ルカの福音書1章26節~38節
アドベントの1回目と2回目は、イエスの父ヨセフと東方の博士たちを通して、マタイが伝えた幼子イエスの誕生についてお話しました。3回目と4回目は、イエスの母マリアと羊飼いたちを通してルカが伝えたイエスの誕生についてお話します。
1、著者ルカについて
ルカはユダヤ人でもなく、またイエスと直接出会った人物ではありません。それなのになぜ、ルカはイエス・キリストの生涯、ルカの福音書を書いたのでしょうか。ルカの福音書の1章に、ルカがこの福音書を書いた目的と誰のために書いたのかが記されています。3節「私も、すべてのことを初めから綿密に調べていますから、尊敬するテオフィロ様、あなたのために、順序だてて書いて差し上げるのがよいと思います。」とあります。テオフィロはローマの高官でキリスト教に興味を持つ求道者と考えられます。ルカとは親しい関係で、ルカはこのテオフィロにイエス・キリストを紹介するためにこの福音書を書いたのです。そういう意味で、ルカの福音書はユダヤ人ではない人々にイエス・キリストを伝えるのに最適な書とも言えます。また、ルカは医者でパウロの第二回伝道旅行に同行しています。ルカは歴史家でもあり、彼はテオフィロのためにイエスの生涯を綿密に調べ、順序だててこの福音書を書き上げたのです。
2、ザカリヤとエリサベツ
ルカはイエスの誕生の前に、バプテスマのヨハネの誕生から書き始めました。それは、バプテスマのヨハネの存在がイエスの生涯に欠かせない人物だと考えたからです。ザカリヤは祭司で、正しい人であったと記されています。しかし、エリサベツは不妊の女性で二人には子が生まれませんでした。当時の女性の一番の仕事は子をたくさん産むことでした。それゆえ、不妊の女性は肩身が狭く、社会から疎外された存在でした。そして、二人はすでに年を取り、子を得る楽しみもなく、寂しく二人だけで暮らしていたのではないでしょうか。そんなザカリヤの前に主の使いが現れこのように言われました。13節~17節「恐れることはありません、ザカリヤ。あなたの願いが聞き入れられたのです。あなたの妻エリサベツは、あなたに男の子を産みます。その名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって、あふれるばかりの喜びとなり、多くの人々もその誕生を喜びます。その子は主の御前に大いなる者となるからです。彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ、母の胎にいるときから聖霊に満たされ、イスラエルの子らの多くを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼はエリヤの霊と力で、主に先立って歩みます。父たちの心を子どもたちに向けさせ、不従順な者たちを義人の思いに立ち返らせて、主のために、整えられた民を用意します。」ザカリヤは主の使いのことばを素直に信じたでしょうか。18節「私はそのようなことを、何によって信じることができるでしょうか。この私は年寄りですし、妻も年をとっています。」ザカリヤは主の使いのことばを信じることができませんでした。御使いは彼に言いました。 19節20節「この私は神の前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この良い知らせを伝えるために遣わされたのです。見なさい。これらのことが起こる日まで、あなたは口がきけなくなり、話せなくなります。その時が来れば実現する私のことばを、あなたが信じなかったからです。」ザカリヤは神に仕える祭司であるにもかかわらず、主の使いのことばを信じることができませんでした。それゆえ彼は子どもが生まれるまで、口がきけない者となってしまいました。
3、イエスの母マリア
当時の女性の結婚年齢は13歳~15歳と言われています。マリアはヨセフとの結婚を夢見る少女でした。御使いが彼女に現れ言いました。30節~33節「恐れることはありません。マリア。あなたは神から恵みを受けたのです。見なさい。あなたは身ごもって、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その子は大いなる者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また神である主は、彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その支配に終わりはありません。」マリアはこのことばにどう思ったでしょう。彼女は御使いに答えました。34節「どうしてそのようなことが起こるのでしょう。私は男の人を知りませんのに。」マリアはヨセフと婚約の状態で、まだ夫婦の関係を持っていませんでした。それなのにどうやって子を身ごもるというのか、マリアは御使いのことばを理解することができませんでした。そこで、御使いは彼女に言いました。35節「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」また、御使いは、マリアの親類のエリサベツが身ごもったことを知らせ、最後に、37節「神にとって不可能なことは何もありません。」ということばを付け加えました。マリアはそれを聞いて御使いに言いました。38節「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」マリアは御使いのことばを理解したわけではありません。自分が身ごもり神の子を産むことが神のご計画であることを信じて、御使いのことばを受け入れたのです。カトリック教会では、マリアのことを聖母マリアと呼び、マリアには罪がない(無原罪)と教えています。しかし、プロテスタント教会では、その教えを信じていません。マリアも私たちと同じ罪ある人間でした。それでも私たちがマリアを高く評価するのは、彼女の信仰です。マリアはヨセフと婚約状態にありました。もし、身ごもったことがヨセフに知れたら、自分は姦淫の罪で殺されるかもしれない。マリアにとって神のことばを受け入れれば、婚約破棄どころか、死罪の恐れがあったのです。それでも、マリアは神の計画にすべてを委ねました。その決心の背後に、御使いが語った37節「神にとって不可能なことは何もありません。」ということばがあったのではないでしょうか。
神のことばを信じて受け入れるということは難しいことです。あの神に仕えるザカリヤでも、高齢なエリサベツに子どもが生まれるという、ことばを信じることができませんでした。私たちの普段の生活では、神のことばの迫りというものをあまり感じないかもしれません。しかし、私たちは人生のどこかで岐路に立つことがあります。就職、転職、定年。結婚、病気、献身など大きな決断を必要とするとき、神のことばの迫りを感じる時があります。私が神様から献身の迫りを受けたのが、洗礼を受けて二か月後のことでした。私自身信じられませんでした。洗礼を受けて二カ月しかたっていないのに、牧師になるなど考えてもいないことでした。それでも、聖書を読むたびに、神のことばが私の心に迫って来ました。そこで、先輩のクリスチャンや牧師先生に相談しました。最終的には祈って決断しました。それでも不安がなかったわけではありません。牧師としてやっていけるのか、生活はできるのか心配でした。しかし、最終的に決断できたのは37節「神にとって不可能なことは何もありません。」という神のことばを信じる信仰だけでした。自分の力でやっていける生活では神の力を必要としません。自分の限界を超えた世界に立たされた時、人は自分の力のなさを受け入れ、神に祈り、助けを求める時、自分の力を超えた世界に踏み出すことができます。パウロはそのことを「自分の弱さを誇る」と表現しました。コリント人への手紙第二12章7節~10節「その啓示のすばらしさのため高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないように、私を打つためのサタンの使いです。この使いについて、私から去らせてくださるようにと、私は三度主に願いました。しかし主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力がわたしをおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」私たちが自分の力に頼っているとき、神は働くことができません。私たちが自分の弱さを認め、神様の御手(計画)に自分自身をささげる時、人間の知恵と力を超えた、神の恵みが現れるのです。マリアは神のことばを信じ自分の人生を神の御手に委ねました。私たちはそのマリアの信仰のゆえに彼女を信仰者として尊敬し彼女の名を高く評価するのです。