きよめの水をぶどう酒に変えたイエス

ヨハネの福音書2章1節~11節

イエスが宣教された3年半の働きについて学んでいます。初めにイエスが弟子たちを集め将来の宣教のために備えられたことを学びました。また、先週はイエスが多くの病人を癒した理由について学びました。今日はイエスがなされた奇蹟の意味について学びます。

ヨハネの福音書2章にカナの結婚式で、イエスが水をぶどう酒に変えた奇蹟について記されています。1節「それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。」とあります。三日目というのは、1章43節からの出来事で、イエスがナタナエルと出会った日から三日目ということです。この婚宴にイエスの母マリアはすでにいたことが記されています。また、2節を見ると「イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれていた。」とあります。この出来事の全体を見るなら、イエスの母マリアはお客としてではなく、宴会の料理やぶどう酒を準備する役割があったものと考えられます。そう考えると、この婚礼はマリアの知り合いか親戚のものであったのではないかと推測されます。また、イスラエルの結婚式の婚宴は一週間続けられます。そして、その間に多くの人々が招かれるのが普通でした。ですので、イエスと弟子たちが婚宴に参加したのは、その一週間の終わり頃ではなかったかと思われます。3節「ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって『ぶどう酒がありません』と言った。」とあります。イエスの父ヨセフがいつ天に召されたのかわかりません。しかし、想像すると、父がいない家庭において、イエスは長男として父親の代わりに、母マリアに頼られていたのではないでしょうか。母マリアとしては、責任上ぶどう酒を何とか調達してこなければなりません。そこで、イエスに対して率直イエスに「ぶどう酒がありません」と助けを求めたのではないかと思います。それに対してイエスは4節「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだきていません。」と言われました。イエスが言われた「女の方、あなたとわたしと何の関係がありますか。」という言い方は、他人行儀で冷たい言い方に聞こえます。この時、すでにイエスは救い主としての宣教の働きを始めていました。言い換えれば、「いつまでも、あなたのこどもではありませんよ」または、「今は、神の大切な責任を委ねられた者です」とご自分の立場を母マリア説明する意味があったのではないかと思います。また「わたしの時」とは、ヨハネの福音書では十字架の時を指しています。まだ、自分が「救い主(メシヤ)」であることを示す時ではありませんという意味です。5節「母は給仕の者たちに言った。『あの方が言われることは、何でもしてください。』」6節「そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、石の水がめが六つ置いてあった。それぞれ、二あるいは三メトレテス入りのものであった。」とあります。「きよめのしきたり」とは、ユダヤ人たちは昔からの言い伝えで、手を洗ってから(手の汚れを落としてから)でなければ、食事をしてはならないと定められていました。この水がめはそのために準備されたものでした。7節「イエスは給仕の者たちに言われた。『水がめを水でいっぱいにしなさい。』彼らは水がめを縁までいっぱいにした。」8節「イエスは彼らに言われた。『さあ、それを汲んで、宴会の世話役のところに持って行きなさい。』彼らは持って行った。」9節10節「宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。それで、花婿を呼んで、こう言った。『みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。』」とイエスが水から変えたぶどう酒を褒めたのです。一般的に、婚宴の最初には上等のぶどう酒を出すが、客が酔ってくると、安いぶどう酒を出すものでした。ところが、この世話役はイエスが水から変えたぶどう酒を飲んで、良いぶどう酒(上等のぶどう酒)だったので驚いたということです。それほど、イエスが水から変えたぶどう酒がすばらしかったという意味です。11節「イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。」とあります。

私が最初に聖書を読んだ時、このカナの結婚式で水をぶどう酒に変えたことがどうして最初のしるしなのか不思議に思いました。ヨハネの福音書はイエスの十二弟子の一人ヨハネが晩年になって書いたと言われています。年数にすれば、イエスが昇天して40年ないし50年後と考えられます。その間に、マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書はすでに教会で読まれていました。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)はイエスの誕生から十字架、復活、昇天とイエスの生涯に沿って書かれています。しかし、ヨハネはイエスの行った出来事(奇蹟)よりも、その後でなされる、イエスのメッセージに視点を置いて書かれています。それは、彼がイエスの人生を振り返り、黙想してヨハネの福音書を完成させたことを表しています。カナの結婚式の出来事は、共観福音書には書かれていません。ヨハネ自身もその時は、それほど重要な出来事とは思わなかったのではないかと思います。ヨハネは晩年になって、このカナの結婚式のことを思い出し、この奇跡の本当の意味を悟ったのではないでしょうか。この出来事で、大事な点は、この水がめの水がユダヤ人に定められたきよめの水であったという事です。そして、このぶどう酒は、後の十字架のイエスの血を表していたことです。ユダヤ人は神の戒めを守るために、多くの戒めを作り上げてしまいました。また、それが神の戒めと混ざり合い、先祖の伝承も神の戒めとして守るように教えたために、戒めが膨れ上がり、多くの戒めにより人々は神の祝福ではなく、苦しみを受けるようになっていったのです。イエスの使命はその苦しみからユダヤ人を救うことでした。彼らは戒めを守ることによって神に認められる正しい人になり、天の御国に入ろうと努力していました。しかし、イエスはその律法の苦しみから人々を解放するために、十字架の上でいのちを犠牲にし、死より三日目に復活し天に昇り、私たちの救いの道を備えてくださったのです。それを象徴的に表したのが、カナの結婚式でイエスがきよめの水をぶどう酒に変えるという奇蹟だったのです。ユダヤ人は今でも、律法を熱心に守っています。それは、彼らにとって救いはそれ以外に考えられないからです。しかし、イエスは天の御国は人間が努力して入れるところではなく、神の恵みによって入るところだと教えてくださいました。人間はどんなに努力しても自分の罪の問題を解決することはできません。神はそれゆえに、ひとり子イエスを私たちの罪の身代わりとされました。イエスは私たちの罪を背負って十字架でご自分のいのちを犠牲にすることによって私たちの救いを完成されました。人が自分たちの力や努力で天の御国に入れるのならば、神はご自身のひとり子を犠牲にすることはなかったでしょう。イエス・キリストが十字架でご自分のいのちを犠牲にすることもありませんでした。罪とはそれほど重いもので、神の子のいのちの犠牲がどうしても必要だったのです。病の癒しや経済的な祝福を与えると言われる神々は世界中に存在します。しかし、人間の罪の問題を解決し、天の御国を約束してくださった神はイエス・キリストだけです。それも、ご自分のいのちを犠牲にしてです。そのような神が他にあるでしょうか。ここに私たちがイエス・キリストを真の神と信じ礼拝をささげる根拠があるのです。