心の貧しい者のために生まれた救い主

ルカの福音書2章8節~20節

クリスマスは、神の子イエス・キリストが人間の赤ちゃんとしてお生まれになられたことをお祝いするお祭りです。この驚くべき出来事を最初に主の使いから伝えられたのが羊飼いたちでした。当時のユダヤ社会では、羊飼いは貧しい職業でした。また、ユダヤ教の指導者パリサイ人律法学者たちは、彼らが安息日や神の戒めを守らないので、罪人呼ばわりし、神に呪われた人々と蔑んでいました。しかし、神は主の使いを通して、この社会から疎外された羊飼いたちに、幼子イエス・キリストの誕生を最初に知らせたのです。主の使いは彼らに言いました。ルカの福音書2章10節~12節「御使いは彼らに言った。『恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりましたこの方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉桶で寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。』」神はなぜ、貧しい羊飼いたちにこの喜びの知らせを伝えたのでしょうか。実は、神様の祝福の手は、神に仕える祭司たちやユダヤ教の指導者たちではなく、貧しい羊飼いや罪人と呼ばれる貧しい人々に向けられていたのです。イエスが30歳で宣教の働きを始められた時も、イエスの目は貧しい人々や病人に向けられていました。ある時、イエスと弟子たちが、取税人たちや罪人たちと食事をしているのを見て、パリサイ人たちが弟子たちに言いました。「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」ここでイエスが言われた「罪人」とは犯罪者のことではありません。神の戒めを守ることのできない、貧しい人々を律法学者パリサイ人たちは彼らを蔑んで罪人と呼んでいたので、イエスはあえて彼らを「罪人」と呼び、彼らを救うために来られたと言われたのです。

病院が好きで、病気でもないのに病院に行く人がいるでしょうか。しかし、どんなに病院が嫌いでも、病気になれば急いで病院に行きます。病を治してほしいからです。また、お腹いっぱい食事をした人の前に、どんなご馳走を出しても手を出すことはないでしょう。しかし、お腹がすいていれば、ご飯だけでも喜んで食べます。それは、その人が医者を必要とし、食べ物を必要としているからです。イエスはマタイの福音書5章3節でこのように言われました。「心の貧しい人は幸いです。天の御国はその人たちの者だからです。」イエスがここで言われた「心の貧しい人」とは、貧乏な人のことではありません。この世の富や名声で満足できない人のことです。お金持ちや地位の高い人はこの世の物で満足し、神を求めません。しかし、そのようなこの世の物で心の満たすことのできない人々こそ、神を求める人です。イエスは、ほかの箇所で、「求めなさいそうすれば与えられます。」と言われました。イエスが生まれた時、王族や貴族、お金持ちはたくさんいました。しかし、神はそのような人々ではなく、貧しい羊飼いにこの喜びの知らせを伝えました。それは王様や貴族、お金持ちたちはこの世の富で満足していたからです。神やイエス・キリストはそのような人に興味ありません。神は常に、心の飢え渇いた者と共におられます。

私たちはこの世で満足する者でしょうか。それとも、神の祝福、天の御国を求める者でしょうか。求めなさいそうすれば与えられますとイエスは言われました。私たちは、今、何を求めているでしょうか。この世の祝福でしょうか。神の祝福でしょうか。私たちの心の中はどうでしょうか。もし、心が暗闇で覆われ希望がないならば、今日、イエス・キリストが私たちの心に希望の光をともしてくださいます。光は闇の中に輝いている、闇はこれに打ち勝たなかったとあります。どんなくらい心の闇でも、光は心の中で希望の光を照らしてくださいます。今は、戦争や新型コロナウイルスのために、将来に希望を持てない時代です。しかし、今日、私たちの心の中に、光なるイエス・キリストを迎えるなら、心の闇に光がともり、新たな希望を持つことが出来ます。そのことを心に留め、共にキャンドルサービスを行いましょう。