士師記から私たちが学ぶこと

士師記2章6節~23節

創世記の12章において、神はアブラハムに現れ、親族から離れ、私が示す地へ行くなら、あなたを大いなる国民とし、あなたを祝福すると約束してくださいました。アブラハムは75歳にして、神の約束を信じてカナンの地へ向かいました。しかし、カナンの地に着いてみると、そこにはすでにカナン人が住んでおりました。神はその地に着いたアブラハムに言われました。創世記12章7節「主はアブラムに現れて言われた。『わたしは、あなたの子孫にこの地を与える。』アブラムは、自分に現れてくださった主のために、そこに祭壇を築いた。」とあります。また、神は創世記15章13節から、このような預言のことばをアブラハムに言われました。創世記15章13節~16節「主はアブラムに言われた。『あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものではない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる。しかし、彼らが奴隷となって仕えるその国を、わたしはさばく、その後、彼らは多くの財産とともに、そこから出て来る。あなた自身は、平安のうちに先祖のもとに行く。あなたは幸せな晩年を過ごして葬られる。そして、四代目の者たちがここに帰って来る。それは、アモリ人の咎が、その時までに満ちることがないからである。』」神の祝福は、アブラハムからイサクへと受け継がれ、その子ヤコブへと受け継がれました。そして、アブラハムに約束されたように、ヤコブの家族70名がエジプトに移住し、先にエジプトで生活していたヨセフの家族と共にエジプトの地で増え広がりました。それから、ヨセフのことを知らない王がエジプトに誕生したとき、エジプトの王はイスラエルの民を恐れ、苦役で彼らを苦しめました。そして、イスラエルの民が神に助けを求めると、神はモーセを誕生させ、彼を通して、イスラエルの民をエジプトから助け出されました。その時、イスラエルの民は男性だけで六十万人と記されています。また、彼らは、荒野を四十年さまよい歩き、ヨシュアによってカナンの地を攻め取ったのです。神がアブラハムに約束したように、アブラハムの子孫にカナンの地は与えられたのです。

しかし、彼らの支配は完全な支配とはなりませんでした。神はモーセを通して、カナンの住民を聖絶するように命じています。また、ヨシュアはカナン人と関係を持ってはいけないとイスラエルの民を戒めています。それは、イスラエルの民がカナンの住民と親しくなることによって、イスラエルの神を捨て、カナン人の神々を礼拝することを恐れたからです。しかし、士師記1章を見るなら、イスラエルの民は、カナン人やその他の民族を滅ぼすことができなかったと記しています。また、先ほどの士師記2章を見るなら、ヨシュアの死後、次の世代の者たちは、バアルやほかの神々に仕えたとあります。神はイスラエルの民を怒り、周りの国々から、イスラエルの民を攻めさせました。イスラエルの民は苦しみの中、神に助けを求めると、神によって遣わされた人「士師」が現れ、イスラエルの民を苦しみから助け出しました。しかし、その士師が亡くなると、イスラエルの民は、また、ほかの神々を拝むようになってしまいました。そこで、神はまた、外敵によってイスラエルの民を苦しめました。そこで、イスラエルの民は、また、神に助けを求めました。神は、イスラエルの民をあわれみ、また、「士師」によってイスラエルの民を助けますが、また、「士師」が亡くなると、ほかの神々を礼拝するという悪を繰り返しました。それが士師記の歴史です。結局、士師記の最後は、同じ部族で戦い合うようになり、泥沼状態に陥ります。士師記の最後のことばは25節「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」とあります。この状態からイスラエルの民を救ったのが、サムエル記に登場する預言者サムエルで、彼によってサウル王、ダビデ王が任命され、一つの統一された王国が誕生したのです。

士師記の支配は、十二部族による共同統治で一つの国に統一されていませんでした。また、士師の働きも、地域的な戦いも含まれています。それゆえ、聖書の記述の年代は重複した年代と考えられます。また、士師記には十二名の士師が登場しますが、全部が詳しくその働きが記されているわけではないので、その中から有名な士師を選んでお話をしていきます。

1、神の約束は必ず実現する

士師記全体から、私たちが学ぶことは、神は約束されたことを必ず成就されるということです。神は子どものいない、アブラハム75歳、妻サラ65歳に、あなたの子孫にカナンの地を与えると約束してくださいました。神は約束した通り、アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブから十二部族が生まれ、エジプトで一つの国民として成長させ、カナンの地を征服させました。人間的には、子どものいない75歳のアブラハムに子孫の約束をするなど、考えられないことですが、アブラハムは神の約束を信じました。また、神はアブラハムの信仰を祝福し、彼の信仰を義と認められました。パウロは、ローマ人への手紙の中で、私たちの救いの約束をアブラハムの信仰と重ねて説明しています。私たちの救いも、神がイエスを死より復活してくださったことを信じる信仰によって義としてくださると約束されています。行いによる義ではなく、信仰により義とされることを証ししているのです。神がアブラハムの子孫にカナンの地を与えるとの約束は、約700年後に実現しました。(注:アブラハムの年代を正確に証明することはできないので、おおよその計算です。)聖書の預言はほとんど実現していますが、まだ、イエスの再臨は実現していません。しかし、私たちは、神がアブラハムの約束を守られたように、イエスが再び現れ、天の御国が天から下り、私たちは天の御国で永遠に神と暮らすことを信じています。

また、イスラエルの民は、カナンの地を征服した後、何度も神を裏切り、その地の神々を礼拝しました。そこで、神は彼らに苦しみを与えられましたが、彼らが自分の罪を認めて、神に助けを求めると、神は、士師を遣わして彼らを助けました。それが、一度や二度ではなく、何度も、神は彼らを助けられたのです。そこに、私たちは神の愛の大きさを見ます。また、同時に、人間の弱さ、罪深さを見ます。神はそんな弱い私たちのために、悔い改めと赦しの約束を与えてくださいました。神が審判者として、人の罪を裁く神だけでであったなら、だれ一人、神の前に罪が無い者として立つことはできませんでした。しかし、神は裁き主でるとともに、赦しの神でもあります。ペテロは、イエスの裁判の時、彼を知らないと三度も宣言してしまいました。しかし、イエスは復活した後、ペテロの前に現れ、わたしを愛するかと三度、声をかけてくださいました。パウロはキリスト教を迫害した人ですが、イエスは彼の前にも現れ、弟子たちのことばのように、ご自分が死より復活されたことを示し、彼の間違いを指摘しましたが、彼を罪に定めることなく、彼の罪を赦し、キリスト教の宣教師として異邦人の救いのために働くように命じられたのです。神は罪人を愛し、決して罪人を捨て去るお方ではありません。士師記を通して私たちは、人間の弱さを学ぶと共に、それでも人を赦し、人を愛する、神の愛と忍耐を学ぶのです。