マタイの福音書8章1節~4節、9章1節~8節
- ツアラアトをきよめるイエス・キリスト(マタイの福音書8章1節~4節)
イエスは山に登られ、群衆を教えられました。それが山上の説教としてマタイの福音書5章~7章まで記されています。イエスが山から降りて来られると一人のツアラアト(重い皮膚病)に冒された人がイエスの前に現れひれ伏しました。ユダヤ人にとってツアラアトという病は、恐ろしい肉体の病だけではなく、神の前に罪を犯した者に与えられる汚れた病とされていました。モーセの時代からすでにこの病はイスラエルの民に恐れられ、ツアラアトに冒された者に与えられた戒め。また、ツアラアトが癒された時の戒めなど、多くの規則がレビ記13章14章に示されています。
民数記の12章で、モーセの姉ミリアムと兄アロンがモーセの妻について咎めたことが書かれています。彼らはモーセに嫉妬し、モーセに与えられた神の権威に逆らったのです。神は三人に会見の天幕のところに出るように命じました。神は二人(ミリアムとアロン)に、神とモーセの関係が特別なことを示しました。9節「主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。」10節「雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリアムは皮膚がツアラアトに冒され、雪のようになっていた。アロンがミリアムの方を振り向くと、見よ、彼女はツアラアトに冒されていた。」とあります。アロンはモーセに助けを求めました。モーセが神に祈ると、神はモーセに対して、彼女を七日間宿営の外に締め出すように命じました。その後、彼女は宿営に戻されました。聖書には書かれていませんが、この七日の内にミリアムのツアラアトは癒されたものと考えられます。そのようなこともあり、イスラエルの民にとって、ツアラアトは汚れた病として人々に恐れられていたのです。
マタイの福音書8章2節「すると見よ、ツアラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、『主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります』と言った。」とあります。彼の態度やことばから、明らかに彼はイエスに対して、預言者以上の者。神から遣わされた特別な人という尊敬と信仰を持ってイエスの前にひれ伏したことがわかります。3節「イエスは手を伸ばして彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐに彼のツアラアトはきよめられた。」とあります。普通の人々は、ツアラアトの汚れが移ることを恐れ、彼らに近づいたり触ったりしません。しかし、イエスは自ら彼に触り、彼のツアラアトを癒されたのです。それによって、イエスが神から遣わされた者、罪をきよめる権威が神から与えられていることが証明されたのです。4節「イエスは彼に言われた。『だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。』」イエスの権威はこの時、まだ、公に認められていません。それゆえ、彼のツアラアトが癒されたことを証明するために、祭司のところに行き、正式に癒されたことを証明し、社会復帰するように命じられたのです。
- 中風の病のいやし(マタイの福音書9章1節~8節)
1節2節「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた。すると見よ、人々が中風の人を床に寝かせたまま、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された』と言われた。」とあります。「中風」とは、今でいう「脳梗塞」と考えられます。突然、体が麻痺して動かなくなります。現代では脳の障害と考えられますが、当時は、ツアラアトと同じように罪の結果と考えられていました。それゆえ、彼らの病が癒されるためには、神の力(赦し)が必要と考えられていたのです。中風の人をイエスの所に運んで来た人々は、イエスに中風を癒す力がある、神の権威があることを信じて彼をイエスのもとに連れて来たのです。3節「すると、律法学者たちが何人かそこにいて、心の中で『この人は神を冒涜している』と言った。」とあります。彼らの考えの半分は正しい考えです。確かに人間が(神の権威の無い人が)あなたの罪は赦されたということは、神の権威を冒涜することです。しかし、イエス・キリストは神によって遣わされた者であり、人の罪を赦す権威を父なる神から与えられた者です。それゆえ、イエスが「あなたの罪は赦された」と言っても、神を冒涜することには当たらないのです。また、それを彼らに証明するためにイエスは言われました。4節~6節「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと。『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたにが知るためにー。」そう言って、それから中風の人に『起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい』と言われた。」7節「すると彼は起き上がり、家に帰った。」とあります。彼が起き上がり歩き出すことによって、イエスが神から遣わされた者であり、人の罪を赦す権威が与えられていることが証明されたのです。8節「群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。」とあります。
この二つの病の癒しの中で、大切な事は、イエスがだれで、神からどのような権威が与えられているかを認める(信じる)ことです。律法学者たちは最後まで、イエスの権威を認めることが出来ずに、イエスを十字架に付けて殺してしまったのです。マタイの福音書16章で、イエスは弟子たちに尋ねられました。13節「イエスは弟子たちに『人々は人の子をだれだと言っていますか。』とお尋ねになった。」14節「彼らは言った。『バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだという人たちもいます。また、ほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています。』」15節「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』」16節「シモン・ペテロが答えた。『あなたは生ける神の子キリストです。』」人々はイエスのことを「預言者」だと認めていました。しかし、イエスはそれでは満足されませんでした。それで、弟子たちの考えを聞かれました。ペテロは弟子たちを代表して「あなたは生ける神の子キリストです。」と信仰告白したのです。ペテロはなぜ、そのようにイエスを神の子と告白することが出来たのでしょうか。それは、聖書にあるように天の父によります。しかし、それだけではなく、彼らはイエスと共に生活しイエスの権威、力を直接見た人たちでした。それこそが、弟子たちの特権であり、後に伝道者として働くために必要なことでした。私たちも同じように聖霊の力によってイエスを神の子と告白することができました。また、私たちは聖書の出来事を通してイエスを神の子と告白することが出来るのです。ここで大切な事は、イエスの処女降誕と死よりの復活を信じるかどうかです。イエス・キリストが私たちと同じ生まれ方をしたとすれば、彼にも原罪(罪を犯しやすい性質)は残ります。そうであるならば、罪ある人は他の人の罪を背負うことは出来ません。そうなると私たちの罪の問題は解決されません。また、イエス・キリストが死より復活されなかったとしたら、彼は神の子ではなく、私たちと同じ人間という事になります。そうであるならば、私たちの罪の赦しもありません。神は私たちに処女降誕と死よりの復活を理解するように求めているわけではありません。信じることを求めています。それは、神を信頼することであり、聖書全体を神のことばと信じることです。神は、ペテロと同じように、私たちにイエスを誰と信じるかと問いかけています。あなたはイエス・キリストをだれと答えるでしょうか。それによって、私たちがクリスチャンか、そうでないかが、はっきりしてくるのです。