ハンナの祈りとサムエルの誕生

サムエル記第一1章1節~11節

ルツ記においてナオミの苦しみについて学びました。それに引き続き、サムエル記第一ではハンナの苦しみから始められています。男性中心の社会において、このように女性の苦しみを取り上げているのは、神にとって男性、女性の区別なく共に愛しておられることの証しであると思います。

1、ハンナの苦しみ(1節~8節)

ナオミの苦しみは、夫と二人の息子を失うという悲しみでした。ハンナの苦しみは子を産むことが出来ないという苦しみです。アブラハムの妻サラの時もそうですが、当時の男性中心の社会で女性に求めることは、子を産み子孫を残すということでした。それが出来ない女性は神の祝福を受けることが出来ない女性。呪われた女性として世間から低く見られていました。ハンナの夫エルカナはハンナを愛していましたが、ハンナが子を産めないために、もう一人の女性ペニンナも妻に迎えていました。当時としてはそれが普通のことでした。ペニンナは子を産み、その事がさらにハンナを苦しめることになりました。ペニンナも可哀そうな女性です。夫エルカナはハンナを愛していることは明らかでした。自分は子を産むために妻に迎えられた。夫に愛されない女性ペニンナの悲しみは、怒りとなり、ハンナに向けられました。ペニンナはハンナに自分がエルカナの子を産んだことを誇り、ハンナを苛立たせたとあります。ペニンナの立場を考えると、そうせざるを得なかったのでしょう。しかし、ハンナはその事でさらに苦しめられていました。夫のエルカナは二人の女性の悲しみ、苦しみにどれだけ気が付いていたのでしょうか。4節5節「そのようなある日、エルカナはいけにえを献げた。彼は、妻のペニンナ、そして彼女のすべての息子、娘たちに、それぞれの受ける分を与えるようにしていたが、ハンナには特別の受ける分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。」とあります。聖書によれば、感謝のいけにえの一部は、祭司やささげた者に分け与えられ食事をすることになっていました。4節~8節の場面は、エルカナとその家族との食事の場面です。ペニンナは自分の子どもたちと楽しく食事をしたでしょう。しかし、それを目の前で見るハンナにとっては辛い食事でした。エルカナはハンナのことを思って「特別の受ける分をあたえた」のでしょうが、彼女にとってそれは慰めにもなりませんでした。

アブラハムの妻サラの場合、彼女も子を産めないために、夫アブラハムに自分の女奴隷ハガルをアブラハムに妻として差し出しました。ハガルはアブラハムの子を身ごもると高慢になり、サラを見下げるようになりました。そこで、サラは自分の立場を守るためにハガルをいじめたとあります。ハガルはサラのいじめに耐えかねて、アブラハムの家から逃げ出しました。神は逃げ出したハガルに現れ、身を低くしてアブラハムの家に帰るように諭しました。彼女はアブラハムの家に帰り、イシュマエルを産みました。ハンナも夫エルカナが自分を愛しているのを知っていましたから、ペニンナを追い出すことも出来たでしょう。しかし、彼女は問題の解決がそこにあるのではないことを知っていました。彼女の苦しみの原因は子を産めないことであり、神が自分の胎を閉じておられることでした。この問題を解決できるお方は神しかおられません。そこで、彼女は激しく泣いて主に祈ったのです。

2、ハンナの祈り(9節~11節)

 10節11節「ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。そして誓願を立てて言った。『万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。』」「その子の頭にかみそれを当てません」とは、ハンナがナジル人の誓願をしたということです。ナジル人の誓願については士師記のサムソンのところでお話ししました。ナジル人の誓願をした者は、「髪を切らない。ぶどうの実を食べない、ぶどうの実で作ったお酒を飲まない。汚れた者(死体)に触れない」ことが守るべき条件となっていました。しかし、サムソンその誓いを守りませんでした。

ハンナは生まれた子を、主にお渡しします。主の働きのために献げますと祈ったのです。20節「年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして、『私がこの子を主にお願いしたのだからと言って、その子の名をサムエルと呼んだ。』」とあります。神は彼女の祈りに耳を傾け、男の子を与えられました。そしてその子が乳離れしたとき、ハンナは祭司エリの所に連れて行き、彼に幼子を預けました。ハンナの祈りは個人的な問題を解決してほしいとの祈りでした。それに対し、神は祭司エリに代わる神の教えに従う祭司を求めていました。ハンナの祈りは神の御心に叶った祈りだったのです。キリスト教の祈りは、何でも祈ったら叶えられるという祈りではありません。祈りは、神の御心に叶うとき、神は喜んで祈りを叶えてくださいます。神は、ハンナの祈りに応えて男の子を与えてくださいました。そして、その子はサムエルと名付けられ、神に仕えるために、祭司エリに預けられたのです。それだけではありません。2章21節「主はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。」とあります。神はハンナのために三人の息子と二人の娘をも与えられたのです。

私たちの祈りはどうでしょうか。自己中心な祈りや自分の欲望を満たすために祈っていないでしょうか。また、私たちは神に祈る前に、自分の知恵、力に頼っていないでしょうか。先程のアブラハムの妻サラは、年を取り自分が子を産めないと考え、自分の女奴隷ハガルをアブラハムに与えました。それは、彼女が祈って行ったのでしょうか。そうではありません。彼女は自分の考えに従ったのです。その結果、彼女はハガルから蔑まされるようになりました。そこで、今度はハガルをいじめて追い出しました。それも祈りの結果ではなく、彼女の感情、考えが優先したことです。サラの夫アブラハムもサラの申し出に対して祈ることなく、ハガルを妻に迎えています。そして、アブラハムが100歳、サラが90歳で神様の約束の子イサクが生まれました。しばらくしてサラは、イシュマエルがイサクをからかっているのを見て、アブラハムに、ハガルとイシュマエルを追い出すように願いました。アブラハムはサラのことばに従ってハガルとイシュマエルを追い出したのです。この出来事の発端は、サラが神に祈らないで、問題解決のために自分の女奴隷ハガルをアブラハムに与えたのが原因でした。アブラハムも祈らずにハガルを受け入れました。信仰の父と呼ばれるアブラハムでもこのような失敗をしています。私たちも同じような失敗を犯しやすい者です。しかし、ハンナは違いました。苦しみの中でその問題の本質を理解し神に助けを祈り求めたのです。私たちはどうでしょうか。ハンナのように神の御心を求めつつ祈る者でしょうか。それとも、サラのように自分の感情に流され、自分の知恵や力にたよって問題を解決しようとするものでしょうか。祈りとは自分の必要を満たすために祈るのではありません。祈りによって神様と深く交わることが出来ます。「朝の祈りがあなたを変える」という本がありました。一日の初めに、聖書を読み、祈ることによって私たちの行動が少しづつ変えられるという教えです。ハンナのように私たちにも問題があります。その問題を神様に差し出し祈るとき、私たちの心にも平安が訪れるのです。