マルコの福音書12章28節~44節
先週は、イエスを陥れようと、パリサイ人とヘロデ党の者が手を結び、カエサル(ローマ政府)に税金を納めることが律法に叶っているかどうかをイエスに質問した箇所。また、サドカイ派の者たちが復活についてイエスに質問した箇所から学びました。今日はそのやり取りを見ていた、律法学者がイエスに律法について質問した箇所から学びます。
今日の律法学者からの質問は、悪意からではなく、イエスの律法に対する知識がどの程度あるのかを試すための質問でした。28節「律法学者の一人が来て、彼らが議論するのを聞いていたが、イエスが見事に答えられたのを見て、イエスに尋ねた。『すべての中で、どれが第一の戒めですか。』」「すべての中」とは律法(旧約聖書)中でと言う意味です。イエスはそれに対してこのように答えられました。29節30節「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』」この言葉は申命記6章4節と5節のことばです。また、イエスは第二の戒めとしてこのように言われました。31節「第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これよりも重要な命令は、ほかにありません。」これはレビ記19章18節のことばです。律法の中でどの戒めが一番大切な戒めであるかという議論は、当時の律法学者たちの間でも議論されていました。そして、その答えとして多くの者たちが認めていた答えが、申命記6章4節5節、そして、レビ記19章18節のことばでした。イエスの答えを聞いた律法学者はイエスにこのように言いました。32節33節「先生、その通りです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛することは、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげものやいけにえよりもはるかにすぐれています。」イエス・キリストは立派な律法の教師から学んだ者ではありません。それゆえ、律法学者たちは、イエスがどの程度律法の知識を持っているのか疑問に思っていたのです。しかし、この律法学者はイエスのこの答えを聞いて、イエスが正しい律法の知識があることを認めました。それゆえ、その後、彼らはイエスに対してこのような質問をしなくなったのです。
次に、イエス・キリスト自身から群衆に質問を投げかけました。35節36節「どうして律法学者たちは、キリスト(メシア)をダビデの子だと言うのでしょうか。ダビデ自身が、聖霊によって、こう言っています。『主は、私の主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで。」』」37節「ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるのに、どうしてキリストがダビデの子なのでしょうか。」イエス・キリストは詩篇110篇のことばを用いて、ダビデの子(子孫)とはどのような存在であるかを群衆に問いかけたのです。律法学者パリサイたちは、旧約聖書の預言を通して、キリスト(メシア)はダビデの家系から生まれると教えていました。マタイの福音書において、マタイが最初にアブラハムからイエスまでの系図を表したのは、ユダヤ人に対してイエス・キリストがダビデの家系であり、救い主(メシア)であることを明らかにするためでした。ここでイエス・キリストは「主は、私の主に言われた。」という言葉を取り上げ、ダビデがキリストを主と呼んでいるのにどうしてキリストがダビデの子なのかと問いかけました。実は、詩篇はヘブル語で書かれていますが、最初の主と言う言葉は「ヤハウェ」と言う言葉が使われ、私の主と言う言葉は「アドナイ」と言う言葉が使われています。ダビデは聖霊によって主(ヤハウェ)の他に神と同等の存在、私の主(アドナイ)と呼ばれる存在がおられることを表現したのです。イエス・キリストはこの個所を通して、ダビデの子(子孫)とは、ダビデのような王様ではなく、神と同等の権威を持った存在がメシアとしてダビデの家系から生まれることが預言されていることをこの個所から説明されたのです。旧約聖書の時代は、神は唯一(一人)であり、他の神々を認めません。そのような時代にあってイエス・キリストは神と同等の存在(神の子)がおられることをこの詩篇をとおして、人々に説明しようとされたのです。私たちは聖書全体を通して、神の性質が三位一体(父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神が一つ)であることを信じています。しかし、この時代はまだ三位一体という神の性質が明らかにされていませんでした。それゆえ、人々はイエス・キリストの話を聞いても理解できなかったでしょう。ユダヤ人たちは旧約聖書の預言を信じローマ政府から、ユダヤの国を独立させるダビデ王のようなメシア(救い主)を待ち望んでいたのです。
ルカによる福音書では、第二の戒め「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」とイエスが言われた言葉に対して、律法学者が「私の隣人とは誰のことですか。」とイエスに問いかけています。それに対してイエスは「良きサマリヤ人」のたとえを話されました。このたとえ話で、半殺しにされて倒れている人を見た祭司、レビ人は彼を助けず、反対側を通って行き、サマリヤ人が彼を助け介抱しました。祭司、レビ人は神に仕える人々です。道端で死んだ人は、彼らにとって汚れた人でした。そして、彼らにさわることは、自分が汚れを受けることになります。彼らは、自分の清さを守るために、あえて、反対側を通って行ったのです。このたとえ話は、彼らの姿を表した例え話で、彼らは、知識としては隣人を愛することを知っていましたが、実際には、貧しい人、病人から距離を置いて、自分を清く守るために罪人と呼ばれる人々に近づこうとはしませんでした。38節~40節はそのような宗教指導者の偽善をイエスは厳しく批判されたのです。また、41節から44節には、献金について書かれています。お金持ちは有り余る中から献金していましたが、この貧しいやもめは、レプタ銅貨をささげました。イエスはそれを見て、彼女が誰よりも多くささげたと言われました。確かに、金額で言えば、裕福な者の方が多くささげました。しかし彼女は貧しい中から、持ているすべてを、生きる手立てのすべてをささげたのです。神は、献金の金額ではなく、ささげる人の心を見られます。彼女は生活費のすべてをささげました。イエスはその彼女の神に信頼する信仰を見て、誰よりも多くささげたと言われたのです。第一の戒め「心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして主を愛する」とは、全身全霊をもって神を愛することだと教えられました。神と富の両方に使えるのではなく、神だけに信頼した生活それこそが、神を愛する者の姿です。彼女はまさに神に信頼する女性だったのです。
私たちは洗礼を受ける時に三位一体について学びます。三位一体と言う言葉は、旧約聖書でも新約聖書でも見ることはできません。神の性質、三位一体とは、聖書全体から導き出された神の姿です。旧約聖書は唯一の神だけを礼拝するように教えています。新約聖書では、イエスと聖霊も神と表現されています。旧約聖書の教えを信じるなら、イエスも聖霊も神とは受け入れられません。しかし、イエスが神(神の子)でなければ、私たちの罪の身代わりとなることはでず、私たちの救いは完成されません。また、父なる神と子なるキリスト、聖霊なる神を信じるならば、私たちは旧約聖書の教えを否定することになります。しかし、イエスは旧約聖書を神のことばと信じていました。この旧約聖書と新約聖書を結ぶ鍵が三位一体という神様の性質です。神は唯一ですが、その神の中に「父なる神、子なるキリスト聖霊なる神」が、調和をもって存在している。これが三位一体という教えです。その神の子なるイエス・キリストが、神の栄光の姿を捨てて、人として誕生してくださいました。それがクリスマスの出来事です。また、その神の子が私たちの罪の身代わりとして十字架の上でいのちを犠牲にしてくださいました。それが十字架の贖いです。また、イエス・キリストは神の子ゆえに死より三日目に復活して天に昇って行かれました。それが、復活祭イースターです。キリスト教の初期の異端にグノーシス主義というグループがおり、彼らは神が人として生まれたことを否定しました。彼らの考えは、イエスが洗礼を受けたときに、神がイエスに宿り、十字架で苦しみを受ける時に神はイエスから離れて天に昇られたと教えました。彼らは神が肉体をもって私たちと同じ姿で生まれたことを否定したのです。神の子イエスが肉体を持って生まれてくださったのは、神の奥義です。人間の知恵では理解できない奇蹟です。イエスが肉体をもって生まれたということは、私たちと同じ苦しみを体験されたということです。十字架にくぎ付けされたとき、イエスはどれほどの痛みを感じられたでしょうか。私たちが神の子と信じるイエス・キリストは、私たちを罪の刑罰から救うために人として生まれてくださり、私たちの罪の身代わりとして十字架の上でいのちを投げ出してくださいました。もし、神の子のいのちがささげられなくても、人間の努力、他の方法で救いが得られるなら、キリストは人として誕生されたでしょうか。十字架で死なれたでしょうか。私たちの罪が赦されるためには、神の子のいのちが必要でした。それゆえ、父なる神は一人子をこの地上に遣わされ、イエス・キリストは十字架の上でいのちを犠牲にされたのです。神が人として誕生し、十字架の上でご自分のいのちを犠牲にされたことは、神の奥義です。人間の知恵では理解できないことです。私たちが自分の罪に向き合い、自分の罪の大きさに気付いた時はじめて、神がなしてくださった大きな恵みに気が付くことができるのです。