イエスの復活と再臨の約束

テサロニケ人への手紙第一4章13節~18節

今日はパウロが書いた手紙を通して、イエスの復活と私たちとの関係について考えます。新約聖書にはパウロが特定の教会に送った手紙が神のことばとして収められています。なぜ、パウロが書いた手紙が神のことばとして聖書に収められているのでしょうか。
イエスは死より三日目に復活され、弟子たちにその姿を現わした後、父なる神がおられる天に昇って行かれました。その後、弟子たちに聖霊が下り教会が誕生しました。それから、教会が増えはじめ、異邦人教会(ユダヤ人ではない人が集まる教会)も誕生しました。しかし、教会が増え広がっても正しく導く指導者が少なく、福音からそれた教会や異端的な教会も増えてきました。そこでパウロはそのような教会を正しく導くために、また、教会の問題を解決するために教会に手紙を書き送ったのです。確かに、パウロの時代の教会と今の教会では状況が違います。また、教会の問題も今の私たちの教会の問題とは異なります。しかし、時代や環境は違っても、根本的には同じ問題を含んでいることが多くあります。たとえば、律法主義の問題や罪の問題などです。パウロは様々な問題を祈りつつ神の答えを求め、教会の問題に答えました。私たちは、自分たちの教会の問題を、パウロの手紙に答えを求めていくとき、聖霊の導きにより、神の御心を知ることが出来るのです。そこに、私たちが聖書を読む大切な目的があります。
1、テサロニケ教会の問題
テサロニケ人への第一の手紙4章13節から18節の問題は、イエスが再臨する前に眠った人たち(亡くなった人たち)はどうなるのかという心配です。パウロたちはイエスの再臨は自分たちが生きている間に起こるのではないかと考えていたようです。しかし、依然としてイエスの再臨はなく、仲間たちは亡くなって行きました。そこでイエスの再臨の前に亡くなった人々はどうなってしまうのかと彼らは心配したのです。パウロは彼らにこのように伝えました。4章13節「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくはありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。」「望みのない他の人たち」とは、イエスの復活を信じない人たちのことです。14節「イエスが死んで復活された、と私たちが信じているのなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。」イエスの復活はイエスだけの出来事ではなく、私たちの復活も含まれています。15節「私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。」まず、眠った人たち(亡くなった人たち)がよみがえり、その後、生き残っている私たちが天に引き上げられるという考えです。16節17節「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」18節「ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。」私たちはこの地上で亡くなって終わりではありません。確かに肉体は滅びます。しかし、イエスを主と信じる者の魂はパラダイスにあってイエスの再臨を待つことになります。そして、イエスの再臨の時、キリストにある死者が復活し、その後、生き残っている人々が天に引き上げられ、イエス・キリストと出会い、天の御国において、イエスによって復活した人々との再会があるということです。また、イエスを神の子と信じない者は、その人の犯した罪によって神の裁きを受けることになります。それが、「最後の審判」と呼ばれるものです。
2、イエスの再臨とその備えについて
5章1節「兄弟たち。その時と時期については、あなたがたに書き送る必要はありません。」その時(再臨の時)というのは、すでに教えられているので、改めて教える必要なないという意味です。2節「主の日は、盗人が夜やって来るように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。」「盗人が夜やって来る」とは、突然、思わぬ時に来るという意味です。3節「人々が『平和だ、安全だ』と言いているとき、妊婦に産みの苦しみが臨むように、突然の破滅が彼らを襲います。それを逃れることは決してできません。」旧約聖書に記されているノアの箱舟の出来事を思い出します。
イエス・キリストは、マタイの福音書25書1節~13節で、花婿を迎える10人の娘のたとえを話されました。そのうちの5人は賢く、5人は愚かな娘だと言われました。その違いは、賢い5人の娘たちは、予備の油を準備していました。しかし、愚かな5人の娘たちはその備えをしていませんでした。花婿の到着が遅れた時、賢い5人の娘たちは予備の油を準備していたので、そのまま、婚礼の祝宴に招かれました。しかし、愚かな5人の娘たちは油を買いに行っている間に戸は閉められ、祝宴に入ることが出来ませんでした。このたとえで大切な事は、花婿がいつ来てもよいように備えておくことが大切だということです。パウロはテサロニケの教会の人々にこのように教えました。5章5節6節「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません。ですから、ほかの者たちのように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」「光の子ども、昼の子ども」とはイエスを救い主と信じる者。「夜の者、闇の者」とはイエスを救い主と信じない者たちの事です。「目を覚まし」とは、先ほどの賢い5人の娘のように、イエスの再臨がいつ来てもよいように備えるということです。7節8節「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを付け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう。」「信仰と愛の胸当て」「救いの望みというかぶと」は、自分たちの行いを正しくして良い人間になるということではありません。信仰と愛の胸当ても救いの望みのかぶとも神より与えられるものです。9節10節「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです。」「永遠のいのち」とは、死んでから永遠に生きるいのちの事ではありません。永遠のいのちを持つイエス・キリストと繋がることによって与えられるいのちのことです。そういう意味では、この地上でもイエスとともに歩み、天においてもイエスと永遠に暮らすという意味です。
牧師として、何度も葬儀を執り行って来ました。クリスチャンの葬儀は終わりではなく、天国への旅立ちとして希望があります。しかし、クリスチャンではない方の葬儀は難しい面があります。遺族は亡くなられた方が天国で安らいでいることを望みます。牧師として、亡くなられた方が死んで神の裁きを受けるとは言えません。それゆえ、神様に委ねますと言います。実際、私たちは亡くなられた方がどうなるのか、神以外知ることは出来ません。はっきりしていることは、イエスを神の子と信じる者の罪は、イエス・キリストの十字架の死と復活のゆえに罪赦され、天の御国に招かれると聖書に約束されていることです。それゆえ、私たちは生きている間に信仰を告白しなければなりません。イースターはイエスの復活を喜ぶ日です。それとともに、私たちの罪が赦され、天の御国に私たちの住まいが備えられていることを喜ぶ日でもあります。死から逃れる人は誰もいません。たとえ病が癒されても、いつか死は訪れます。それゆえ、私たちの究極の喜びは、罪の赦しです。そして、そこから天の御国で暮らす喜びが与えられます。また、それだけではなく、私たちにこの祝福を与えるためにイエス・キリストは十字架の苦しみを負ってくださいました。私たちが十字架のイエスを仰ぐとき、そこに神の愛が示され、その神の愛に気づく時、私たちは平安と希望に満たされるのです。