イエスのエルサレム入城と宮清め

マルコの福音書11章1節~19節

マルコの福音書を1章から学んできましたが、11章から後半に入り、エルサレム入場から十字架の道へと繋がっていきます。今日は、イエスのエルサレム入場の意味と宮清めの意味について学びます。

1、エルサレム入城(1節~11節)

イエスはロバの子に乗ってエルサレムに入られました。それには二つの意味があります。群衆はイエスをローマの支配からユダヤの国を独立させるメシヤ(救い主)としてエルサレムに迎えようとしていました。もし、イエスが群衆の要求に応えて、ローマ兵隊を追い出す考えがあったならば、ロバの子ではなく、勇壮な馬にまたがってエルサレムに入場したのではないでしょうか。しかし、神の御心はイエスが人々の罪の身代わりとして、十字架に付けられ殺されることでした。その姿はイザヤ書に預言された苦難のしもべの姿でした。イエスは、自分がローマの兵隊を追い出すために来たメシヤ(救い主)ではないことを示すために、あえてロバの子に乗ってエルサレムに入られたのです。しかし、群衆はイエスに対して9節「ホサナ。祝福あれ主の御名によって来られた方に。」10節「祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に。ホサナ、いと高き所に。」と言って熱狂的に迎えたのです。(ホサナとはお救いくださいと言う意味です。)また、多くの人々が、自分の上着を道に敷き、葉の付いた枝を敷いたのは、イエスへの尊敬を表した行動でした。もう一つの意味は、旧約聖書のゼカリヤ書9章9節に「見よ。あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者でろばに乗って。雌ろばに乗って。」これは預言者ザカリヤが救い主の姿を預言した箇所です。ザカリヤはメシヤが雌ろばに乗ってエルサレムに入られることを幻で見たので、それを預言として伝えました。多くのユダヤ人は旧約聖書を読んでいたので、この個所も知っていたと考えられます。イエスはご自分が旧約聖書に記されているメシヤ(救い主)であることを示すためにイエスはロバの子に乗ってエルサレムに入られたのです。しかし多くの人々はそれを理解できず、イエスがローマの兵隊を追い出し、ユダヤの新しい王として就任することを期待し熱狂しホサナ、ホサナと叫びながら、イエスを迎えたのです。

2、宮清め(12節~19節)

イエスがエルサレムに入られ、最初にされたのが「宮清め」でした。15節「こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒された。」とあります。イエス様が宮に入られ驚いたことは、宮の中で、多くの者が商売している姿でした。人々は、宮にお金を納めるために、ローマのお金をユダヤのお金シェケルに両替しなければなりませんでした。また、牛や羊、鳩などは、祭司が傷がないと認めた物でなければ、神にささげることができません。そこで、商人たちは、祭司たちにお金を払い、祭司に傷がないと証明された牛や羊、鳩などを参拝者に売っていたのです。そのことは、参拝者の便宜を図るために必要なことでしたが、それが商売となるために、牛や羊の値段が高くなり、両替する手数料が生じ、また、祭司たちはそのことによってお金を受け取り、豊かな生活をしていたのです。イエスはそれを見て言われました。17節「そして、人々に教えて言われた。『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」イエスは彼らが、神を利用して金儲けをしている姿に憤りを感じたのです。12節から14節でイエスがいちじくの木を見て実がないかと近づいて行かれた時、葉の他は何もなかった(実が成っていなかった)イエスはそのいちじくの木に対して「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように」と言われました。そして、夕方の帰り道、弟子たちはその木が根元から枯れているのを見たのです。ここでイエスが呪われたいちじくの木はエルサレムの人々の信仰を表していました。いちじくの木が「葉しかなく実がない」状態をエルサレムの人々が形だけで神を礼拝し中身のない信仰であることを象徴的に表された出来事だったのです。

私たちは、この二つの出来事から何を学ぶでしょうか。エルサレムの人々はイエス・キリストを熱烈な歓迎で迎えました。しかし、彼らは神の御心を知ろうとせず、自分たちの願い(ユダヤの国の独立)のために神を利用したに過ぎませんでした。それゆえ、イエスがそのような軍事的活動を行わないことを知ると、イエスの前から人々が去って行き、最終的にイエスを十字架に付けて殺すことに同意したのです。現在も新興宗教と呼ばれる宗教がたくさんあります。彼らの多くは、お金が儲かる、成功する、有名になれる、病が癒されることを宣伝し多くの信者を集めています。しかし、キリスト教はそうではありません。キリスト教の中心は十字架です。神の子が神の栄光の姿を捨て人として生まれ、私たちの罪の身代わりとして十字架の上で死んでくださいました。また、イエスは神の子ゆえに死より三日目に復活して天に昇って行かれました。私たちはこのイエスを救い主と信じる時、私たちの罪は赦され天の御国に入ることができるのです。お金持ちになれる、なれない。病が癒される、癒されないは枝葉のことであり、私たちの魂が救われ天国に住まうことが大切なことです。ここから外れて、お金持ちになれる、病が癒されることを強調するなら、他の新興宗教の神々と何ら変わらないものになってしまいます。また、私たちの信仰生活、礼拝はどうでしょうか。彼らの礼拝は形だけとなり、気持ちの伴わない礼拝となっていました。合理的な考えが優先され、人間中心の礼拝になると、中身のない形だけの礼拝になってしまいます。私たちはどのような気持ちで礼拝に参加し、日々生活しているでしょうか。食事の前に私たちは祈ります。それは、この食事が神様から与えられた食べ物だと信じるからです。また、私たちはどのような思いで献金しているでしょうか。私たちの生活が神によって支えられ、神によって必要な物が与えられているという感謝をもって神に献金しているでしょうか。神は私たちの心を見ておられます。カインとアベルの話があります。アベルは神に一番良いものをという信仰をもって羊の初子を捧げましたが、カインはどうだったでしょうか。また、1レプタをささげたやもめの話もあります。イエスは彼女を見て誰よりも多くささげたと言われました。私たちの祈り、私たちのささげ物はどうでしょうか。慣れが出ると人は形だけになってしまいます。もう一度、私たちの信仰を顧み、神に喜ばれる祈り、ささげものとなりますようにお祈りします。