キリストの福音

ガラテヤ人への手紙1章6節~9節

「福音」とはどういう意味でしょうか。漢字から想像すると「祝福の音」「幸いな知らせ」というふうに考えられます。英語に訳せばgood newsとなります。訳せば「良い知らせ」と言うことでしょうか。ガラテヤ人への手紙はパウロが書いた手紙です。ガラテヤの教会はパウロが第一回伝道旅行の時にパウロによって誕生した教会です。しかし、パウロは長い間ガラテヤの教会に滞在したわけではありません。パウロの使命は、世界中にキリストによる福音を伝えることでした。パウロがガラテヤの教会を去った後、しばらくして、ユダヤ人でキリスト者となった人々がこの教会にやって来ました。彼らはイエス・キリストによる洗礼だけではなく、割礼やユダヤ教の習慣をも守らないと救われないと教え始めたのです。それは、パウロの教えに反する教えでした。パウロはただ、イエスの名によって洗礼を受ける者は、罪が赦され、天の御国に入ることができると教えていたからです。しかし、ガラテヤのクリスチャンたちは、ユダヤから来た人々に影響を受けるようになってしまいました。それを聞いたパウロは、何とか元の正しい福音理解に彼らを戻すためにこの手紙を書き送ったのです。

1、イスラエルの民と律法

神は、アブラハムと特別な契約を結ばれました。また、その契約はアブラハムだけではなく、彼の子孫をも祝福すると言う契約でした。神はその契約のしるしとして、アブラハムとその親族に「割礼」を受けるように命じました。これにより、イスラエルの民は生まれて八日目に割礼を受けることが義務付けられました。また、イスラエルの民がモーセによってエジプトを出発した後、神はモーセを通して、イスラエルの民に戒めを与え、彼らと契約を結びました。それが律法と呼ばれる物です。イエスの時代、律法学者が活躍し、人々に律法を教え、それを守るように指導しました。しかし、長い年月のゆえに、神のことばに人間の言い伝えが加えられ、当時の民衆はこの律法の重荷に苦しめられるようになりました。そんな時代にイエスは登場し、神のことばを伝え始めたのです。その教えは律法学者たちとは違い権威ある教えでした。人々は喜んでイエスの話に耳を傾けるようになりました。律法学者たちはイエスの存在に恐れを感じ、イエスを何とか殺さなければならないと考えるようになりました。そこで、彼らはサドカイ人たちと協力し、イエスを捕らえ宗教裁判にかけて死刑の判決を下し、ローマ総督ピラトを利用してイエスを十字架に付けて殺してしまったのです。しかし、救い主(メシア)が殺されることは、父なる神の御心でした。イエスは死より三日目に復活して、弟子たちに姿を現わし、天に昇って行かれたのです。その後、ペテロ達によって教会が誕生し、イエスの復活を宣べ伝え始めたのです。

2、復活したイエスとパウロ

パウロは律法を守ることに熱心なユダヤ人でした。それゆえ、彼は十字架に付けられ殺されたイエスが三日目に復活したとか、イエスが神の子であると伝えるキリスト教は間違った教えであると信じ、熱心にクリスチャンを迫害しました。そんな彼がダマスコにいる、クリスチャンを捕らえに行ったとき、パウロは復活したイエス・キリストに出会ったのです。これによって彼は、ペテロ達が伝えていることが正しく、自分が間違っていたことを知らされました。それだけではなく、神は自分の罪を赦し、異邦人の伝道のために選ばれていたことを知ったのです。この出来事は彼にとって大きな出来事でした。神は自分の罪を赦し、異邦人にこの福音を伝えるように、選ばれたことをしり、180度変えられ、キリスト者となり世界中に福音を宣べ伝える者になったのです。

3、律法と福音

パウロはタルソという大きな町で生まれました。その町は外国人も多く、パウロは異文化の中で成長しました。ある時、パウロがアンテオケの教会で伝道しているとき、ユダヤから来たキリスト者たちが、モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われないと教え始めたのです。パウロにとってこれは大きな問題でした。なぜなら、パウロ自身、熱心に律法を守っていましたが、それでも、救われた(罪が赦された)という思いを持ったことがなかったからです。パウロはそれに苦しみ、イエスとの出会いによって、初めて自分の罪が赦されたことを確信したのです。この経験によりパウロは律法の行いでは人は救われない、ただ、神の子イエス・キリストの十字架の贖い(死と復活)を信じる信仰によって、罪が赦され天の御国に入ることができることを知ったのです。そこで、パウロはバルナバと共にエルサレムに向かい、エルサレムの教会の長老たちと話し合いがされ、割礼を受けなくても、イエスを救い主と信じる信仰によって救われることが決められたのです。ガラテヤの教会に送られた手紙はそのエルサレムの教会会議の前に書かれたものと思われます。ユダヤ人にとって割礼と律法は神との約束であり、これを取り除くことはできないことでした。しかし、パウロは自分の経験を通して、救いが律法の教えを守ることによって得られないことを体験していました。それゆえ、新しくクリスチャンとして生まれる異邦人たちに同じような苦しみを与えてはいけないと強く感じていたのです。ユダヤ人は習慣として割礼と律法を教えられてきました。それゆえ、使徒たちも、ユダヤ人クリスチャンたちもこの教えから抜け出すことができなかったのです。しかし、パウロはタルソ生まれと言う環境もあり、キリスト教からユダヤ教的な影響を取り除くことができたのです。

4、結論

私たち日本人は、律法や割礼などの習慣はありませんが、クリスチャン=正しい人というイメージがないでしょうか。クリスチャンになると言うことは正しい人立派な人になるというイメージがあるのではないでしょうか。しかし、クリスチャンの目的は正しい人になることではありません。神を信じ隣人を愛することによって正しい人になるわけですが、それは、神を信じる過程で変えられることで、正しい人間になるために信仰を持つわけではありません。正しい人になることが悪いことではありませんが、正しい人になることが目的になる時、私たちは窮屈なクリスチャンとなってしまいます。目的を間違えることによって私たちは、人を裁き自分を裁くことになってしまいます。クリスチャン=正しい人になることを目的にするなら、パウロのように、いつまでたっても自分を赦すことができず、いつまでも不完全な自分を見ることになります。クリスチャンになると言うことは、自分の罪を認めて神による救いをいただくことです。それが恵みであり、福音なのです。ユダヤ人は律法を守り神の前に正しい人間になろうと努力しました。その結果、誰も完全なものとして神の前に立つことができませんでした。それゆえ、神はご自身の子、イエス・キリストをこの世に遣わして、十字架の上でいのちを取られたのです。ユダヤ人クリスチャンはこの恵みに割礼と律法を付け加えようとしたのです。私たちも同じように、イエス・キリストの救いに正しい行いを付け加えようとしていないでしょうか。しかし、それは、神の恵みを否定することであり、神を冒涜することです。私たちの救いはイエスの十字架の死と復活で完成されました。「福音」とは、人間の努力で完成できなかった「救い」が、イエスの十字架の死と復活によって完成され、誰でもイエスを救い主と信じるなら、罪の赦しを受け、天の御国に入ることができると言うすばらしい知らせなのです。