イエスとの出会い・サマリアの女性

ヨハネの福音書4章1節~15節

先週はイエスとニコデモとの会話いから「新しく生まれる」という事について学びました。今日は、イエスとサマリアの女性との会話を通して「永遠のいのちの水」について学びたいと思います。

ヨハネの福音書4章1節~4節「パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多く弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、―バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったが―ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。」とあります。イエスが宣教を始める前に、バプテスマのヨハネが先に宣教の働きを始めていました。しかし、次第にイエスの方が有名になり、人々はイエスの方に集まるようになりました。そこで、パリサイ人たちは、イエスに敵意を持つようになりました。それを知ったイエスは、パリサイ人との対立を避けるためにガリラヤに向かわれたものと考えられます。ユダヤからガリラヤへ向かう道は二通りあります。ヨルダン川の右側を通る道とサマリアの町を通る道です。調べるとサマリアの道を通る方が近道だそうです。イエスは急いでガリラヤに行くためにサマリアを通る道を選ばれたのか、それとも、このサマリアの女性と出会うためにサマリアの道を選んだのかもしれません。

5節6節「それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。」とあります。第六時というのはユダヤ的な数え方で、本来の意味は、欄外にあるように正午ごろと考えられます。7節「一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、『わたしに水を飲ませてください』と言われた。」9節「そのサマリアの女は言った。『あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。』ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。」とあります。イスラエルの国はソロモン王の後、北と南に国が分かれました。そして、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、多くの民が奴隷として連れて行かれ、他の民族を北イスラエルに移住させ、混血の民となってしまいました。南ユダ王国もバビロニヤに滅ぼされましたが、彼らは純真なユダヤ人の血族を保っていました。その後、ユダヤの人々は捕囚が赦され、国を再建することができました。その際、彼らは神殿を建て直す許可も得ました。そこで、多くの者が国に帰り、神殿の再建を始めました。その時にサマリアの人々も協力したいと申し出ましたが、ユダヤの人々はそれを拒否しました。また、サマリア人はゲリジム山に神殿を築き礼拝を始めました。そのため、ユダヤ人とサマリア人は民族的な対立と宗教的な対立で仲が悪く、互いに付き合いをしなくなっていたのです。イエスはガリラヤへ行くためにサマリア寄りの道を選びましたが、ユダヤ人の多くはヨルダン川の右側の道を選んでいたのです。彼女はイエスがサマリア人ではなくユダヤ人と感じて、サマリアの女性に飲み水を求めたことに驚いたのです。10節「イエスは答えられた。『もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのが誰なのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』」11節12節「その女は言った。『主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。』」13節14節「イエスは答えられた。『この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。』」15節「彼女はイエスに言った。『主よ。私が渇くことないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私にください。』ここまでを読んだ限りでは、彼女がどのような女性かわかりません。彼女はなぜ、昼間の暑い時間に水を汲みに来たのでしょうか。当時の習慣として、水は涼しい朝方に汲むのが普通でした。それなのに、彼女は昼に水を汲みに出てきました。それは、彼女が他に人に会いたくないからでした。この後、イエスは彼女に夫を呼んで来なさいと言います。彼女はイエスに夫はいないと告げました。しかし、イエスは彼女には夫が五人いたが、今一緒にいる男性は正式な夫ではないことを見抜いていました。彼女が人に会いたくなかったのは、彼女が五人の男性と結婚と離婚を繰り返していたことを周りの人々が知っていたからでしょう。彼女はなぜ、それほど結婚と離婚を繰り返したのでしょうか。「愛情飢餓」という心の病があります。幼い時に母親の愛情を受けずに育った人に多く見られる病です。こどもの頃に十分な愛情を持って育てられた人の心は安定しています。しかし、愛情を受けずに大人になった場合、心が不安定で怒りやすく、人間関係を築くに難しさを覚える人がいます。このサマリアの女性は、愛情飢餓のゆえに過度に、男性に愛情を求めすぎて、結婚と離婚を繰り返していたのかもしれません。イエスは彼女に対して、井戸の水から永遠のいのちへの水について話を進めました。彼女にとって毎日水を汲みに来ることは大変な仕事だったでしょう。水を汲みに来なくてもいいような湧き水があるならばぜひ下さいと彼女はイエスに求めました。しかし、イエスが彼女に言われたのは霊的な水の事です。別のことばで言えば、「聖霊、御霊、神との関係回復、」または、前回ニコデモとの会話に出て来た「新しく生まれる」ということです。私たちはこの世の物で心を満たそうとします。異性の愛やお金、名誉、財産など。しかし、私たちの心はこの世の物で満たされることはありません。お金持ちが決して幸せではありません。お金が何億あっても、人を信頼できない、愛のない家庭は幸せではありません。神は私たちの体だけではなく、心も作ってくださいました。その心を満たすのは神の愛だけです。ジグソーパズルは一つのピースでもなくなれば完成しません。そのように、私たちの心も神の愛がなければ満足は出来ないのです。

イスラエルの二番目の王ダビデが書いた詩篇23篇は有名です。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。たとえ、死の影の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが、私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」ダビデは神に選ばれてイスラエルの王になった人物です。しかし、彼の人生は決して楽な人生ではありませんでした。ダビデのことばにあるように「死の影の谷」を歩むような人生でした。しかし、ダビデが感謝していることは、王になったことや財産を得たことでもありません。彼は「神がともにおられた」ことを感謝し喜んでいるのです。

ヨハネの福音書に戻って、この後、彼女の証しによって多くの人々がイエスのもとに集まり、イエスのことばによって多くの者がイエスを信じたとあります。42節「彼らはその女に言った。『もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方が本当に世の救い主だと分かったのです。』」彼女はどうなったでしょうか。聖書には書かれていないのでわかりませんが、彼女もイエスを救い主と信じ、男性の愛によって心を満たそうとはしなくなったのではないでしょうか。日本人の祈りは神に求めることが祈りになっているように思います。しかし、キリスト教の祈りは、神に求めることだけではなく、神に近づき心を満たしていただくためでもあります。ダビデが神がともにおられることを喜んだように、私たちも神を求める時、神は私たちの心を満たしてくださいます。それは、アダムとエバが罪を犯す前の神様との関係のように、また、放蕩息子が父の家に帰った時に、父に抱きしめられた時のようではないでしょうか。私たちの心は何で満たされているでしょうか。