「キリストの愛を受ける者」ヨハネの福音書13章1節~17節
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、愛という言葉が三つの言葉で表されているというお話を以前いたしました。(1)フィレオーは、家族や友人との愛に用いられ、(2)エロスは男女の愛に用いられ、(3)アガペーは神様の愛で、一方方向で見返りを求めない愛の意味があるとお話しました。今日お話しするヨハネの福音書の13章のお話は、まさに、イエス様が弟子たちにアガペーの愛を最大限に表された個所です。今日は、ヨハネの福音書13章の1節から17節を通して、二つのことを学びます。一つは、前半の、イエス様が弟子たちの足を洗われたことの意味。二つ目は、イエス様が弟子たちに互いに足を洗い合いなさいと言われた意味です。
- イエス様が弟子たちの足を洗われたことの意味。
イエス様が自ら弟子たちの前にひざをかがめ、弟子たちの足を洗い始めたときの状況を頭の中で思い描いてみてください。弟子たちはどんなに驚いたことでしょう。当時、お客の足を洗うことは一番下のしもべが行う仕事でした。しかも、当時の履物は多くがサンダルであったことを考えると、弟子たちの足はかなり汚れていたものと思われます。尊敬する先生の前に自分の汚れた足を差し出すのですから、弟子としては恥ずかしい思いと、もったいないという思いでいっぱいではなかったでしょうか。ペテロはイエス様が自分の前に来られた時イエス様に言いました。6節「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」8節「ペテロはイエスに言った。『決して私の足をお洗いにならないでください。』」ペテロにしてみれば、尊敬するイエス様の前に、自分の汚れた足など出すことができなかったのでしょう。そんなペテロにイエス様は言われました。8節「もし、わたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」ペテロはこの言葉にびっくりしてイエス様に言いました。9節「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
先週、イエス様のエルサレム入城について学びました。その時に、イエス様がエルサレムに入られることは四つの福音書に描かれているが、ヨハネの福音書だけに、群衆がしゅろの木の枝を持ってイエス様を迎えたことが書かれ、それは特別な意味があったことをお話しました。実は、イエス様が弟子たちの足を洗われたことは、ヨハネの福音書にしか書かれていません。もっと言うなら、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には、最後の晩餐の場面が描かれていますが、ヨハネの福音書にはその場面は描かれていません。ヨハネがヨハネの福音書を書いたとき、すでに、共観福音書は各教会で読まれていました。ヨハネはあえて、最後の晩餐の場面を省略し、このイエス様が弟子たちの足を洗う場面を通して、最後の晩餐と同じ意味を私たちに伝えようとしたのではないかと考えられます。そういう見方でこのお話を読むと、イエス様がペテロに言われた、7節「わたしがしていることは、今はあなたがたにはわからないが、あとでわかるようになります。」ということばの意味がわかってきます。最後の晩餐の時のパンとぶどう酒はイエス様の十字架の死を表した食事でした。今の教会はそれを聖餐式として行っています。では、先ほどのイエス様が弟子たちの足を洗ったことは何を表していたのでしょうか。それは、十字架による私たちの罪の赦しです。イエス様がペテロの足を洗おうとした時、ペテロはイエス様に「決して私の足をお洗いにならないでください。」と言いました。その時、イエス様はペテロに何と言われたでしょうか。8節「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」よく言われることですが、「二千年前に十字架で殺されたイエス・キリストと、今の私とどんな関係があるのですか。」イエス・キリストが十字架に付けられて殺されたのは、過去の出来事で、現在、生きている私と何の関係があるのですかという意味です。二千年前に十字架に付けられて殺されたイエス様と、今の私たちとの関係は、罪の赦しという言葉でつながっているのです。イエス・キリストの十字架の死はすべての人の罪の身代わりの死です。「そのすべて」に、過去の人、現在の人、これから生まれる人の罪が含まれています。つまり、あなたの罪も含まれるということです。それを受け入れ、信じるか、信じないかです。また、それを信じるということは、自分の罪を神様に告白すること、これがイエス様の前に自分の汚れた足を差し出すということです。また、信じないということは、ペテロのようにイエス様のことばを拒むことで、イエス様が言われたように、イエス・キリスト何の関係も持つことができないとうことなのです。
- 互いに足を洗い合うことの意味について。
イエス様が弟子たちの足を洗ったのは、イエス様の十字架の死による罪の赦しを意味していました。また、それだけではなく、イエス様は弟子たちに互いの足を洗い合いなさいと言われました。私たちが互いの汚れた足を洗い合うことは、「互いに愛し合う」こと、「互いに赦し合う」こと、「互いに受け入れ合う」ことを意味しています。これは教会の姿とも言うことができます。教会と言えども「罪人の集まり」です。良い人ばかりではなく、色々とくせのある人々の集まりです。愛しにくい人もいるでしょう。そのような人々を、赦し合い、受け入れ、愛し合いなさいというのが、この教えの意味です。愛しやすい人を愛することはできますが、愛しにくい人を愛することは人間の力ではできません。それこそ、神様の愛、アガペーがなければできないことです。しかし、生まれつきの人間には、このアガペーの愛は備わっていません。それゆえ、イエス様を模範として学ばなければ、私たちはこのアガペーの愛を持つことはできないのです。愛されずに育った人は、人を信じ、愛することはできないと言われています。私たちは、母親に抱かれ、愛されて、初めて、人を信頼し、愛することを学ぶのです。そういう意味で、私たちは、聖書を読まなければイエス様から学ぶことはできません。また、それを知識として学ぶだけではなく、実際に、人を赦し、受け入れ、愛することによって、私たちは、アガペーの愛を身に着けていくことができるのです。