イエス・キリストの誕生と永遠のいのち

ヨハネの福音書3章16節

クリスマスおめでとうございます。今年も皆さんと共にイエス・キリストの誕生をお祝いできますことを感謝します。クリスマスは、神の子であるイエス・キリストが神の姿を捨てて一人の人間として生まれてくださったことをお祝いするお祭りです。しかし、日本のクリスマスは、イエス・キリストが抜けてしまい、サンタクロースが主役となっています。多くの人々の関心は、クリスマスプレゼントやクリスマスパーティーにあるようです。私も教会に来るまでは、そのようにクリスマスを過ごしていました。なぜ、世界中でクリスマスを祝うのか考えたこともありませんでした。今日は、二千年前に生まれたイエス・キリストの誕生と、今の私たちとの関係について考えます。

旧約聖書の中心はアブラハムの子孫であるイスラエルの民です。神はアブラハムを選び、彼の子孫を祝福すると約束されました。それから、アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブからイスラエルの12部族が生まれました。また、神はアブラハムに約束された地カナンの地をイスラエルの民に与えられました。しかし、彼らはその神を忘れ、ほかの神々を祀るようになってしまいました。神は、イスラエルの民を怒り、北イスラエルはアッシリヤによって、南ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされました。しかし、その後、70年して、彼らは捕囚から許され、国を再建することができました。しかし、依然として独立することが出来ず、イエス・キリストが誕生する時、国はローマ政府によって支配されていました。旧約聖書には救い主(メシヤ)が誕生すると預言されています。それゆえ彼らは長い間、救い主(メシヤ)を待ち望んできました。しかし、彼らは、しだいに、ローマ政府の支配から助け出す救い主を待ち望むようになっていったのです。

イエス・キリストは30歳になった頃より、宣教の働きを始めました。しかし、その働きは、病人を癒し、福音を語り、貧しい者の友となることでした。初め、人々はイエス・キリストの奇跡を見て、この方こそ救い主と期待しました。しかし、イエスが彼らの願うような救い主でないことを知ると、人々はイエスから離れてしまいました。それを見ていた、律法学者パリサイ人、祭司たちはイエスを捕らえ、裁判にかけ、神を冒涜した罪で、死刑の判決を下しました。そして、ローマ総督ピラトの所に連れて行き、十字架に付けて殺すように要求したのです。イエス・キリストには十字架の死を避ける道がありました。彼は神の御心が、人々の罪の身代わりとして死ぬことにあることを知り、神の御心に従って十字架での死を受け入れたのです。しかし、イエス・キリストは神の子であったゆえに、罪に支配されることなく、死より三日目に復活して、天の父のもとに上って行かれました。聖書は、イエス・キリストを神の子と信じる者の罪は赦すと約束しています。なぜなら、イエスの死は、私たちの身代わりの死であったからです。私たちが受けるべき神の刑罰は、イエス・キリストがすでに十字架の上で受けてくださいました。もし、イエス・キリストが死より復活することが出来なかったとしたら、私たちの罪の問題は解決することはありませんでした。しかし、イエス・キリストが死より復活して、今は、父なる神と共におられます。それゆえ、私たちの罪は赦され、天の御国で神と共に永遠に暮らすことが出来るようになったのです。

ヨハネの福音書3章16節のことばをもう一度見てください。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神は愛であり、すべての人が滅ぼされることを捨てておくことが出来ませんでした。そこで、神はこの問題を解決するために、ご自身の一人子イエス・キリストを人としてこの地上に誕生させられたのです。神の姿では死ぬことが出来なかったので、肉体を持つために人として誕生されたのです。そして、イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとして十字架の上で命を犠牲にされました。また、イエス・キリストは神の子ゆえに、死より三日目に復活され、天の父なる神のもとに昇って行かれたのです。

ユダヤ人たちは、自分たちの国をローマ政府から独立させる、救い主(メシヤ)を待ち望みました。しかし、神は、私たちの罪の問題を解決する救い主を私たちに与えてくださったのです。私たちの一番の問題は「死」です。誰もこの死から逃れることはできません。死が怖い理由は、死んだ後どうなるかわからないからです。人は、死んだ後どうなるのでしょうか。ある人は「無」、何もなくなり、天国も地獄もないと考えます。本当にそうでしょうか。私たちは、「天国と地獄」があると感じるから、死を恐れるのではないでしょうか。死んだ後、私たちは天国に迎えられるでしょうか。それとも、地獄で神の裁きを受けるのでしょうか。誰もわかりません。だからこそ、人は死を恐れるのです。聖書は、明確に、罪ある者は天の御国に入ることが出来ないと教えています。イエス・キリストはこの罪の問題を解決するために、人として誕生されました。イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪の身代わりの死でした。聖書は、イエス・キリストを神の子と信じる者は罪を、赦されて救われると教えています。イエスを神の子と信じるということは、イエスが処女のマリアから生まれたことを信じ、イエスが死より三日目に復活されたことを信じるということです。「イエスの処女降誕と死よりの復活」は、イエス・キリストが神の子であることの証明です。しかし、そのことは人間の知恵で理解できることではありません。人間の知恵を超えた神の御業です。神を信じるとは、神の約束を信じることです。イエスを神の子と信じることは、人間の理解を超えた、神の領域です。それゆえ、私たちがイエスを神の子と信じるためには、神の助けが必要なのです。人間が努力して理解できる神は神ではありません。人間の理解を超えておられるからこそ真の神なのです。しかし、神はご自身を私たちに分かりやすく明らかにしてくださるために聖書を与えてくださいました。私たちは、聖書が神のことばであり、神ご自身を明らかにしてくださった書物だと信じています。聖書が神のすべてを教えるわけではありませんが、私たちが神について知る必要があることはすべて聖書に記されています。その聖書が、イエス・キリストは神の子ゆえに処女マリアから生まれ、十字架に付けられ殺された後、三日目に死よりの復活し天に昇って行かれたと教えています。イエス・キリストが十字架で殺されて終わりならば。イエス・キリストは神の子ではないということです。それならば、イエスの十字架の死は二千年前の歴史の出来事でしかありません。しかし、イエスは死より三日目に復活して、天に昇って行かれました。それは、彼が神の子であり、私たちの救いの道を完成されたということです。イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪の身代わりです。それを信じる時、私たちの罪の問題も解決され、私たちは罪赦された者として、天の御国に迎えられる者とされるのです。それを聖書は「永遠のいのちを持つ」と教えています。この「永遠のいのち」は、イエスを神の子と信じる者に、誰にでもただで与えられる神からのプレゼントなのです。