実を結ぶ人生

ヨハネの福音書15章1節~11節

先週は、種蒔きのたとえを通して、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ人生について学びました。実を結ぶ人は、御ことばを聞いて悟る人(理解して行う人)だとイエス様は言われました。では、実を結ぶ人生とはどのような人生のことでしょうか。聖書全体から理解できることは、(1)お金持ちになることではない。(2)有名人になる事でもない。(3)事業に成功することでもない。(4)病気をしないことでもない。(5)長生きすることでもない。(6)悲しみや苦しみのない人生でもありません。

1、ぶどうの木と枝のたとえ

では、実を結ぶ人生とはどのような人生のことを聖書は教えているのでしょうか。ヨハネの福音書15章5節「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」とイエスは言われました。ヨハネの福音書15章は、有名なぶどうの木のたとえ話です。ここで、イエスは、農夫を父なる神。ぶどうの木をイエスご自身。ぶどうの枝を私たちに例えています。このたとえ話で大事なことは、木と枝の関係です。4節「枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」とイエスは言われました。先週の「種蒔きのたとえ」では、良い地に蒔かれた種が、百倍、六十倍、三十倍の実を結びました。この「良い地」とは、私たちの心が、御ことばを聞く準備ができた状態を指していました。この「ぶどうの木と枝」のたとえ話も、木と枝の関係とおして、私たちとイエスとの関係について教えています。枝が木につながっていなかったら、枝だけでは実を結ぶことができないのは当たり前のことです。枝が木につながっていて、その養分を受けて枝は実を結びます。それと同じように、私たちがしっかりとイエスにつながっていないと実を結ぶことはできなのです。では、イエスにつながるとはどのようなことでしょうか。9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」イエスの愛にとどまるとは、イエスの私に対する愛を信じると言うことです。イエス・キリストの愛は、十字架の死に象徴されています。イエスの死は、私たちの罪の身代わりの死でした。そのイエスの十字架の死に自分の罪も含まれていることを信じることです。

2、御つばさの陰

イエスの愛にとどまるとは、苦しみや悲しみのない人生、禍に遭わない人生を生きると言うわけではありません。ヨハネの福音書15章2節「わたしの枝で実を結ばないものはすべて、父がそれを取り除き、実を結ぶものはすべて、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」とあります。「刈り込みをする」とは、たくさんの実を結ぶために余分な部分を切り取るという作業です。実際に、たくさんの実を付けるために、刈り込みをしなければ、たくさんの実を結ばせることはできないそうです。神は、私たちが豊かな実を結ぶために、余分な物を取り除かれます。ダビデは、少年の時に神がイスラエルの王に選び、サムエルより正式な王として油を注がれました。しかし、ダビデはすぐにイスラエルの王に就任したわけではありません。サウル王はダビデを自分の王位を狙う者として、彼のいのちを狙いました。それゆえダビデはサウル王から逃げ回らなければなりませんでした。そのために、荒野で暮らし、また、敵国であるペリシテの国に亡命して暮らしました。これは、サウル王の一方的な妬みで、ダビデには何の落ち度もありません。ダビデは、サウル王に対して何も罪も冒さなかったのに、犯罪者のように逃げ回らなければならなかったのです。しかも、ダビデはサウル王を殺す機会を二度も得ましたが、二度とも、主に油注がれた者に手をかけてはいけないと、部下たちを抑えて、サウル王のいのちを取りませんでした。ダビデはこの苦しみを神に委ね、神によってサウル王が裁かれることを願ったのです。ダビデは、この苦しみを通して、神への従順を学びました。苦しみには色々な意味がありますが、ダビデがイスラエルの王に成るためには、この苦しみを経験しなければならなかったのです。ダビデはこの苦しみを通して、神の愛と御守を学ばなければなりませんでした。この御守りこそ、昨年の年間聖句「御つばさの陰に身を委ねることでした」ダビデの受けた苦しみは、ぶどうの枝を刈り込む行為にひとしい苦しみでしたが、ダビデはこの苦しみを通して神の御守りを学んだのです。

3、神にすがりついたヤコブ

旧約聖書に登場するヤコブは、兄の長子の権利を奪い、父をだまして兄の受ける祝福を奪い取った男です。確かに、兄の弱みに付けこんで長子の権利を奪った事、また、父をだまして兄の祝福を奪ったことは悪いことですが、それ以上に、ヤコブが神の祝福を願い求めていたことは事実です。ヤコブは兄の祝福を奪い取ったことで、兄に憎まれてしまいました。兄エサウは、父が死んだ後にヤコブをも殺してやろうと考えました。それを知った母リベカはヤコブのいのちを助けるために、自分の兄ラバンのところに行くようにヤコブを送り出したのです。ヤコブは初めて荒野で一夜を明かすことになりました。その時、ヤコブは夢で、天に届く梯子を天使たちが上り下りする夢を見たのです。そこでヤコブははじめて、自分の近くに神がおられることを知りました。ヤコブにとって、神はアブラハムの神であり、イサクの神でした。この時初めて、ヤコブは自分の神として、初めて神に出会ったのです。また、ヤコブは20年後にエサウのいる故郷に帰ることになりました。しかし、ヤコブは兄エサウの怒りが怖くて故郷に帰るのを恐れました。ヤコブはそこで、神と格闘して神にしがみつきました。そこで、ヤコブはもものつがいを外され、足を引いて歩く者になりましたが、この時に、神よりイスラエルという名をいただいたのです。ヤコブはこの時、初めて神にすがりつくことを学んだのです。

4、結論

聖書で教える救いは、神様の約束を信じることによって与えられます。それには、特別な体験は必要ありません。救いとは神様の約束だからです。しかし、神様との関係は、神様との個人的な体験が必要です。神の愛は私たちが愛されて初めて得る神様の恵みです。いくら聖書を読んで勉強しても、神との親しい関係がなければ、神の愛を知ることはできません。ヤコブが家にいる時に見ていた神はアブラハムの神、イサクの神でした。ヤコブが家を出て荒野で一人でいる時にヤコブは神と一対一の出会いをしたのです。その後、ヤコブが故郷に帰る時、自分の力ではどうしようもできない問題に苦しみました。その時にヤコブにできることは神にしがみつくだけでした。この体験を通してヤコブは神の愛を知り、神につながることを覚えたのです。キリスト教は個人的な決断を必要とする宗教です。親がクリスチャンでも、自分にとって神とはどのような存在なのか、神との関係をどうするかは、自分で決断をしなければなりません。神の存在を信じるだけが信仰ではありません。神は私を愛し、苦しみの時には、その御手で守ってくださる、父なる神です。イエスにつながる、イエスの愛にとどまるとは、私たちがイエスの愛を信じ、その愛にとどまる決心をしたとき、イエスはその愛で私たちを満たしてくださるのです。