ペテロの信仰告白

マタイの福音書16章13節~23節

私たちは、毎週の礼拝の中で、使徒信条を告白しています。使徒信条は私たちの信仰の基準で、私たちが何を信じているかをわかりやすくまとめた文章です。この使徒信条を告白する教会は同じ神を信じているということが出来ます。プロテスタント教会もカトリック教会も共に使徒信条を告白します。そういう意味で、プロテスタント教会とカトリック教会は同じ神を信じているということができます。使徒信条を告白しない教会は異端ということが出来ます。異端とは私たちと同じ神を信じていないということです。たとえば、エホバの証人は神の性質である三位一体を信じていないので、私たちと同じ神を信じていないということです。そういう意味で、統一協会もモルモン教も異端であり、私たちとは違う神を信じているということです。

1、イエスを誰と告白するのか(マタイの福音書16章13節~19節)

 マタイの福音書16章13節「さて、ピリポ・カイザリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに『人々は人の子をだれだと言っていますか』とお尋ねになった。」とあります。まず、イエスは「人々は人の子(ご自分のことを)」誰だと言っているかをお尋ねになりました。「人々」とは、群衆のことで、イエスの周りにいる人々、いってみれば求道者たちという意味です。また、イエスはご自分のことを「人の子」ということばで表しています。イエスは決して「メシア」ということばをお使いになりませんでした。当時の群衆はメシア(救い主)を待ち望んでいましたが、彼らが待ち望んだメシアとは、ローマ政府の支配から自分たちの国を助け出す、ダビデ王のような勇敢な王メシアを待ち望んでいたからです。イエスは決してそのような目的でお生まれになられたメシア(救い主)ではありません。14節「彼らは言った。『バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者だとか言っています。』」と答えました。群衆のイエスに対する評価はどれも、預言者というレベルに留まっていました。15節「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』」ここで言われている「あなたがた」とは、イエスの弟子になった者たちのことです。彼らは家も家族も捨ててイエスの弟子になった人々です。また、イエスの奇蹟を体験した人々です。彼らに対してイエスは「わたしをだれといいますか。」と問いかけました。言い換えれば、わたしをだれと信じるかという質問です。16節「シモン・ペテロが答えた。『あなたは生ける神の子キリストです。』」シモン・ペテロの答えは群衆とは違う答えでした。ペテロは明確にイエスを預言者ではなく、神と同等の権威があるお方と告白したのです。それに対して、イエスはペテロに言われました。17節~19節「すると、イエスは彼に答えられた。『バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロ(岩)です。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれています。』」ここでイエスはペテロに対して三つの大切な事を教えています。(1)イエスを神の子と告白することは、人間の知恵、力では告白することは出来ない。それは神の力によることを教えています。(2)イエスは岩の上にわたしの教会を建てますと言われましたが、この「岩(ペテロ)」とは、ペテロ個人の上にということではなく、ペテロの信仰告白の上に教会を建てると言う意味です。それゆえ、私たちは毎週日曜日、礼拝の中で使徒信条を告白しています。(3)ペテロに与えられた「天の御国の鍵」とは、救いに関することで、救いは教会を通して与えられ、それ以外では救いを得ることが出来ないという意味です。

2、神から遣わされたメシア(救い主)の姿(マタイの福音書16章20節~23節)

 20節「そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。」とあります。イエスはなぜそのように弟子たちを戒められたのでしょうか。それは、先ほどの、ペテロの信仰告白が彼から出た言葉ではなったからです。ペテロも他の弟子たちもイエスに対する理解が十分ではないことをイエスは知っておられました。それで、イエスは弟子たちに自分のことをキリストであることをだれにも言ってはならないと戒められたのです。そして、イエスは弟子たちにご自分がメシア(救い主)である事がどういう事なのか、弟子たちに説明されました。21節「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。」とあります。イエスが語られたメシア(救い主)の姿は、弟子たちの想像と大きくかけ離れていました。弟子たちも、イエスがこの後、大きな働きをして、高い地位に就くことを期待していたのです。それで、ペテロはイエスに言いました。22節「すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。『主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。』」と言いました。23節「しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。『下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」と強くペテロを退けられたのです。ペテロのことばは、イエスのことを思って言い出した言葉ですが、それは、イエスから十字架の死を遠ざける意見でした。それは、まさに、サタンの考えだったのです。

統一協会では、イエス・キリストは十字架に付けられ殺され失敗したので、新しいメシア(救い主)文鮮明が誕生したと信者に教えるそうです。確かに、イエス・キリストが十字架に付けられて殺されて終わりならば、そう言えるかもしれません。しかし、イエス・キリストは死より三日目に復活して、弟子たちにその姿を現わして天に上って行かれました。そして、イエスは弟子たちに宣教の働きを委ねられたのです。そして誕生したのが教会です。イエスによってペテロに与えられた鍵は教会に与えられ、私たちは教会を通して神と出会い、救いを頂く者に変えられるのです。そして、私たちの信仰の中心が「イエス・キリストが神のひとり子」であるということです。その神が、私たちの罪の身代わりとなるために十字架でいのちを犠牲にしてくださいました。また、イエス・キリストは神の子ゆえに死より三日目に復活して天の父のもとに昇って行かれたのです。先程の使徒信条に「我はその独り子我らの主、イエス・キリストを信ず。」とあります。そこにイエスが弟子たちに問いかけた「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問いかけた重要な意味があるのです。私たちはその問いかけに何と答えるでしょうか。イエス・キリストは私たちと同じ罪ある人間でしょうか。それともペテロが答えた「神のひとり子」でしょうか。その答えによって私たちの住まいが天の御国に備えられるのか。それとも、自分の犯した罪の報いを受けるのか、大きな分岐点となるのです。