創世記4章1節~26節
先週、旧約聖書の創世記からアダムとエバについて学びました。今日は、アダムとエバの子カインとアベルを通して「礼拝について」「怒り」について学びます。
1、神を礼拝することについて
アダムとエバは、罪を犯しエデンの園から追い出されてしまいました。その後、エバは身ごもりカインを産みました。また、その後、エバはアベルを産みました。2節「アベルは羊を飼う者となり、カインは大地を耕す者になった。」とあります。二人の仕事は、父アダムから受け継いだものと考えられます。3節「カインは大地から実りを主へのささげ物として持ってきた。」4節「アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持ってきた。」とあります。それぞれ与えられた仕事から、神様へのささげ物を捧げることは、父アブラハムから教えられていたことではないでしょうか。そのささげ物に対して4節「主はアベルとそのささげ物に目を留められた。」5節「しかし、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」とあります。神はなぜ、アベルのささげ物に目を留められ、カインのささげ物には目を留められなかったのでしょうか。二人はそれぞれの働きから、ささげ物を持って来たわけですから、アベルのささげたささげ物の方が、カインのささげたささげ物より価値があったと言うことではありません。問題は、二人が神様にささげる時の気持ちにありました。聖書を見るなら4節「アベルもまた、自分の羊の初子の中から、肥えたものを持ってきた。」とあります。このことばから、アベルが神に良い物をささげようとする心を読み取ることができます。カインについては、そのようなことが書かれてありません。これは、想像ですが、カインにはアベルのような神への感謝の気持ちが欠けていたのではないでしょうか。ただ、父に言われたから、何でもいいから、その辺の作物をささげれば良いと思ったのかもしれません。神は私たちの心を見るお方です。それゆえ聖書は「アベルとそのささげ物」「カインとそのささげ物」に目を留められたと表現しているのです。神の目には明らかにアベルのささげ物には感謝の気持ちが表されており、カインのささげ物にはそれがありませんでした。それゆえ、神はアベルのささげ物に目を留められ、カインのささげ物には目を留められなかったのです。
この出来事は私たちに何を教えているでしょうか。旧約聖書の時代、人々は自分の罪の赦しのために動物の犠牲をささげました。新約の時代に入って、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして、ご自身のいのちを十字架の上でささげてくださいました。それによって、私たちは罪赦された者となり、私たちは動物の犠牲をささげる必要がなくなりました。今、私たちは礼拝、賛美、祈り、献金を神にささげる者となりました。それでは、私たちはアベルのように、感謝を持って、礼拝、賛美、祈り、献金をささげているでしょうか。パウロはローマ人の手紙12章で霊的な礼拝についてこのように教えています。ローマ人への手紙12章1節「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」2節「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるかを見分けるようになります。」とあります。ここでパウロが教えていることは、礼拝とは「自分の心を新たにしていただくこと」また「神によって自分を変えていただく」ことと教えています。そうすることによって私たちはみこころを知り、何が良いことであり、何が神に喜ばれることなのかを知ることができるということです。それゆえ、礼拝の中心は「神のことばに心を向け、その言葉を自分に対する神のことばとして心にとどめる」ことなのです。
2、怒りについて
カインのささげ物は神に受け入れられませんでした。それに対してカインはどのような感情を持ったでしょうか。5節「それでカインは激しく怒り、顔を伏せた」とあります。カインは自分のささげ物が神に受け入れられず、アベルのささげたささげ物が神に受け入れたことで、アベルに対して激しい怒りを感じました。神はカインに言われました。6節「なぜ、あなたは怒っているのか。なぜ顔を伏せているのか。」7節「もしあなたが良いことをしているのなら、受け入れられる。しかし、もし良いことをしていないのであれば、戸口で罪が待ち伏せている。罪はあなたを恋い慕うが、あなたはそれを治めなければならない。」神はカインに怒りを治めるように命じました。もし、ここで、カインが自分の間違いに気付き、悔い改めて、もう一度、神へのささげ物をささげなおしたならば、次に行われる殺人を回避することができたでしょう。しかし、カインはこの怒りを治めることができず、アベルを野に呼び出して彼を殺してしまったのです。私たちはどのようにしたら怒りを治めることができるでしょうか。カウンセリングで学んだことですか、怒りを持った時、心の中で10を数えなさいと教えられました。また、その場から離れなさいと教わりました。私の場合、怒った場合の後のことを考えるようにしています。どのような方法でも、怒りを持ち続けることは本人にとって良いことではありません。私は、怒りの言葉を飲み込んで、神に委ねるようにしています。怒りからは何も良いものは生まれません。カインは自分の人生にとって取り返しのつかない大きな罪を犯してしまったのです。カインだけではなく、怒りによって家庭を壊したり、仕事を失う人もいます。神は私たちの怒りさえ受け取ってくださるお方です。怒りを手放して神に委ねましょう。
そこで、怒りを治められず、アベルを殺してしまったカインに、神はどうされたでしょうか。神はカインに言われました。9節「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」神はカインがアベルを殺したのを知りながら、カインにこのように呼びかけたのです。このことばは、前回、罪を犯したアダムに対する悔い改めを求めた言葉と同じ意味があります。カインは自分の罪を認めて悔い改めたでしょうか。彼の答えは、9節「私はしりません。私は弟の番人なのでしょうか。」彼は自分の罪を認めて悔い改めませんでした。そこで神は彼に言いました。10節~12節「いったい、あなたは何ということをしたのか。声がする。あなたの弟の血が、その大地からわたしに向かって叫んでいる。今や、あなたはのろわれている。そして、口を開けてあなたの手から弟の血を受けた大地から、あなたは追い出される。あなたが耕しても、大地はもはや、あなたのために作物を生じさせない。あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となる。」それに対してカインは何と答えたでしょうか。13節「私の咎は大きすぎて、負いきれません。」14節「あなたが、今日、私を大地の面から追い出されたので、私はあなたの御顔を避けて隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となります。私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう。」このことばは自分の罪を認めて悔い改めたことばではありません。彼は、ただ、咎が大きすぎます、もっと軽くしてくださいと神に訴えているのです。神は彼を哀れに思い、彼が殺されないように一つのしるしを与えられました。そして、彼はさらに神から遠く離れ、ノデの地に住み着いたのです。17節から24節はカインの子孫が築いた文明です。彼らの築いた文明がすべて悪いわけではありません。しかし、神から離れ、自分たちの欲望を満たすために築いた文明は、多くの悪を生み出し、後に滅びを招くことになるのです。
25節から新しい展開が始まります。カインとアベルを失った、アダムとエバに神はセツを誕生させました。26節「セツにもまた、男の子が生まれた。セツは彼の名をエノシュと呼んだ。人々は主の名を呼ぶことを始めた。」とあります。ここに自分たちの欲望を満たす種族カインの子孫と神の名を呼ぶセツの子孫が誕生しました。しかし、この後、二つの種族が混じり合い、悪が増大し、ノアの洪水という神の裁きを招くことになるのです。