罪を赦す権威

「罪を赦す権威」ルカの福音書5章17節~26節

ルカの福音書5章12節から16節に、らい病に冒された人の癒しについて書かれています。旧約聖書の中にも、らい病が癒された話しがいくつかあります。また、レビ記にはらい病が癒された時に、どのような捧げ物を祭壇に捧げなければならないか具体的に教えています。それほど、イスラエルの地では、らい病患者が多かったのではないかと思われます。また、らい病は現在でもその原因が解明されていない恐ろしい病です。当時、イスラエルの国では、らい病は、神様から与えられた刑罰と考えられていました。実際、旧約聖書の民数記の中で、モーセに逆らったモーセの姉ミリヤムは主の怒りによって、らい病に冒されてしまいました。モーセのとりなしの祈りによってらい病は癒されますが、彼女は一週間、宿営の外で暮らさなければなりませんでした。イエス様の前に現れたらい病人は、イエス様に12節「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」とお願いし、イエス様も彼に対して「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われました。「らい病を治してください」ではなく、なぜ、彼は「らい病をきよめてください。」とお願いしたのでしょうか。旧約聖書のレビ記では、「らい病がきよめられたとき」に神様に捧げ物をするように教えています。イスラエルの民にとって、らい病は汚れた病であり、神様に赦され、きよめられなければならない病だったのです。そして、このらい病をきよめることは神様しかできないと信じられていました。それゆえ、彼が、イエス様にらい病をきよめてくださいとお願いしたということは、彼が、イエス様に神の権威があることを認めて、らい病をきよめてください(治してください)とイエス様にお願いしたということです。また、イエス様が彼をいやされたことは、イエス様が、神様と同じ権威を持ったお方であることを証明された出来事なのです。

17節から26節は、中風をわずらった人の癒しのお話です。中風は現在、脳の障害(脳梗塞、脳溢血)により体が麻痺した状態を指す病と考えられています。中風をわずらっている人の友人が、近くの村にイエス様が来られて、人々の病をいやされているというお話を聞き、中風の友人を床に寝せたままイエス様のおられる家までつれて来ました。しかし、多くの人々が集まっていて、彼を家の中に入れることができません。そこで、彼らは、家の屋根に登りました。イスラエルの家は、石造りで、屋根はわらや土を混ぜた粗末な瓦でできた屋根でした。また、脇に階段がついていて簡単に屋根に登れる仕組みになっていました。彼らは、屋根に登り、その屋根を壊して天井からイエス様の前に病人をつり降ろしたのです。人々は驚いたことでしょう。20節「彼らの信仰を見て、イエスは『友よ。あなたの罪は赦されました。』と言われた。」とあります。彼らの信仰とは、イエス様の前に連れてくれば、友人の病(中風)が癒されると信じて、友人を床に寝かせたまま連れてきた信仰です。イスラエルの国では中風もらい病と同じように、神様から与えられた刑罰と考えられていました。それゆえ、中風を癒すためには、神様の赦しが必要で、友人達はイエス様に神の権威があることを信じて病人を連れてきたのです。また、イエス様は彼らのその信仰を見て、中風の人にあなたの罪は赦されたと宣言されたのです。しかし、ここにユダヤ教を教える律法学者、パリサイ人たちがいました。彼らはイエス様のことばを聞いてこのように思いました。21節「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」先程もお話しましたように、らい病や中風など、原因のわからない大病は、神様からの刑罰と考えられ、らい病や中風を治すことは、その罪が赦されたことを表していました。また、その罪を赦すこと(病を治す)ことは、神以外誰にもできないと信じられていたのです。そして、先程のらい病人と中風の友人達はイエス様に神様の権威があることを認めて、イエス様に病のいやしを求めて来たのです。しかし、律法学者、パリサイ人たちは、イエス様の神としての権威を認めなかったので、イエス様が神のように、「あなたの罪は赦されました。」と宣言されたのを聞いて、彼らは、イエス様が神を汚していると、心の中でつぶやいたのです。この時、イエス様は彼らに言いました。22節~24節「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなた方に悟らせるために」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われました。25節「すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。」とあります。確かに、イエス様が言われるように、「あなたの罪が赦された」というより、「起きて寝床をたたんで帰りなさい」と言う方が難しいに決まっています。なぜなら、「あなたの罪が赦された」と言っても本当にその人の罪が赦されたかどうか判断することはできません。しかし、「起きて寝床をたたんで帰りなさい」と言って彼が立ち上がれなければ、明らかに、イエス様に神の権威がないことが証明されてしまいます。イエス様は、ご自分に神と同等の権威があることを証明するために、彼に「寝床をたたんで家に帰りなさい」と命じられたのです。すると彼は立ち上がり床をたたんで家に帰りました。イエス様に神の権威があることが証明されたのです。

新約聖書の中心は、イエス・キリストが誰であるかということです。マタイの福音書16章で、イエス様は弟子たちに、ご自分のことを人々はだれだと言っていますかと問い掛けました。すると14節「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」と答えました。次に、イエス様は、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と言われました。ペテロはイエス様に答えました。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」イエス様はその答えに満足して言われました。17節「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」ペテロがイエス様のことを「生ける神の御子キリストです。」と告白できたのは、ペテロの力や知恵ではなく、神様の恵みでした。誰も、自分の知識と力では、イエスを神の御子キリストとは告白できないのです。信仰とは、イエス・キリストを生ける神の御子キリストと信じることです。らい病の人、中風の友人たち。彼らは、イエス様を生ける神の御子と信じた人々です。律法学者、パリサイ人たちはイエス様を神の御子と信じませんでした。それゆえ、イエス様を神を冒涜した者として十字架に付けて殺したのです。また、神様のご計画も、イエス様を十字架に付けて殺すことでした。なぜなら、イエス・キリストが死ななければ、復活もなく救いの計画が完成されないからです。神の子が人となられた、そのことの証明がイエス様の奇跡です。イエス・キリストは神の子としての地位を捨てて、人となられ、私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死んでくださいました。この出来事が作り話であるなら、イエス様を神の子と信じる価値はありません。しかし、歴史的事実であるなら別です。一人の神が私たちの罪のために十字架の上で死なれたのです。そのことを考えて、もし、イエス様があなたに「わたしをだれと言いますか。」と語られたら、あなたは今、何と答えるでしょうか。