律法学者の教えとイエスの教え

マルコの福音書2章18節~28節

先週は、イエスが中風の人を癒すことによって、イエスは、人の罪を赦す権威が神より与えられた者であること、神の子であることを証明されました。今日は、イエスの教えと律法学者たちの教えの違いについて学びます。律法学者たちは、旧約聖書を神のことばと信じて、熱心に旧約聖書を研究しました。また、彼らはその戒めをどのようにしたら守れるかを研究し、神の戒めを守るために、さらに多くの戒めを考えだし、人々に守るように強制しました。その結果、神の戒めに加え、彼らが定めた戒めが膨れ上がり、当時の人々は多くの戒めを守るために、苦しめられていました。イエスのお話は旧約聖書を基にしたお話で、イエスは旧約聖書が神のことばであることを否定されたわけではありません。イエスが否定されたのは、律法学者たちが作り上げた戒めであり、彼らの旧約聖書の間違った理解を批判されたのです。

1、断食について(マルコの福音書2章18節~22節)

マルコの福音書2章18節から、断食について論じられています。18節「さて、ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは、断食をしていた。」とあります。旧約聖書の中では、モーセのように、ある目的のために断食したことが記されています。また、イエスも公の働きを始めるために40日断食されました。このよに、イエスは断食をすることを否定はしていません。ここで、人々がイエスに言われた断食とは、律法学者たちが定めた断食のことと思われます。彼らは自分たちの敬虔な姿を示すために、週に二度断食の日を定めていたようです。この事は旧約聖書に定められた神の戒めではありません。律法学者たちが勝手に定めた戒めです。それゆえ、イエスも弟子たちもそのような戒めに従って断食をしていなかったということです。しかし、バプテスマのヨハネやその弟子たちは律法学者が定めた断食の日を守っていました。また、イエスはなぜ、自分と弟子たちが今は断食をしないのか、二つのたとえ話を通して説明されました。

(1)結婚式のたとえ(19節20節)

 19節「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。」20節「しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします。」と言われました。ここで言われている「花婿」とはイエス自身を指しています。つまり、神の子であるイエスが弟子たちといる間は、断食する必要はないが花婿が取り去れるとき、イエスが十字架で殺された後、弟子たちも断食するという意味です。

(2)新しいぶどう酒と皮袋のたとえ(21節22節)

 21節「だれでも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。」22節「まただれでも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものです。」この二つのたとえ話に共通することは、新しいものを古いものと一緒にすることはできないという点です。新しいぶどう酒は発酵して、膨張するため、弾力性のある新しい皮袋に入れなければなりません。古い皮袋は伸縮性がないために敗れてしまうからです。ここで言われている古い皮袋とは、ユダヤ教の古い教えを指しています。バプテスマのヨハネの教えは、古いユダヤ教の教えに新しい教えを加えたような教えでした。それゆえ、その教えは、両方をだめにしてしまいます。イエスの新しい教えは新しい皮袋(キリスト教)として、ユダヤ教と切り離して教えるべきだと言われたのです。実際、イエスが天に召されてからも、キリスト教はユダヤ教の一宗派とみられていました。ユダヤ教から離れて、キリスト教として独立して見られるようになるのは、異邦人教会が誕生し始めてからのことなのです。

2、安息日と礼拝(マルコの福音書2章23節~28節)

マルコによる福音書2章23節からの議論は、安息日は何のためにあるのかという議論です。23節「ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた。」24節「するとパリサイ人たちがイエスに言った。『御覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。』」ここで彼らは、イエスの弟子たちが他人の畑に入って穂を摘んで食べ始めたことをとがめたわけではありません。旧約聖書の教えの中で、他人の畑に入って穂を摘んで食べることは許されています。ここで、彼らが弟子たちをとがめたのは、安息日に仕事をしてはいけないと咎めたのです。パリサイ人は、弟子たちが穂を摘んで食べ始めたことを労働と認定し、安息日に働いていると彼らを罪に定めたのです。このように、彼らは神の戒めを細かく定義して、人々の生活を苦しめていました。イエスは、ここで安息日の意味について旧約聖書からお話になられました。25節「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて、空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。」26節「大祭司がエブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人がたべてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにもあたえたか、読んだことがないのですか。」この個所は、ダビデがサウル王に命を狙われ、彼から逃れるために祭司の町ノブに行き、ダビデと供の者たちが空腹のときに、祭司とその家族以外が食べてはいけない、臨在のパンを祭司より与えられ、ダビデたちがそれを食べたという出来事です。このとき、ダビデと供の者たちが口にすることが出来たのはこのパンしかありませんでした。祭司はそのパンをダビデたちが食べてはいけないパンであることを知っていながら、彼らに提供したのです。神はそのことを容認されました。なぜなら、27節「そして言われた。『安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。』」安息日は何のために設けられたのでしょうか。安息日の起源は創世記の2章にあります。創世記2章1節~3節「こうして天と地とその万象が完成した。神は第七日、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。」神はすべての創造を六日間で完成されました。そして、神は翌日の七日目を休まれ、人間を祝福するためにその日を設け、聖なる日とされたのです。ユダヤ人は、この日を安息日と定め、神が休まれた日であるから、一切の仕事をしてはならないと定めました。そして、律法学者たちは、金曜日の日没から土曜日の日没までを安息日と定め、土曜日を神を礼拝する日と定めたのです。安息日は、神が人間を祝福するために設けられましたが、律法学者たちは、一切の労働を禁じ、人々の生活を圧迫してしまったのです。本来、安息日は神が人を祝福するために設けられたのです。それゆえ、神は人の祝福を第一に考えられるという意味です。また、特に、イエスは神の子ですから、イエスに仕える弟子たちの必要も神が備えて下さるという意味です。安息日は神を礼拝する日と定めたことは間違いではありません。神は私たちを祝福するために、創造の技を休まれ、その日を聖と定められました。それゆえ、私たちは神の前に集い、神から祝福を受けるために礼拝をささげているのです。

パウロはローマ人の手紙12章で、霊的な礼拝について教えています。礼拝で一番大切なことは神の御ことばに耳を傾けるということです。耳を傾けるとは、聞いて終わりではありません。心にとどめるということです。今日、語られる御ことばが、過去のお話や群衆に対するものではなく、自分に語られることばとして心にとどめるという意味です。例えばマタイの福音書6章24節「だれでも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで、他方を愛するようになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とにつかえることはできません。」という御ことばが語られたとします。その時、自分の生活を顧みて、知らない間に、神よりも仕事や自分の思いを優先していないかを顧みるということです。そしてもう一度、神中心の生活に立ち返ることです。この世は、神の教えに逆らい、私たちを神から引き離そうとしています。それゆえ、私たちは、毎週日曜日、神を礼拝し、御ことばに耳を傾け、御ことばに従って歩むことで、毎週、神の祝福を自分の物とすることができるのです。聖書は、私たちにとって鏡のような働きをします。私たちは、鏡を見なければ、自分の姿を見ることはできません。それゆえ、鏡を見て私たちの姿を整えるように、聖書のことばに従って自分自身の信仰を整えることが出来るのです。また、聖書は私たちの生きる基準でもあります。定規が正しく刻まれていなければ、何を作るにも正確には作ることはできません。定規が正確に刻まれているゆえに、私たちは、正確に測り、正しく物を作ることが出来ます。そのように、物を測る基準がずれていれば、すべてがずれてしまいます。それゆえ、私たちの生活が聖書を基準に生きるなら、自然と神の御心に従って生きることが出来るということです。聖書は、神が私たちを祝福するために与えてくださったものです。私たちは聖書を神の誤りない言葉と信じるとき、神の祝福を受けることが出来るのです。