ルカの福音書5章27節~39節
ルカの福音書5章1節~11節で、イエスはガリラヤ湖の漁師、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子に招きました。そして、今日は取税人レビ(マタイ)を招いたカ所から学びます。
1、取税人レビを招くイエス
27節「その後、イエスは出て行き、収税所に座っているレビ(マタイ)という取税人に目を留められた。そして『わたしについて来なさい』言われた。」28節「するとレビは、すべてを捨てて立ち上がり、イエスに従った。」とあります。レビとはマタイの別名で、この場面はマタイの福音書、マルコの福音書にも記されています。当時の取税人はローマ政府のためにユダヤ人から税金を徴収する仕事をしていました。それゆえ、ユダヤ人たちは、同じ国民からローマ政府のために税金を取り立てる彼らを売国奴呼び、また、彼らを罪人と呼び嫌いました。また、取税人はローマ政府に雇われた役人で、彼らは、ユダヤ人から不正に税金を高く取り立て、自分の懐に納め、大きな家に住んでいました。そういう意味でも、彼らは税金の一部を盗む罪人でもありました。ユダヤ人たちが彼らの不正をローマ政府に訴えても、ローマ政府は取り合うことなく見過ごしていたのです。イエスはそんな、ユダヤ人に嫌われている取税人のレビを弟子に招いたのです。彼はなぜ、ユダヤ人から嫌われている取税人という仕事を選んだのでしょうか。普通に考えるならお金を儲ける為でしょう。しかし、彼は取税人という仕事に満足していたのでしょうか。大きな家に住みながらも、誰も訪ねて来ない、挨拶もしてくれない生活。取税人と言う仕事に罪意識を持っていたのかもしれません。そんな彼にイエス・キリストは「わたしについて来なさい」と言われたのです。彼はどんなに驚いた事でしょう。また、彼もイエスの事は知っていたと考えられます。彼はお金儲けのために生きる人生ではなく、イエスのように人に喜ばれる働きをしたいと考えたのかもしれません。彼は取税人の仕事を捨てて、イエスの弟子として生きることを決めたのです。
2、罪人を招くイエス・キリスト
イエスの弟子となったレビが最初に行ったのが、自分の家を解放して、友人たちを招いて宴会をしたことです。29節「それからレビは、自分の家でイエスのために盛大なもてなしをした。取税人たちやほかの人たちが大勢、ともに食卓に着いていた。」とあります。ここにレビがイエスの弟子になったことの喜びが表されています。取税人としてユダヤ人に嫌われた自分をイエスは弟子に選んでくださった。その喜びはどんなに大きなものだったでしょう。彼は、この喜びを同じ取税人の仲間や、同じようにユダヤ人に嫌われている貧しい人々を家に招いて、イエス・キリストを紹介したのです。しかし、それを見てパリサイ人たちはや律法学者たちが、イエスの弟子たちを批判したとあります。30節「すると、パリサイ人たちや彼らのうちの律法学者たちが、イエスの弟子たちに向かって小声で文句を言った。『なぜあなた方は、取税人たちや罪人たち一緒に食べたり飲んだりするのですか。』」律法学者やパリサイ人たちは、罪人と交わることによって罪を身に受けると考え、彼らに近づきませんでした。また、人々にも取税人や罪人と交わることを禁じていました。31節32節「そこでイエスは彼らに答えられた。『医者を必要とする者は、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。』」当時の律法学者やパリサイ人たちは、神の戒めである律法を守ることによって神の前に自分の正しさを表し、天の御国に入ろうと努力していました。また、それゆえに、貧しくて律法を守れない人々を罪人と呼び蔑んでいたのです。しかし、神の御心は、そんな高慢な律法学者やパリサイ人たちではなく、自分の罪を認めて苦しむ貧しい人々に向けられていたのです。医者を必要とする者は病人です。健康な人は医者を必要としません。それと同じように、自分は正しいと誇る者にイエスは必要ありませんでした。自分の罪を認めて苦しむ者のためにイエス・キリストは十字架で私たちの罪の身代わりとなられたのです。私たちは自分の罪を認めて、イエス・キリストによる贖い(救い)を必要とする者でしょうか。
3、古い教えのユダヤ教と新しいイエスの教え
次に、断食の話となります。イエスと弟子たちが、取税人や罪人たちと宴会で楽しんでいる姿を見て、(マタイの福音書では、バプテスマのヨハネの弟子たちが)イエスに言いました。33節「また、彼らはイエスに言った。『ヨハネの弟子たちはよく断食をし、祈りをしています。パリサイ人の弟子たちも同じです。ところが、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。』」パリサイ人やバプテスマのヨハネの弟子たちは、習慣的に断食を行っていたようです。ある、パリサイ人は週に二度断食していることを誇っていました。しかし、イエスの弟子たちは断食を行っていませんでした。その理由としてイエスは彼らに言われました。34節35節「イエスは彼らに言われた。『花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友人たちに断食させることが、あなたがたにできますか。しかし、やがて時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。』」イエスが弟子たちと共にいる時間は限られています。また、その時間は弟子たちにとって特別な時間でした。イエスはそれを婚礼にたとえ、この時期は婚礼の時のように喜びの時なので、断食をする必要はない。しかし、自分がこの世から取り去られた後は、彼らも断食をするときが来るだろうと言われたのです。そこで、イエスは一つのたとえを話されました。それは、新しい布切れを引き裂いて、古い衣に継ぎを当てることと、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるお話しです。この二つのお話しに共通することは、新しいものと古い物を一緒にするなら二つともだめにしてしまうということです。これは、古いユダヤ教の教えと新しいイエスの教えを一緒にできないことを表しています。たとえば、バプテスマのヨハネの教えは、ユダヤ人に悔い改めのバプテスマを受けさせることで、新しい革新的な教えでした。しかし、それは、ユダヤ教に悔い改めのバプテスマを加えただけの教えで、断食などの律法を守る働きについては同じでした。結局、バプテスマのヨハネの働きはなくなり、人々は、イエスの教えを求めて大勢の者が集まるようになりました。イエス・キリストはユダヤ教の中で育ちましたが、イエスの教えはユダヤ教を超える新しい教えでした。それは、バプテスマのヨハネのように、ユダヤ教に悔い改めのバプテスマを加えたような教えではなく、まったく新しい教えでした。それゆえ、イエスは、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるように、自分の教え(キリスト教)はユダヤ教とは異なる、新しい歩みが必要であることを教えたのです。
私たちは、イエスに選ばれた(救われた)ことをどれだけ喜んでいるでしょうか。レビはその喜びを家を解放して宴会を催すことで表しています。罪の話しで言うなら、100円の借金を赦されるより、百万円や一千万円の借金を赦された人の方が喜びは大きいでしょう。レビは、ユダヤ人から取税人ということで嫌われていました。まさか、イエスに声を掛けられるとは思わなかったでしょう。また、取税人の自分を弟子にしてくれるとは想像もできなかったのではないでしょうか。ペテロのイエスを三度知らないと言いながらも、イエスに赦されました。パウロもキリスト者を迫害しましたが赦されました。私たちは、どれほどの罪が赦された者でしょうか。そこに罪が赦された者の喜びがあるのです。