創世記32章24節~32節
今年一年、皆様はどのような一年だったでしょうか。新型コロナウイルスの影響で身体的に精神的に経済的に苦しみの中の一年だった方もおられることでしょう。私自身も教会の礼拝が守られるように毎日祈りました。今日は、苦難の中の祈りについて、ヤコブとイエス様とパウロの祈りについて学びます。
1、ヤコブの祈り
エサウとヤコブは双子の兄弟でした。エサウは狩りが好きな野の人に成長し、ヤコブは家の中で生活する穏やかな人に成長しました。しかし、ヤコブは狡猾な面があり、兄が狩りから帰って来た時、兄の弱み(おなかがすいていた)に付け込み、煮物と交換に長子の権利を奪い取ってしまいまし。また、父イサクの視力が弱くなった時、父がエサウに特別な祝福の祈りをすると聞き、ヤコブは兄に成りすまして、父をだまし、祝福の祈りを兄から奪い取ってしまいました。ヤコブという名は「かかと」を意味する言葉ですが、他に「押しのける」「だます」と言う意味もあります。ヤコブの人生は正に人を押しのけ、だますような人生でした。兄エサウはヤコブに祝福の祈りを奪われたことを知り、彼を殺そうと殺意を抱きました。それを知った母リベカはヤコブに自分の兄ラバンのもとに身を隠すように言い、彼を送り出したのです。叔父のラバンも狡猾な人物でヤコブを利用して自分の財産を増やすような人物でした。20年後、神はヤコブに故郷に帰るように命じました。ヤコブは叔父ラバンから逃げるように故郷に向かいました。故郷に近づけば近づくほど、兄エサウに対する恐れが強くなっていきました。ヤコブはヤボクの川の対岸に家族を渡らせ、自分は一人反対の川岸に残りました。24節からの出来事はその時に起こったことです。24節「ある人が夜明けまで彼と格闘した。」とあります。これは、夢なのか幻なのかわかりません。しかし、実際にヤコブは格闘して自分のももの関節がはずれ、足を引きずる者になってしまいました。それゆえ、夢幻ではなく、実際に起こった出来事と考えられます。そのことは私たちに何を教えているのでしょうか。私はこの個所を読んで、今年一年間、ヤコブのように必死になって祈って来ただろうかと反省させられました。ヤコブは兄の怒りを恐れ、神に助けを求め、必死に祈ったのではないでしょうか。その姿が神にしがみつく姿に重なります。神にしがみつくヤコブに神は二つのことを行いました。(1)イスラエル「神と人と戦って勝ったという意味の名」を与えられたこと。(2)ヤコブのももの関節をはずされたことです。イスラエルの名を与えられたことは神の祝福を意味しています。しかし、ヤコブはももの関節を外され、足を引きずって歩くものになってしまいました。ある有名な説教者がこの個所をこのように解説しています。「ヤコブはももの関節を外され、足を引きずる者になったがそれゆえ、杖を必要とする者となった。その杖とは神のことを表し、彼はこの経験によって自分の力に頼る者から、神に頼る者に変えられたのである。」確かにこの経験によってヤコブは神に信頼する者に変えられたのです。「自我がくだかれる」という言葉があります。私たちは頑なな自我を持っています。ヤコブは自分の知恵に頼る者でした。しかし、この時、兄の恐れからどうしても逃れることができませんでした。そこで、ヤコブは必死に神にしがみついたのです。そこで、神はヤコブの力(自我)を砕くために、彼のももの関節をはずし、彼を弱くされたのです。ヤコブはこの時、初めて自分の弱さを認め神に信頼する者に変えられたのです。
2、イエス・キリストのゲッセマネの祈り
正しい祈りとはどのような祈りでしょうか。ただ自分の願いを叶えるために熱心に祈ることが正しい祈りではありません。それは、自己中心で、自分の願いに通りに神を動かすことであり、神を利用する祈りです。では、正しい祈りとはどのような祈りでしょうか。
イエスが捕らえられ十字架に付けられて殺されるときが近づきました。その時、イエスはゲッセマネの園でこのように祈りました。マタイの福音書26章39節「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」42節「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように。」この祈りのことばの中で大切なことは、「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と祈りの答えを自分の願いよりも、神の御心が行われるに神に委ねたことです。この時、イエス・キリストには二つの道がありました。十字架で死ぬ道と、それを避ける道です。イエスの願いは十字架を避けて神の栄光を表すことでした。しかし、イエスは、自分の思いではなく神の御心に従う決心がありました。神はイエスを十字架の苦しみを通して神の栄光を表すことでした。イエスは神の御心に従い、十字架の道を選ばれたのです。
3、パウロの祈り
コリント人への第二の手紙12章で、自分は生きたままパラダイスに引き上げらるという特別な恵みを神から受けたことを証ししています。しかし、神は同時に彼が高慢にならないように肉体に一つのとげが与えられたと告白しています。また、それはサタンがわたしを打つための使いとも表現しています。そのとげが何を指しているかわかりませんが、彼はその使いを去らしてくださいと三度も主にお願いしたとあります。しかし、神は彼のその願いを聞き届けてくださいませんでした。神は代わりに彼にこのように言われました。9節「わたしの恵みはあなたには十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」10節「ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。と言うのは、私が弱い時にこそ、私は強いからです。」パウロはこのとげを取り除いてくださいと三度も神に祈りましたが、その願いはかなえられませんでした。しかし、パウロは自分の願いがかなえられない理由を神より教えていただきました。それは、自分が高慢にならないためと、自分の弱さを認めることが神の力が現わされることであることを教えられたのです。
4 結論
祈りとは一方的に自分の願いを神に投げかけるだけではありません。神は私たちの祈りに応答してくださる方です。しかし、神の御心は必ずしも私たちの願い通りではありません。それゆえ、私たちは、祈りながら神の御心を求めなければなりません。また、神の答えが自分の思い通りでなくても、神は最善の物与えてくださることを信じて受け取ることができるように祈らなければなりません。また、私たちは自分の弱さを認める時に、神の前に謙遜になることができます。私たちの自我が崩されるとき、神の恵みが現わされます。神は苦しみや困難、痛みを通して私たちの自我を砕かれます。私たちの自我を砕かれるとき、私たちは痛みを感じます。しかし、神は砕かれた魂をそのままにしておくことはありません。神は砕かれた魂を受け取り、いやし受け入れてくださるお方です。詩編51篇17節「神へのいけにえはくだかれた魂。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。」新しい年2021年を迎えます。来年は、自分の弱さを神の前に差し出し、砕かれましょう。そして神に癒され、自分自身が神様によって変えられる一年となりましょう。