イエス様の招きに応じたレビ(マタイ)

「イエス様の招きに応じたレビ(マタイ)」ルカの福音書5章27節~31節

先週、お話した中風の病のいやしと今日のお話、イエス様が取税人のレビを招くお話はマタイの福音書9章と同じ場面を描いています。マタイの福音書では、収税所にすわっていたのはマタイの福音書を書いたマタイ自身であると紹介しています。ルカの福音書で呼ばれている「レビ」という呼び方は、イスラエルの12部族のうちレビ族を指した呼び方と考えられます。旧約聖書の出エジプト記の中で、神様はモーセを通して、12部族の中からレビ部族を選び、神様に仕える部族としました。後に、神殿に関わる全ての働きはこのレビ部族出身の者に限られたのです。

当時、ユダヤの国はローマの国に支配されていました。それゆえ、ユダヤ人はローマ政府に税金を支払わなければなりませんでした。ところが、ユダヤ人はプライドが高く、時に、ローマ政府に税金を払うことを拒み暴動を起こしていました。そこで、ローマ政府が考え出したのが取税人という仕事です。取税人はローマ政府に雇われたユダヤ人で、同じユダヤ人からローマ政府のために税金を徴収したのです。ユダヤ人は直接ローマ政府に税金を納めなくてもよくなったわけですが、ユダヤ人たちは、ローマ政府に雇われ、同じ国民から税金を集める取税人を軽蔑し、犯罪人と同じように罪人として忌み嫌ったのです。

レビ(マタイ)は、何故、そのように同じユダヤ人から嫌われる仕事についていたのでしょうか。取税人という仕事は、ローマ政府に委託された仕事ですから、彼らは、実際より多く税金を集め、自分の懐に入れ、不正な利益を得ていたのです。ですから、お金持ちになるためには最適な仕事でした。レビ(マタイ)はお金持ちになるためにこの仕事を自ら選んだのです。また、取税人になるためには、ギリシャ語ができなければなりません。レビ(マタイ)はギリシャ語が堪能であったと思われます。それゆえ、後に、ギリシャ語でマタイの福音書を書くことができたのです。

ルカの福音書5章27節を見ると、イエス様が収税所にすわっているレビに目を留めて「わたしにつきて来なさい」と言われ、28節「するとレビは、何もかも捨てて、立ち上がってイエスに従った。」とあります。はたして、イエス様とレビ(マタイ)はこの時、初めて出会ったのでしょうか。聖書にはそのことは詳しく書かれていません。しかし、想像ですが、実際は、レビ(マタイ)はイエス様のことを知っていたのではないかと思われます。少なくとも、すでに、イエス様の名は、有名になっていましたから、イエス様が誰で、何の目的でどのような活動をする人であったかは知っていたと思われます。ここで考えたいことは、イエス様の弟子になるということは自分の財産を捨てて、貧しい生活に入るということです。レビ(マタイ)は、お金持ちになるために取税人になったのです。その彼が全てを捨ててイエス様の弟子になるということは、今までの生き方を捨てて、新しい生き方に変えるということです。どれほど、大きな決断でしょうか。しかし、同時に、彼は取税人という仕事に満足していたのでしょうか。不正をしてお金を集め、同じユダヤ人から仲間はずれにされた生活。彼は、今までの生活に葛藤を感じていたのではないでしょうか。お金持ちになってはみたが彼の心には満足はありません。そんな彼に目をとめたのがイエス・キリストでした。レビ(マタイ)は、イエス様の働きを見て、イエス様のように生きたい、その思いをイエス様は知って、収税所にすわっているレビ(マタイ)に声をかけたのではないかと思います。

レビ(マタイ)がイエス様に従って、一番初めにしたことが、同じ取税人仲間を集めてイエス様を紹介したことです。「重荷」ということばがあります。個人が神様から与えられた特別な気持ちです。レビ(マタイ)は自分がイエス様の弟子になった喜びを、仲間の取税人に伝えたかったのです。また、レビ(マタイ)の知り合いは同じ取税人しかいませんでした。しかし彼は何とか、取税人仲間にイエス様を紹介し、自分と同じように、新しい人生を生きて欲しい。そう願って、友人達を招いてイエス様を紹介したのです。

そんなレビ(マタイ)の気持ちを知って、イエス様は喜んでレビ(マタイ)の招きに応じました。しかし、そのイエス様の姿を非難する人々がいました。パリサイ人や律法学者の人々です。彼らはユダヤ教の指導者で、罪人(貧しい人々)や取税人を嫌い、ユダヤ人がそのような人々と親しく交わることを禁じました。それなのに、神様の話をするイエス様が、取税人や罪人と呼ばれる人々と親しく食事をする姿を見てイエス様を非難したのです。30節「なぜ、あなたがたは取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」イエス様は彼らに答えられました。31節32節「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」イエス様は積極的に貧しい人々や、人々が恐れる、らい病人に近づいて行かれました。それは、彼らが自分の罪を認め神様の助けを必要とていたからです。しかし、自分を正しい者と主張する律法学者パリサイ人には近づきませんでした。なぜなら、彼らは、すでに自分を清いと信じ、神様の助けを必要としていなかったからです。このことを考えると、私たちがイエス様と出会うために、一番必要なことは、自分が罪人であることを、認めることが大切だということがわかります。それも、神の子イエス様を十字架につけて自分の身代わりに殺さなければ救われないほどの、罪人であることを認めるということです。

マタイの福音書22章に、王子のために結婚の披露宴を設けた王のたとえ話があります。このお話の結論に14節「招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」ということばで終わっています。ここで言われている、招待される者とはユダヤ人、特に、律法学者やパリサイ人を指しています。彼らは王の招待に理由をつけて参加しませんでした。そこで、王はしもべたちに、大通りに出て、出会った者をみな宴会に招くように命じました。しもべたちは、大通りで出会った良い人も、悪い人もみな集めたので、宴会場が客でいっぱいになりました。王が宴会場に出て行くと、婚礼の礼服を着ていない者が一人いました。王の宴会には、王の準備した礼服があり、それを着て宴会に出るのが決まりになっていました。しかし、その男は、王の準備した服を着ずに、平服で宴会に出席したのです。王は怒って彼の手足を縛って外の暗闇に放り出したとあります。ここで言われている礼服はイエス・キリストを表しています。私たちがイエス・キリストを必要としないで、自分の義で神様の前にでるなら、誰でも、外の暗闇に放り出されるので。しかし、神は私たちのために、イエス様を通して神の義を表して下しました。私たちは、その神の義をまとって天の御国へと招きいれられるのです。私たちは、神の義を必要とする罪人でしょうか。それとも、自分の義を誇る愚か者でしょうか。