イエスの招きに応じる

ルカの福音書5章1節~11節
イエス・キリストは30歳から伝道の働きを始めて、33歳で十字架に付けられて殺されました。イエスが実際に伝道されたのは三年半という短い時間でした。これからしばらくこの短い時間にイエスがなされた働きについて学びたいと思います。
1、弟子を集め教育した(ガリラヤの漁師ペテロ)
イエスが十字架で殺された後、宣教の働きを担ったのは弟子たちでした。イエスは12人の弟子(12使徒)を選び、訓練してご自分の宣教の働きを委ねられました。その中心人物がペテロです。ペテロはガリラヤの漁師でした。ペテロが弟子になった経緯は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書で少しづつ違いがあります。ヨハネの福音書を見るなら、ペテロの兄弟アンデレは、バプテスマのヨハネの弟子になっていました。その後、バプテスマのヨハネがイエス・キリストを見て「見よ、神の子羊」と言うと、二人はイエスについて行ったとあります。そこで二人はイエスと時間を共にしました。イエスと出会ったアンデレはすぐに兄弟シモン(後のペテロ)にイエスを紹介しています。シモンに出会ったイエスは彼を見て「ケファ(ペテロ・岩)と呼ばれます。」と言いました。その後、ペテロがどうしたかは、ヨハネの福音書には書かれてありません。これは想像ですが、この続きが先程のルカの福音書の5章に繋がるのではないかと思います。ペテロはイエスと出会ってすぐに弟子となったのではなく、家に帰り漁師の仕事を続けていたとのではないか思われます。そのペテロの所にイエスが尋ねて来て、ペテロの舟に乗り群衆を教え始められました。話が終わるとイエスはペテロに4節「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」と言われました。ペテロはイエスに言いました。5節「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。」ガリラヤ湖の漁は夜明け前に行われていました。この時間、漁はすでに終わり、彼らは網を洗い終えていました。ペテロはこの時間に魚がいないことを知っていました。それでもペテロはイエスのことばに従ったのです。「でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」この時のペテロの気持ちはどうだったでしょうか。決して期待があったわけではありません。それどころか、無意味なことをと否定的な気持ちではなかったでしょうか。6節「そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになった。」とあります。7節「そこで別の舟にいた仲間の者たちに、助けに来てくれるよう合図した。彼らがやって来て、魚を二艘の舟いっぱいに引き上げたところ、両方とも沈みそうになった。」ペテロは驚いた事でしょう。8節「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。『主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。』」9節「彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。」とあります。漁師たちはここで育ち、この湖での漁の事は良く知っていました。この時間に魚が捕れないことは彼らにとって明らかなことです。しかし、イエスの言葉に従ったとき、彼らにとって想像もできないことが起こったのです。彼らは改めてイエスの権威と力のすごさに打ちのめされたことでしょう。イエスはシモンに言われました。10節「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」11節「彼らは舟を陸に着けると、すべてを捨ててイエスに従った。」とあります。マタイとマルコはこの出来事を省略して、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの兄弟がイエスに従ったことだけを記したものと考えられます。この出来事の大切なところは、イエスがペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを招いた事。そして、彼らがイエスの言葉に応答してイエスの弟子になったことです。ペテロはこの出来事を通して、8節「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と告白しています。ペテロは、イエスの権威と力の前に、自分の罪深さを知らされたのです。イエスの招きに応答するとき、自分の罪深さが分からなければ、イエスに従うことはできません。イエスが招かれたのは貧しい人々や罪人と呼ばれる人々でした。お金持ちや律法学者たちはイエスの権威を認めることが出来ませんでした。イエスが貧しい人々や取税人たちと食事をしているのを見て、律法学者パリサイ人たちはイエスを非難しました。その時、イエスは彼らに言われました。マタイの福音書9章13節「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」お金持ちや律法学者たちは、現在の生活に満足し、イエスの招きに応答しようとは思わなかったのです。
2、取税人マタイ
当時の取税人の仕事は、ローマ政府に雇われ、ユダヤ人から税金を集めることでした。それゆえ、取税人はユダヤ人から嫌われる仕事でした。それでも、大金を得ることができる仕事であったので、マタイはお金持ちになりたくて取税人という仕事を選んだのかもしれません。しかし、実際には人々から嫌われ売国奴と罵られる仕事でした。マタイはこの仕事に疑問を持ったのではないでしょうか。そんな時に、マタイはイエスに招かれたのです。マタイの福音書9章9節「イエスはそこから進んで行き、マタイという人が、収税所に座っているのを見て、『わたしについて来なさい』と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。」とあります。この時、マタイは罪の自覚があり、新しい生き方を求めていたのではないでしょうか。それゆえ、彼は、大金を稼ぐ仕事を未練なく捨てて、イエスの弟子となることを選んだのです。
イエスは律法学者パリサイ人たちに13節「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」と言われました。イエス・キリストの誕生は、私たちを罪から救うためです。それゆえ、自分の罪の大きさが分からない人には、イエスの誕生の意味や働きを理解することはできません。ペテロはイエスの奇蹟を通して、自分の罪深さを自覚しました。マタイは取税人という仕事を通して、罪の自覚がありました、この後、登場するパウロは、イエスと出会う前、キリスト者を迫害したという罪の自覚がありました。罪の自覚無くして救いの喜びはありません。罪は私たちに滅びをもたらすものです。イエス・キリストはその罪から私たちを救うために、神の姿を捨てて人として誕生されました。また、あの十字架の上で私たちの罪の身代わりとなられました。罪の赦しは真のいのちでしか贖うことが出来ません。イエス・キリストは自らのいのちを犠牲にすることによって、私たちの救いを完成されたのです。それは、どれほど大きな出来事でしょうか。しかし、その偉大さを理解するためには、自分の罪の問題と向き合わなければなりません。自分の罪の大きさを認めた者こそ、イエスの十字架によって与えられる、救いのすばらしさを体験し、恵みとして救いを受け取ることが出来るのです。