御国の福音を宣べ伝えた

マタイの福音書20章1節~16節

イエス・キリストが宣教の働きを始めたのは三十歳からだと言われています。そして、十字架に付けられて殺されたのが三十三歳でした。それゆえ、イエス・キリストが実際に宣教の活動をされたのは三年から三年半の短い期間だけです。その短い間にイエスは、教会堂を建てたり、新しく経典を書いたりしたわけではありません。新約聖書すらイエスの弟子たちが書いたものです。イエスがこの三年半の活動の中で行ってきたことがマタイの福音書4章23節に記されています。「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわざわいを癒された。」「会堂」とは、ユダヤ教の礼拝所のことです。ユダヤ人は安息日(金曜日の日没から土曜日の日没)を守り、土曜日には会堂で礼拝をささげていました。イエスは平日は路上で福音を宣べ伝え、土曜日には会堂で人々に福音を宣べ伝えたのです。

「福音」とは何でしょうか。聖書の欄外には「良き知らせ」とあります。イエスが宣教の働きをしていた時代、ユダヤ人たちは「律法」といわれる神の戒めを一生懸命守っていました。しかし、次第に律法学者たちは「神の律法」を守るために、先祖からの言い伝えを加えるようになり、律法学者たちが教える戒めが膨れ上がり、膨大な数になり、人々はその細かな規則を守ることが重荷となって苦しんでいました。イエスは度々、「わたしが来たのは律法を廃棄するためではなく成就するためである。」と言われました。イエスの教えは決して新しい教えではありませんでした。イエスの教えは神の戒めと先祖の伝承とを区別し、本当に守るべき神の律法を示しました。しかし、それは、律法学者たちの教えを否定することとなり、彼らの怒りを受け十字架に付けられて殺されてしまったのです。

イエスが伝えた福音がどのような教えであるのか、マタイの福音書20章のぶどう園で働く労務者のたとえをみると良くわかります。このたとえ話で、ぶどう園の主人は朝早くに出かけて、一日一デナリの約束で労務者たちを雇いました。主人は九時頃にも出かけて労務者を雇いました。この時の約束は「相当の賃金を払うから」という約束です。さらに主人は十二時ごろと三時ごろにもでかけて同じようにしたとあります。また、主人は五時ごろにも出かけ、まだ仕事を得ることが出来ていない人々をかわいそうに思い、いくらの賃金を払うとの約束なしで彼らを雇いました。夕方になって主人は監督に、最後に来た者たちから順に賃金を払うように命じました。当時のユダヤ社会の労働時間は夕方六時までだったようで、最後に来た者たちは一時間しか働いていませんでした。9節「そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつを受け取った。」とあります。最後に来た者たちはどんなに喜んだことでしょう。主人は彼らとはいくらの賃金を払うという契約を結んでいませんでした。それゆえ、彼らはせいぜい、一時間働いた分の賃金がもらえると考えていたのではないでしょうか。それが、一日分の賃金をもらえたのです。彼らは大喜びで帰ったことでしょう。10節「最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。」とあります。一時間しか働かなかった者に一デナリ(一日の賃金)が支払われたのを見た、朝から働いた者たちは、一デナリ以上、二デナリ、三デナリをもらえると期待したのではないでしょうか。しかし、彼らに支払われたのも一デナリでした。11節12節「彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』」彼らの主張は間違っていません。この世の仕事ではこのようなことは起こりません。しかし、このお話は天の御国のたとえ話です。13節「しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と一デナリで同意したではありませんか。』14節「あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」15節「自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。」この主人が言っていることも間違いではありません。朝早く雇われた者は、主人と一日一デナリの約束で雇われました。このたとえ話で重要なことは、最後に来た者たちに支払われた賃金は主人の好意(恵み)だったということです。このたとえ話を通してイエスが人々に教えられたことは、天の御国は一生懸命、努力して律法を守った代価として与えられるものではなく、主人(神)の一方的な好意(恵み)によって与えられるものだということです。なぜなら、この賃金は主人のものであり、いくら賃金を払うかを決めるのは主人の自由だからです。それゆえ、天の御国も神のものであり、この主人のように、人間の努力にかかわりなく、主人(神)の好意(恵み)によって与えられるという事なのです。このような教えは、律法を一生懸命守っている律法学者たちには到底受け入れることが出来ないものでした。それゆえ、律法学者パリサイ人たちはイエスを捕らえ、十字架に付けて殺してしまったのです。

ここで私たちが考えなければならないことは、救いはだれに与えられたかということです。イエスの教えを喜んで聞いた人々は、貧しくて律法を守れない人々でした。律法学者たちはそのような人々を蔑み、呪われた人と馬鹿にしていたのです。しかし、神が愛したのは自分の罪を認める人々でした。自分の正しさを誇る律法学者たちではありませんでした。先程のたとえ話で、最後に雇われた人は、一時間しか働かなかったのに一日分の賃金をもらいました。彼らの喜びはどれほど大きかったでしょう。私たちはこの、一時間しか働かなかった労務者に等しい者です。私たちが救われたのは、私たちの努力や正しい行いではありません。神の一方的な恵みです。しかもイエスはこの救いを私たちに与えるために十字架で苦しみを負われ、いのちさえも犠牲にしてくださったのです。救いとはそれほど価値があるものです。その素晴らしい恵みによる救いの知らせが、良き知らせ「福音」という意味です。

私たちはどれほどすばらしいものを神から与えられているでしょう。もう一度、神の恵みによる救いの意味と、私たちに与えられている救いがどれほどすばらしいものなのかを覚えたいと思います。