五つのパンと二匹の奇跡と永遠のいのち

ヨハネの福音書6章26節~35節

五つのパンと二匹の魚で、男性だけで五千人の人々のお腹を満たしたイエスの奇跡は、マ「五つのパンと二匹の魚の奇跡と永遠のいのち」ヨハネの福音書6章26節~35節

タイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書、ヨハネの福音書に記されています。イエスは多くの奇跡を行いました。その中で四つの福音書すべてに記されているのは、この五つのパンと二匹の魚の奇跡だけです。共観福音書と呼ばれる、マタイ、マルコ、ルカの福音書は同じような内容になっていますが、ヨハネの福音書は、この奇跡の後の出来事、特にイエスが群衆に語られた説教に重点が置かれています。この奇蹟について、マタイやマルコやルカは、イエスが人間を越えた、偉大な神の力があることを伝えようとしています。ヨハネはこの奇跡を通して、イエスが神から遣わされた救い主であり、イエス自身が永遠のいのちであることを伝えています。また、イエスを信じることによって私たちも、永遠のいのちを持つ者となることを教えています。

  • 五つのパンと二匹の魚の奇跡の後(ヨハネの福音書6章15節~21節)

五つのパンと二匹の魚で男性だけで5千人の人々を満腹させた奇跡の後、人々はイエスを預言者だと信じたとあります。また、ある者はイエスを王に祭り上げようとしたことが記されています。ヨハネの福音書6章14節「人々はイエスがなさったしるしを見て、『まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ』と言った。」15節「イエスは人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再び一人で山に退かれた。」イエスは熱狂した群衆から弟子たちを守るためか、彼らを先に船に乗せてカペナウムの方に送り出しました。そして、イエスはひとりそこに残りました。弟子たちは強風のため舟は中々、先に進みませんでした。すると、イエスが水の上を歩いて舟に近づいてくるのを見て弟子たちは恐れたとあります。イエスが舟に乗り込むと波は静かになり、すぐに目的地に着きました。この出来事はマタイとマルコの福音書に詳しく書かれています。

2、イエスと群衆との会話(ヨハネの福音書6章22節~59節)

イエスがその場にいないことを知った群衆は、舟に乗ってイエスを捜しにカペナウムに向かいました。イエスをカペナウムまで追っかけて来た群衆にイエスは言いました。26節27節「イエスは彼らに答えられた。『まことに、あなたがたに言います。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしをみたからではなく、パンをたべて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与えるたべものです。』」イエスは群衆に対して、あなたがたが私を捜しているのは、メシヤとしてのしるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだと言われました。それは、彼らがイエスのなされたしるし(五つのパンと二匹の魚の奇跡)を正しくメシヤとしてのしるしと理解したからでだはなく、ただ単に、驚いただけにすぎないからだと言われたのです。それで彼らはイエスに言いました。30節31節「それでは、私たちが見てあなたを信じられるように、どんなしるしを行われるのですか。何をしてくださいますか。私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『神は彼らに、食べ物として天からのパンを与えられた』と書いてあるとおりです。」彼らはメシヤとしてのしるしとして、旧約聖書の出エジプト記でモーセが荒野でマナという食べ物を与えられた出来事を持ち出しました。それに対してイエスは彼らに言われました。32節33節「まことに、あなたがたに言います。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からのまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」確かに、荒野で40年イスラエルの民にマナを与えられたのはモーセではなく、父なる神様です。それだけではなく、神は、マナという食べ物ではなく、まことのパン(救い主)としてイエス・キリストを与えてくださいました。それこそが、世にいのちを与えるまことのパン、永遠のいのちなのです。34節「そこで彼らはイエスに言った。『主よ。そのパンをいつも私たちにお与えください。』」彼らはまだ、食べるパンのことしか頭にありません。イエスは彼らに言われました。35節「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」ここでイエスははっきりと、ご自分が父なる神より遣わされた救い主、いのちのパンであることを宣言されました。またこのように言われました。39節40節「わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。」これを聞いて彼らは、小声で文句を言ったとあります。イエスのことばを信じることができなかったのです。47節~51節「まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがありません。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」これを聞いて群衆は、イエスの肉を食べるという事がどういうことか議論を始めたとあります。イエスは彼らに説明して言われました。53節~58節「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは天から下って来たパンです。先祖が食べて、なお死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」ユダヤ人は血の付いたままで肉を食べたり、血を飲むことは神の戒めによって禁じられていました。それゆえ、イエスのことばをそのことば通り受け取ったユダヤ人たちは60節「これを聞いて、弟子たちのうちの多くの者が言った。『これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか』」とつまずきました。しかし、イエスが言われた、私の肉を食べる、私の血を飲むとは、文字通りではなく、イエスを救い主と信じて受け入れることを意味していたのです。しかし、彼らはイエスのことばの意味を理解することが出来ず、つまずいてしまったのです。

五つのパンと二匹の魚の奇跡を通して、人々は驚き、イエスを預言者と信じ、また、王に祭り上げようとしました。しかし、イエスは弟子たちを舟でカペナウムに向かわせ、イエス自身も群衆から身を避けました。イエスは群衆が願っている者(預言者や王)ではなかったからです。また、彼らはイエスを追っかけ、モーセの例をあげて、メシヤとしてのしるしを求めました。イエスは彼らに対して、ご自分は預言者以上の者。神より遣わされたパン(救い主)であることを伝えたのです。しかし、彼らはイエスのことばを正しく理解できず、つまずいてしまったのです。五つのパンと二匹の魚で男性だけで五千人の人々のお腹を満たした奇跡は、マタイ、マルコ、ルカが記しているようにイエスが人間を越えた神の力をお持ちの方であることを証明された出来事だけではありません。使徒ヨハネは、晩年になって、イエスの生涯を回想した時、イエスが群衆に語られた大切な意味に気が付いたのです。それは、「永遠のいのち」についてです。イエスが言われた永遠のいのちとは、この地上で永遠に生きる命のことではありません。また、死んだ後、天国で永遠に生きる命のことでもありません。イエスが言われた永遠のいのちとは、永遠のいのちを持つイエスに繋がることを意味していました。それゆえ、永遠のいのちはイエスを救い主と信じた者に与えられる神の恵みです。それは、この地上でイエスと一つになり、天の御国でもイエスと共に永遠に生きるいのちの事です。私たちは、明日のことも、将来の事もわからない者です。それゆえ将来に対して不安を持ちます。また、死について恐れを持ちます。しかし、私たちはイエスが共におられることで、心に平安を持つことが出来ます。イスラエルの王ダビデは詩編23篇4節「たとえ、死の陰の谷を歩むとしても私はわざわいを恐れません。あなたが共におられますから。あなたのむちとあなたの杖それが私の慰めです。」と表現しました。むちと杖は外敵から羊を守る道具です。ダビデは神によって選ばれたイスラエルの王様です。神はイエス・キリストを通してダビデと共におられたように、私たちとも共におられると約束してくださいました。それが、永遠のいのちの祝福です。私たちは食べ物や飲み物、多くの財産で心を満たし、心の不安を解消することは出来ません。しかし、私たちは永遠のいのちを持つイエス・キリストと繋がることによって、ダビデと同じように心に大きな平安を得ることが出来るのです。