「神の愛を受け取るには」ヨハネの福音書3章16節 2022年2月13日
2月14日は、ヨーロッパやアメリカ、日本、韓国などでもバレンタインデーとして大々的に行われるイベントとなっています。日本では、女性が男性にプレゼントをし、愛を告白する日となっています。今日は、「愛」ということばについて共に考えましょう。
1、親の愛「フィレオー」
新約聖書が書かれた時代、「愛」という言葉がギリシャ語で三つの単語で表されていました。男女の愛を「エロス」。家族、兄弟愛を「フィレオー」。神の愛を「アガペー」。男女の愛は移ろいやすく、感情に支配されやすい愛で、状況やその時の気分で大きく変わります。また、見返りを求める愛ではないでしょうか。それに比べ、「フィレオー」と「アガペー」は見返りを求めない愛としては似ている点があります。親が子を愛するのは、子どもが優秀だから、良い子だから愛するわけではありません。ことわざに「馬鹿な子ほどかわいい」言いますが、親の愛とはそういうものではないでしょうか。ルカの福音書15章にイエス様が語られた「放蕩息子」のたとえ話があります。ある人に、二人の息子があり、弟息子は、父より財産を受け取ると、遠くに旅立ってしまいました。彼は、そこでもらった財産を使ってしまい、食べるのも困る状態に追い込まれてしまいました。彼は、そこで、父のもとで豊かに暮らしていた時のことを思い出し、父のもとに帰る決心をしました。しかし、弟息子がまだ家から離れているときに、父が彼を見つけ、走り寄って彼を抱きしめたとあります。なぜ、息子がまだ、家から遠かったのに、父は弟息子を見つけることができたのでしょうか。それは、父が弟息子の帰りを待ちわびていたからです。これは、想像ですが、父は弟息子が家を離れる時、このような状況になるのを予想していたのではないでしょうか。しかし、止めても、弟息子は言うことを聞かないことを知っていたので、父はそのまま弟息子を送り出したのではないかと思います。それゆえ、父は心配して、弟息子がいつ帰ってきてもいいように、外に出て、毎日、待ち望んでいたのです。イエスは、このたとえ話を通して、神の愛の深さを表現されました。私は、子どもを得るまで、父の気持ちを理解できませんでした。結婚する前、父のような人間にはなりたくないと思っていました。しかし、結婚して、こどもが生まれることによって、親にとって、子どもがいかに大切な存在であるかを理解しました。それと共に、実は、私の父も私のことを愛していたことを、子どもを得て初めて気が付いたのです。そのように、子どもの時は、自分の事しか考えないで、親の気持ちがわかりません。子どもを得て初めて、人は、親の愛情に気付く者ではないかと思います。
2、神の愛「アガペー」
では、私たちはどのようにして、神の愛に気付くことができるのでしょうか。神の愛とは、神がわたしたちの祈りを何でも叶えてくれると言うことではありません。また、神を信じることによって病がいやされるとか、お金持ちになれると言うことでもありません。神の愛は「イエスの十字架の死」によって表されました。イエス・キリストは人が努力して、又は、悟りを開いて神のようになった方ではりません。その逆で、イエス・キリストは神、神の子が人となられたお方です。なぜ、神の子が人となる必要があったのでしょうか。イエス・キリストは十字架に付けられて殺されるために、人として誕生してくださいました。なぜなら、神は死ぬことができないからです。イエス・キリストの誕生の目的は、私たちの罪の身代わりに死ぬために誕生されたのです。聖書には、すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることばできないと記されています。それは、すべての人は罪を犯したので、天の御国に入ることができないと言う意味です。私たちは、どんなに努力しても罪を犯さないで生きることはできません。また、一度でも罪を犯した者は罪人として罰を受けなければならないと聖書にあります。では、私たちはどうしたらこの罪の問題を解決することができるでしょうか。ユダヤ人たちは律法(神の戒め)を守ることによって神の前に、罪のない者として立とうと努力しました。しかし、人間の力では、完全に律法を守ることはできません。そこで、神は、ご自分のひとり子イエス・キリストを人として誕生させて、私たちの罪をイエス・キリストに背負わせ、私たちの罪の身代わりとして、十字架の苦しみを負わせ、いのちを取られたのです。神は、イエスを神の子と信じ、イエスの十字架の死が、自分の罪の身代わりであると信じる者の罪を赦すと約束してくださいました。また、イエスは神の子ゆえに、死より三日目に復活して、天の父のもとに昇って行かれ、今も神と共に生きておられます。それゆえ、私たちが神の愛を知るためには、自分の罪の大きさが分からないと神の愛を理解することができません。分かりやすくお金で罪を表すなら、100円程度の罪が赦されても、人はそれほどありがたいとは思わないでしょう。まして、感謝することはないでしょう。しかし、1億円の罪が赦されたなら、その人はどんなに感謝することでしょう。それゆえ、私たちの罪の自覚の大きさが大きな判断となるのです。
「放蕩息子」のたとえ話で、イエスが私たちに伝えようとされたのは、神の大きな愛です。私たちは自分のこどものためには、自分のいのちも犠牲にするほどの愛は持っています。しかし、他人のためにはどうでしょうか。さらに、罪を犯した犯罪人のために自分のいのちを犠牲にする人がいるでしょうか。罪を犯したのは私たち人間です。本来、自分の犯した罪は、自分で罪を償わなければなりません。しかし、私たちの罪は、神の前に膨大なものとなり、自分の力では、償うことができないものになってしまいました。それゆえ、神は、私たちが滅びるのを、そのままにしておくことができなかったので、ご自分のひとり子、イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとされたのです。神が罪人を助けるために、ご自分の大切なひとり子を犠牲にされるなど、人間の知恵では理解することはできないできごとです。しかし、神は、私たちの罪を通して、また、聖書のことばを通して、そのことを私たちの心に働きかけてくださるお方です。ローマ人の手紙5章7節8節「正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ、罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」神の愛は「イエス・キリストの十字架」によって表されました。私たちは、自分の罪の重さがわかる時、この素晴らしい神の愛を受け取ることができるのです。