ペテロの生涯(1)イエスとの出会い

ルカの福音書5章1節~11節

新約聖書において一番多く登場する名前はイエス・キリストです。その次に多いのがペテロと言う名ではないでしょうか。彼はイエスが選ばれた12使徒の中で頭的存在でした。今日からしばらく、ペテロの生涯を通してイエス・キリストについて、また、教会の誕生について学びます。

1,イエスとペテロの出会い

四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の中に、イエスとペテロの出会いが記されていますが、それぞれ、違う表現で表されています。なぜ、それぞれに違いがあるのでしょうか。また、私たちはどのようにイエスとペテロの出会いを理解したらよいのでしょうか。

(1)ヨハネの福音書1章35節から42節

時間的な経過から考えるならば、ヨハネによる福音書の記事が一番初めだと考えられます。はじめにバプテスマのヨハネが登場し、イエスが歩いているのを見て「見よ、神の子羊」と言いました。それを聞いた二人の弟子がイエスについていったとあります。そのうちの一人はアンデレ(ペテロの兄弟)もう一人は、名前は出て来ませんが、この福音書の著者である使徒ヨハネにあると考えられます。この二人は、ガリラヤ湖の漁師でありましたが、神の国を求めて、バプテスマのヨハネのところに話を聞きにたびたび訪れていたのではないかと思われます。その師である、バプテスマのヨハネが、イエスを指して「神の子羊」と言われたのを聞いて興味を持ち、イエスについていったのです。二人はイエスの泊まっておられるところに来て、イエスから神の国について教えを受けたものと考えられます。アンデレは、このイエスとの出会いを喜んで兄弟であるペテロに報告しました。41節「彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、『私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った』と言った。」とあります。また、42節「彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンを見つめて言われた。『あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ「岩」)と呼びます。』」と言われたのです。この後、ペテロはどうしたのでしょうか。ヨハネの福音書では、次に、ピリポとナタナエルの会話が続き、二人がイエスの弟子となったことが記されています。実は、ペテロはこの時すぐに、仕事を捨ててイエスに従ったのではありませんでした。

(2)ルカの福音書5章1節から11節

ルカの福音書を見ると、イエスがペテロの仕事場に現れたことが記されています。ルカの福音書5章1節2節「さて、群衆が神のことばを聞こうとしてイエスに押し迫って来たとき、イエスはゲネサレ湖の岸に立って、岸辺に小舟が二艘あるのをご覧になった。漁師たちは舟から降りて網を洗っていた。」とあります。漁師たちはすでに朝の仕事を終えて、網を洗っていました。その日は魚も取れず暗い気持でした。その網を洗っている漁師の中にペテロもいました。ペテロは長男であり漁師の跡取りでした。また、彼にはすでに妻がおり家族を養わなければならない立場にありました。それを考えると、漁師の仕事を捨ててイエスの弟子になることは大きな決断を必要としました。それゆえ、ペテロはこの時、まだイエスの弟子となることに決心がついていなかったものと思われます。イエスはそんなペテロの舟に乗り陸から少し漕ぎ出すように言われ、ペテロの舟から群衆にお話になられたのです。イエスの近くでイエスの話を直接聞いたペテロは、どのような思いだったでしょうか。話を終えられるとイエスはペテロに言われました。4節「深みに漕ぎ出し、網を降ろして魚を捕りなさい。」ペテロたちは夜通し働いたのに何も取れなかったのです。それゆえ、失望して網を洗っていたのです。ペテロはイエスに答えました。5節「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも。お言葉ですので、網をおろしてみましょう。」この時のペテロに期待や希望はありませんでした。彼らは、夜通し働いたのに何も取れなかったのです。しかも、今は魚が集まる時間でもありません。ペテロの心の中には無駄なことをという気持ちがあったでしょう。しかし、実際に網を降ろしてみると、6節「そして、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網がやぶれそうになった。」とあります。一匹や二匹の魚ではなく、網が破れそうになるほど、舟が沈みそうになるほどの魚が網にかかったのです。8節「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。『主よ。私から離れてください。私は罪深い人間ですから』」イエスはシモン(ペテロ)に言いわれました。10節「恐れることはない。今から後、あなたは人間を捕るようになるのです。」そして

11節「彼らは舟を陸に付けると、すべてを捨ててイエスに従った。」のです。マタイによる福音書とマルコによる福音書は、ここまでの流れを簡単に省略して、ペテロやアンデレ、ヤコブとヨハネがイエスに呼ばれて、すぐに従ったように書き記したのです。聖書が作られた順番を考えると、ヨハネの福音書が一番最後に作られました。それも、ヨハネが歳を取った晩年に作られたと言われています。その時には先の三つの福音書はすでに書かれていました。ヨハネは、三つの福音書を読んだ後、さらに、詳しく自分たちとイエスの出会いを書く必要を覚え、この出来事をヨハネの福音書の中に書いたものと思われます。

2、結論

このガリラヤ湖での奇蹟は誰のために行われた奇蹟でしょうか。イエスはペテロと初めて会った時から、彼を弟子として必要としていました。それゆえ、イエスは彼にペテロ(岩)という名を与えたのです。しかし、ペテロの方では、まだイエスに従う決心ができていませんでした。それゆえ、あえて、イエスはペテロの仕事場であるガリラヤ湖を訪れ、ペテロの舟に乗り、この奇跡を体験させたのです。このことは私たちに何を教えているでしょうか。それは、神を信じるとは、神を第一とすることであり、家族を第一にしてはいけないことを教えています。マタイの福音書10章37節「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしいものではありません。」とイエスは言われました。家族を愛することは大切なことですが、神よりも家族を愛すること(優先する)ことは許されないのです。なぜなら、神ご自身が私たちを愛し、ひとり子を犠牲にされたから、また、イエス・キリストは私たちを罪から救うために十字架についていのちを犠牲にされたからです。また、神は私たち一人一人に使命を与えてくださいました。ひとりひとりその働きは違います。イエスはペテロを十二使徒の頭と初めから定めておられました。それゆえ、彼にペテロ(岩)という名を与え、ペテロの仕事場まで足を運んだのです。私は初めから牧師になることを願っていたわけではありません。牧師の仕事が大変であり、自分には向いていないと思っていました。しかし、洗礼を受けてしばらくすると、神からの圧力を感じるようになりました。自分には牧師は向いていない、しかも、洗礼を受けて間もないと言うことを理由に、神の圧力を否定し無視しようとしました。しかし、その圧力は次第に強くなり無視できなくなりました。そして、ある時、神は御ことばを通して私に決心を迫ったのです。その御ことばがヨハネの福音書15章16節の御ことばです。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父があなたがたに与えてくださるようになるためです。」私はこの御ことばに胸を打たれました。私が教会に来たのは、私が教会を捜したからではありませんでした。その時の私は教会や神に興味を持っていたわけではありません。ただ、公園で写真を撮っているときに、若い宣教師のグループに誘われて教会に行っただけです。それゆ、御ことばが示すとおりに、私が神を選んだのではなく、神が私を選んだと言う言葉に反論することができませんでした。ただ、私が神の圧力に抵抗していたのは、自信がなかったからでした。私はこの御ことばによって心砕かれ、神に従うことを決心したのです。神に従うのに、能力は必要ありません。神がすべての必要を満たしてくださいます。神に従う道は色々あります。牧師、宣教師、教会の役員、奉仕者。神は私たちを愛し、私たちを用いたいと願っています。イエスは、献身を迷うペテロの職場まで足を運んでくださいました。神は聖書のことばを通して私たちに近づいてくださいます。自分自身の能力や力を見ないで、神の力により頼むとき、神は私たちの力を超えて働いてくださるのです。