス様は、およそその1年後、十字架に掛けられて死にました。洗礼者ヨハネが、イエス様の十字架以前に若くして死に追いやられたのは、洗礼者ヨハネの人々への影響を無くして、人々の関心をイエス様に集中させるための神様の御計画であったと思われます。
 いずれにしても神様は私たちを用いて事を進められます。それは全て、イエス様のお名前が知れ渡るためです。イエス様のお名前が知れ渡って、多くの人々が悔い改めに導かれ、イエス様とお会いし、罪赦されて救われ、天の御国、神の国に導かれるためです。そのために私たちは生まれてきたと言っても過言ではありません。ですからイエス・キリストを信じているなら、たとえ若くして死んだとしても、決して無駄死にではなく、反対に、イエス・キリストを信じていないなら、たとえ長く生きることが出来たとしても、神の国へは導かれませんので、天寿を全うできたと単純に喜ぶことは出来ないのです。悔い改め、イエス様を信じましょう。そうするなら、あなたも神様の器となり、人を救いに導く人として神様に用いていただけます。神様はあなたにもご計画をお持ちです。神様に全てを委ねましょう。そしてイエス様のお名前を一人でも多くの人にお知らせ致しましょう。

 全ての人々の考えに勝る神の平安が、あなた方の心と思いを、キリスト・イエスにあって守ってくださいますように。アーメン。

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