「モーセの死と召天」申命記34章1節~8節
モーセの人生を三つに分けて学んでいます。今日は、80歳から亡くなるまでの40年を考えます。モーセは80歳の時に神様と出会い、イスラエルの民(男性だけで60万人)をエジプトでの苦しみから解放し、神様がアブラハムの子孫に約束されたカナンの地に導くように命じられました。モーセは、エジプトの王パロと交渉しますが、エジプトの王はそうは簡単にイスラエルの民がエジプトから出ることを許可しませんでした。モーセは、エジプトに対して10の災害を与え、エジプトの王はしぶしぶ、イスラエルの民がエジプトを離れることを許可しました。しかし、その後すぐにエジプトの王は心を変えて、イスラエルの民に軍隊を差し向けました。前はエジプトの軍隊、後ろは紅海とイスラエルの民は逃げ場を失いました。その時、神様はモーセに持っている杖を紅海に指し示すように命じました。すると波が二手に分かれ、海の乾いた地が現れ、イスラエルの民はその乾いた地を通って対岸へと逃げて行きましたが、イスラエルの民を追って海の乾いた地に入ったエジプト人は波に呑まれて大きな被害を受けました。
紅海を通って、荒野に入ったイスラエルの民ですが、ここで、水がない、食べ物がないとモーセに不満を表しました。モーセはイスラエルの民の不満のために、神様に祈りました。神様はモーセの祈りに応え、多くのうずらを呼び寄せ、イスラエルの民の食物としたり、岩から水をあふれ出すなどして、イスラエルの民を養いました。また、神様は毎日、マナという不思議な食べ物を40年の間、与え続けたのです。それほどの、奇蹟を体験しても、イスラエルの民の神様への不満は無くなりませんでした。モーセはイスラエルの民のリーダーとしてイスラエルの民の不満を受ける者となり、また、その不満に耐えなければなりませんでした。しかし、ついに、モーセの怒りは爆発し、神様が岩に命じて水を出すように命じられたのに、モーセは怒って岩を叩いて水を出してしまいました。結局、この失敗のゆえに、神様はモーセにカナンの地に入ってはならないと言われたのです。
申命記は、モーセのイスラエル民に対する遺言の書と言われています。この申命記が書かれた時は、イスラエルの民がカナンの地に近づいた時です。そこで、申命記の前半は、イスラエルの民がどのようにしてここまで来たのかが書かれています。それは、初期の時代、イスラエルの民が、神様の命令に従わなかったために、この40年の間に当時の大人はヨシュアとカレブ以外は死に絶え、当時の子供たちが成長し、新しい民族となっていたからです。後半は、モーセが自分の亡き後に残されるイスラエルの民に対して、遺言として教訓を与えている場面です。モーセの心配は、自分が亡くなった後、イスラエルの民がカナンの地を占領した後、神様から離れ、カナン人たちの神々を拝むことでした。そのために、もう一度神様の命令を思い出させ、こうしてはならない、ああしてはならないと戒めを与えているのです。
「終活」ということばが使われるようになりました。私たちが亡くなるための準備の活動を言います。主に、遺言について。財産をどうするか。また、身辺の整理。医療について、延命処置を望むか、望まないか前もって家族と話し合うことは必要なことです。また葬儀についても、どのような葬儀を望むか家族と話し合っておく必要があります。
また、自分が亡くなった後、魂がどこに行くのかを知ることは、最後を迎えるにあたって大切なことです。死んで肉体も魂もなくなるのか、それとも、地獄か天国か、誰しも天国に行きたいと考える者です。では、どうすれば天国に行けるのでしょうか。様々な宗教が、死後の世界について説明しています。仏教では、輪廻転生を教えます。輪廻転生とは、亡くなった者はすべて、六道(六つの世界)に生まれると教えます。六つの世界とは、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道。良いことをすれば天道、または、人間道に生まれますが、悪いことをすれば、修羅道、畜生道、餓鬼道に生まれ、人を殺すなどの極悪人は地獄道に生まれると教えられます。また、天道は天国ではなく、いつか寿命が尽き、また、生まれ変わりを繰り返さなければなりません。輪廻の教えは、人がこの六道を繰り返すと教えます。また、仏陀はこの輪廻から抜け出し(解脱)して悟りを開いたと言われています。日本に仏教が伝えられ、念仏仏教が生まれました。それは、「南無阿弥陀仏」と唱えることによって、阿弥陀の世界(極楽)に迎えられるという教えです。以前もお話したように、阿弥陀は実在の人物ではありません。しかし、人間の力によらず、仏(阿弥陀)に頼って極楽へ行くというのは、キリスト教の救いに近い教えと言えます。神の子キリストが人として生まれ、十字架で死ななければ、仏教の教えも人の心の慰めにはなります。しかし、神は歴史的事実として、神の子を人として生まれさせ十字架の上で命を取られました。そして、キリストは三日目に復活して天に昇って行かれたのです。イエス・キリストは言われました、「わたしを信じる者は、その者の罪を赦し天の御国に住まいを備える」と。私たちに与えられた約束は、人間が考え出した救いの方法ではなく、神ご自身が、ご自身の犠牲を払われ、また、イエス様は、ご自身のいのちを差し出して、完成された救いの道です。
モーセは最後、神様が約束された地カナンに入ることはできませんでした。しかし、神様は、ピスガの丘からモーセにカナンの地を見せてくださいました。人間的な思いでは、モーセがカナンの地に入ることができなかったことは残念に思いますが、神様は、カナンの地よりさらに優れた天の御国にモーセを導き入れてくださったのです。その場所は、どんなに素晴らしい場所でしょう。カナンの地とは比べられないぐらいです。また、神様は私たちのためにもその天の御国で住まいを備えてくださっていると約束して下さいました。私たちがどんな人生を送ろうとも、また、どんな最後を迎えるとしても、その先に希望があります。私たちは死んで、餓鬼道や畜生道、まして地獄道に行くのではなく、天の都、天の御国に行きます。それは、どんなに祝福でしょう。また、その天の御国は、努力して入るものではなく、神様からの一方的な恵みです。だれでも、イエス様を神の子と信じる者に与えられる神の恵みです。私たちは最後まで、この神様の約束を信じて、天の御国目指して歩み続けたいと思います。