あなたのみことばは私の足のともしび

詩篇119篇65節~72節 105節~112節

詩篇は全部で150篇あります。その中で一番長いのが119篇です。ヘブル語にも英語と同じようにアルファベットがあり「アレフ、ベト、ギメル・・・・」と続きます。この詩篇は連のはじめの文字がヘブル語のアルファベットの順番で書かれています。それゆえ、全部で22の区分で構成された珍しい詩篇です。作者が誰であるのか、どのような背景で書かれたのかはわかりません。しかし、全体を通して見て見ると、共通する言葉を幾つか見出すことが出来ます。「戒め」「みことば」「悟り」などです。この詩篇の作者は、ヘブル語のアルファベットの制約の中で、非常に信仰深い教えを私たちに伝えています。今日は、119篇の全部を学ぶことはできませんが、その中から二か所を選んで、神の恵みに目を留めたいと思います。

1、「苦しみにあったことは」(65節~72節)

私たちは、神を信じていても苦しみや悲しみにあいます。人生の中で一度も苦しみや悲しみにあったことはないという人はいないでしょう。なぜ、私たちの人生に苦しみや悲しみがあるのでしょうか。実は、苦しみや悲しみには色々な意味があります。その一つ一つについて詳しく説明すると時間が足りないので、今そのことについてお話しすることはできません。今日は、この詩篇の記者が見出した苦しみの意味について考えます。誰しも苦しみにあうことを願ってはいません。避けられるなら避けたいと思うのが人の常です。しかし、この詩篇の記者はこのように述べています。71節「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。」なぜ彼は苦しみを幸せと感じたのでしょうか。「それにより 私はあなたのおきてを学びました。」とあります。また、その前の67節「苦しみにあう前には 私は迷い出ていました。」とあります。クリスチャンになる前、私も迷い出ていました。自分がどう生きたらよいのかわかりませんでした。なぜ、自分は生まれたのか、何のために生きているのか分からないまま生きていました。また、自分の将来に不安がありました。そこで、お金持ちになれば幸せになれるのではと考え、どうしたらお金儲けが出来るか考えていました。しかし、それにも迷いがありました。お金があれば幸せなのか。幸せとは何なのかもわかりませんでした。そんな時に、教会に誘われて、礼拝に参加しました。その時に、心に安らぎを感じました。それから、何度か礼拝に参加するうちに、自分も神を信じてみたいと思うようになりました。その後、洗礼を受けてクリスチャンとなりましたが、それでも、自分と神との間には距離があり、神を自分の父と思うような信仰を持つことはできませんでした。それからしばらくして、香港にあるクリスチャンの訓練センターで学びを受けました。香港で2カ月勉強して、その後、中国で実際に2カ月伝道をしました。私は初めての外国での生活と、言葉が通じない状況で苦しみの中、神にいつも助けを求めました。また、中国での困難な伝道の中、神に助けを求めました。この四カ月間は私にとって苦しみの日々でした。しかし、それはまた、喜びの日々でもありました。それは神が苦しみの中、いつも助けてくださったからです。私は、この経験を通して、神に愛されていることを知り、神と関係を深めることが出来ました。この詩篇の記者は、苦しみを通して「あなたのおきてを学びました。」と述べています。結論を言うと、苦しみを通らなければ学ぶことが出来ないことがあるということです。キリスト教の信仰で大切なことは「神との個人的な関係」です。キリスト教は、親がクリスチャンでも、自分が神を信じていなければ信仰を持つことはできません。それゆえ、神は時として、苦しみを通して私たちに近づいてくださいます。苦しみの時に何に助けを求めるかが大切です。人や目に見えるものに頼るならばいつまでも、神と出会うことはできません。苦しみの時ほど、神に助けを求める時に、神が自分の近くにいることがわかるのです。この詩篇の記者は、神と出会う前は人生に迷い出ていました。しかし、苦しみを通して神と出会い、神の教えを学ぶことによって、神との深い関係を築き、神に守られていることを知ることができたのです。それゆえ、「苦しみにあったことは、私にとって幸せでした。」と告白しているのです。

2、「あなたのみことばは 私の道のともしび」(105節~112節)

私たちは、明日のことも、1週間先、1年先のことも知ることはできません。それなのに私たちは、先のことを心配し思い煩います。そういう意味では、私たちは先の見えない暗闇を歩く者です。暗闇を歩く者にとって灯は欠かせません。また、共に歩き導いてくださる方がいればもっと安心して歩くことが出来ます。ここで「あなたのみことば」とは聖書のことばを指しています。この詩篇の記者は、聖書のことばこそ人生を照らす光であることを見出したのです。111節「これこそ私の心の喜びです。」と喜びを表しています。先程の箇所でも72節「あなたの御口のみおしえは 私にとって 幾千もの金銀にまさります。」と告白しています。聖書は確かに昔書かれたものです。しかし、神は今も生きています。それゆえ、神のことばである聖書のことばも生きた神のことばです。牧師という仕事は、自分でなりたくてなれる仕事ではありません。神の選び証明が必要です。なぜ、私が牧師として神に選ばれたのか、その理由を考えると、私が何よりも聖書が好きだからではないかと思います。私は25歳でクリスチャンになり、62歳になるまで毎年、一年を通して、旧約聖書を1回、新約聖書を2回読んで来ました。回数で言えば、旧約聖書を37回、新約聖書を74回ぐらい読んだことになります。それでも今、聖書を読んでいて、新しい発見に出会います。聖書が今の形で編集され登場するまで、神はご自分の意思を御使いや天使、預言者を通して人々に伝えました。しかし、今は聖書のことばを通して、神は私たちに近づき御心を伝えてくださいます。しかし、それは求めなければ得られることはなく、信じなければ神のことばとして受け取ることはできません。香港に行く前、私には恐れと不安がありました。しかし、信仰を持ってそれを受け入れ、香港に行くことを決心しました。その日の早朝、私は初めて早天祈祷会に参加しました。その祈祷会は、いつも、牧師先生と一人の高齢の婦人によって守られていました。その時に語られた聖書の言葉は創世記28章で、ヤコブが初めて神と出会った場面でした。この個所では、ヤコブは家族から離れ、生まれて初めて一人で野宿をしながら一晩を過ごします。そんな不安なヤコブに神はこのように言われました。創世記28章15節「見よ。わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしはあなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」確かにこの言葉はヤコブに語られた言葉ですが、私はその言葉を、神から個人的に与えられたことばと受け取った(信じた)のです。その後、先ほどのように、香港、中国では様々な苦しみがありましたが、神は約束通りに、私を守ってくださり、私は無事に日本に帰ることが出来ました。確かに聖書は万人に向けて書かれていますが、私たちが聖書のことばを神のことばと信じるなら、神は聖書の御ことばを通して私たちに語りかけてくださいます。私たちが願うなら、神のことばが、暗闇のともしびとなり、神が私たちの人生の伴走者となってくださるのです。