人の罪を赦す神の権威

マルコの福音書2章1節~17節

マルコの福音書1章40節~45節で、イエスがツァラアトに冒された人をきよめられた、癒されたお話をいたしました。当時の人々はツァラアトに冒されるということは、罪を犯して神より罰が与えられたと考えられていました。それゆえ、神によって罪が赦される、きよめられなければ、この病は癒されないと考えられていました。また、この病が癒された、きよめられたなら、祭司に見せて、きよいと宣言がなされ、律法に定められた供え物を神にささげることによって、社会復帰することができる決まりとなっていました。この出来事で、マルコが私たちに伝えようとしたのは、イエスがツァラアトに冒された人を癒す、きよめることによって、イエスに神と同じ権威が与えられていることを伝えようとしたのです。

1、中風を癒すイエス・キリスト(マルコの福音書2章1節~12節)

マルコの福音書2章1節から12節で、イエスが中風の人を癒すお話が紹介されています。この出来事は、マタイの福音書、ルカの福音書にも紹介されています。このお話の中心は、イエスに神と同じ人の罪を赦す権威があるかないかの問題です。この事は、先のツァラアトに冒された人をきよめる権威がイエスのあるかどうかの問題と同じです。イエスは、ツァラアトに冒された人を癒すことによって、罪を癒す、きよめる権威が神から与えられていることを証明されました。ただ、この時イエスは、彼に、祭司に見せて、律法に定められた供え物をささげるように命じています。イエスは、あえて自分の力を隠すように、彼に、自分のこと(イエスのこと)は明かさず、旧約聖書の戒めに従うように命じられました。今日の箇所で大切なことは、明らかに、イエスは、律法学者たちの前で、ご自分に与えられた権威「人の罪を赦す」権威が自分に与えられていることを示したことです。ここに登場する「中風」という病は、今の「脳卒中」にあたる病で、脳の障害により体が麻痺した病のことです。当時の人にとって「中風」という病は、ツァラアトに冒された人と同じように、神によって罰が与えられ、体が麻痺したと考えられていました。それゆえ、この病が癒されるということは、罪が赦されたことを意味していました。彼を床に乗せてイエスの所に運んできた四人の友人たちは、イエスのうわさを聞いて、イエスならこの病を癒すことが出来るのではと信じて、彼をイエスの所に運んできたのです。しかし、イエスの周りにはすでに、多くの人々が集まっていて、イエスの所に運ぶこともできませんでした。そこで、四人は屋根に上り、屋根の一部をはがして、病人をイエスの前につり下ろしたのです。当時のイスラエルの屋根は、わらに土を混ぜて踏み重ねた物を用いていたため、簡単にはがすことが出来ました。また、各家には屋根に上る階段が取り付けられ、簡単に屋根に上ることが出来ました。それにしても、天上から床がつり下ろされ、イエスの前に置かれた時は、人々も驚いたことでしょう。5節で「彼らの信仰を見て」とあります。彼らの信仰とは、イエスのもとに彼を連れてくるならば、イエスが必ず治してくださるという信仰のことです。イエスは中風の人に言いました。5節「子よ。あなたの罪は赦された。」ところがこれを聞いた律法学者たちは、心の中であれこれ考えたとあります。別の訳では「憤慨した」ともあります。彼らは心の中で考えました。7節「この人は、なぜこのようなことを言うのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか。」彼らの考えは正しく、一般的に、罪を赦すのは神の働きであり、人が勝手に「あなたの罪が赦された」と宣言することは、神を冒涜する行為と考えられていました。イエスは彼らに言われました。9節「中風の人に『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。」言葉だけで「あなたの罪は赦された」と言うことは簡単なことです。しかし、「起きて、寝床をたたんで歩け」と言っても、実際に彼が立ち上がれなかったら、イエスに人を癒す、赦す権威がないことがすぐにばれてしまいます。それゆえ、イエスは10節「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために・・・。」そう言って、中風の人に言われた。11節「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい。」すると彼は立ち上がって、すぐに寝床を担ぎ、皆の前を出て行ったとあります。また、皆は驚いたとあります。これによって、イエスが神の子であり、人の罪を赦す権威が与えられていることが証明されました。しかし、これによって、イエスと律法学者たちとの対立が深まっていったのです。

2、罪人を招くイエス(マルコの福音書2章13節~17節)

この個所も、マタイの福音書、ルカの福音書に登場する出来事です。しかし、ここに登場する取税人をマルコとルカは「レビ」と呼んでいます。マタイの福音書だけが「マタイ」と記しています。「レビ」とは、十二部族の一つ、レビ部族に属する人と言う意味と考えられます。マタイはここで自分のことを紹介し、イエスを自宅に招いて宴会を開いたのです。その際、自分の友人たちである、取税人仲間を集め、イエスを彼らに紹介したものと考えられます。しかし、それを見ていた、パリサイ派の律法学者たちは、イエスが取税人や罪人たちと宴会騒ぎをしているのを見て、憤慨して弟子たちに言いました。16節「なぜ、あの人は取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」ここで言われている「罪人」とは犯罪人のことではありません。律法を守れない貧しい人々を律法学者たちは彼らを蔑んで「罪人」と呼んでいたのです。律法学者たちは、人々に、ローマ政府のためにユダヤ人から税金を集める取税人や律法を守れない罪人たちと交わったり、一緒に食事することを禁じていました。それゆえ、律法学者たちはイエスを非難して「なぜ、彼らと食事するのか」と弟子たちに言ったのです。イエスは彼らに言われました。17節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」これは、イエスが人としてこの地上に来られた目的を表したものです。当時のパリサイ人律法学者たちは、律法(神の戒め)を守ることによって正しい人間となり、天の御国に迎えられると信じていました。それゆえ、彼らは律法を研究し、どうすればその律法を守れるのか議論していました。それゆえ、彼らは自分の罪を認めることなく、自分は正しい人間であることを誇っていたのです。しかし、バプテスマのヨハネもイエスも救われるために第一になすことは、自分の罪を認めることで、次に、自分の罪が赦されるために洗礼(バプテスマ)を受けることだと教えました。しかし、律法学者たちは、イエスの言葉に耳を傾けることなく、イエスを捕らえ、神を冒涜した罪で、十字架に付けて殺してしまったのです。しかし、それも神の計画でした、イエスは死より三日目に復活され、私たちの救いを完成され、天に昇って行かれました。そして、神は、イエスを神の子と信じる者の罪は、イエスの十字架によって罪赦された者となり、天の御国に招かれると約束してくださいました。大切なことは、イエスをだれと信じるかということです。イエスが私たちと同じ人間なら、私たちの罪を赦すことはできません。私たちも律法学者たちと同じように、正しい人間になることに一生懸命に努力しなければいけないことになります。しかし、聖書はそのように教えていません。聖書は明確に、イエスは神の子、神と同じ権威を持ったお方であると紹介しています。そして、その神の子イエスが、私たちの罪の身代わりとして、十字架でご自身のいのちを、犠牲にされました。大切なことは、イエスを神の子と信じ、その約束を信じることです。私たちは、生きている間に、この決断をしなければいけないのです。